大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

日本語こそ聖書の奥義を解決する鍵

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/e54c52e34efe98319e6fbdf50e36ec99
<転載開始>

https://www.youtube.com/watch?v=86j_FNsV-6s&list=PLLtoCA_44HColINqBd0IC5N2T7j5JKdmQ&index=7

リンク多数

http://web.archive.org/web/20170502091607/http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1053

日本語こそ,聖書の奥義を解明する鍵

投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月20日(土)22時15分45秒
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個人的にはここから始まったんですが...........

ヨブへの答え その5・教会の原理と精霊の原理

『キリストの死が人間を救うためではないとすると,
それは何を意味しているというのであろうか。

それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。

(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。

さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか。』

驚くべきことにエフライム工房のご主人は「エリ・エリ・
レマ・サバクタニ」をこう説明する............

さて、肝心のイエスの言葉だが、レマというのはエジプ
ト語rmaで「腕に」という意味である。rは前置詞で「~に」、maは「腕尺のマ(=間)」。最後のサダクタニは「裁く手(タ)に」だから、全体では「神よ、裁きの御手に委ねます」が正しい事になる

ルカの方が圧倒的に近いが、それでも「私の霊を」は余計。本当は、十字架に掛けたユダヤ人達を自らは裁くことなく、御父の裁きの御手に委ねるという意味なのである。

イエスは裁かない人なのだから、至極当然である。それにしても、どうしてマタイのような解釈になったのか?イエスの時代にはアラム語が公用語で、ギリシャ語やラテン語も使われていた。さらに、復元されたヘブライ語が聖職者の間で用いられていたために、多分に混乱が生じたのだと思う。イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた日本語にこそ、聖書の奥義を理解する鍵が隠されていたのである。日本語は本当に尊いのですよ。

https://satehate.exblog.jp/18530991/

tatsujinさんのページで紹介されていましたが

エフライム工房

『カインをぶら下げている日本人』 16.イエスが

話した日本語

エフライム工房さんのサイトより
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/kain16.htm

とても興味深いですね

うちでは、これを載せてみようっと

今までは、主に旧約聖書のエピソードを解説してきた。

だが、イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた

言葉は旧約の世界に留まらない。その良い例としてイエスの有名な言葉を取り上げたい。

イエスが十字架に掛けられ、最後に発した言葉が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」である。

この意味は、

「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
マタイによる福音書27章-46、

「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章

-46、

と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?

途中ですが管理人注:ルカによる福音書に座布団10枚!!

この疑問に対する回答は、やはり古代エジプト語と古代
イスラエルの言葉である日本語によって成される。先ず、最初のエリであるが、これは日本で昔から行われてきた魞(エリ)漁にヒントがある。魞漁は定置網の一つだが、網の張り方が衣服の襟(エリ)の形をしている。ここには神の名前の本質が隠されている。要するに、神様が両腕を輪にして人を救う形がエリなのである。だから、エリと付く物は全て同じ形となる。

神がエリと呼ばれたのは、旧約時代のヤハウェは人々
を魞漁のように囲う形で救済したからである。だが、新約のイエスは異質である。それは、投網による漁のように、積極的に人々を救済する姿勢に表れている。イエスの弟子が漁師というのは、実はこの積極的な救済の象徴(注:イエスは魚座の象徴)

なのである。旧約のヤハウェは網に入るのを待ちの姿勢。対して新約のイエスは網を投げて捕まえに行く姿勢。

この姿勢の違いが、旧約と新約の神が異なって見える理由なのである。

ところで、網というのはネット・ワークという言葉のように、
組織の象徴ともなる。この場合の組織とは教会である。

従って、教会に属さない人は漁師としてふさわしくない事になり、イエスの教えに連なる事は出来ないのである。

だから、既存の教会に属すか、あるいは自分で教会を構築するか、いずれかが求められる事になる。

さらに、投網を投げるように、積極的な活動が求められるのである。この活動が出来ない者はクリスチャン

として失格かも?

ヨブへの答え その1・オリーブの木
ヨブへの答え その2・全能者よ,私に答えよ!
ヨブへの答え その3知恵の女神ソフィア
ヨブへの答え その4・神の非道
ヨブへの答え その5・教会の原理と精霊の原理

ヨブ記でわかったこと

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:

2012年11月 7日(水)16時52分8秒

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ちょっと余談ですが...........

関連URL...............ポセイドン仮面祭り~その1

http://web.archive.org/web/20070831062337/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/668.html

ポセイドン仮面祭り その2

http://web.archive.org/web/20070904134658/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/669.html

ロッキード事件の台風が吹いた時,親方の周りに越後の女
たちが人垣を作って守ってくれた。大衆は自分と同じ高さの目線の人が好きだ。大衆が嫌いなのは,自分よりも目線が高く,目の玉の奥が冷凍庫のように冷たく鼻持もちならない奴だ。東大出の孤独な秀才が天を仰いで嘆いた。

<バカたちは,どうして私の前に集まらないのか。

私には分からない>その時,カラスが飛んできて,開けた口に糞をたれ,「あほう,あほう」と鳴いて飛び去るだけである。


ずっと気になっていた記事は以下に引用してみましょう......

 「パラクレートの宿り」というイメージはグノーシスの
種子が人間の中に密かに埋め込まれているというグノーシス主義の観念と同種のものである。それは人間が外的な業やその制度化によって救われるのではなく,人間の中には神的なものが内在しており,人間はその内なるものの働きによって救われるのだということを語っているのである。

 それならば,キリストの死が人間を救うためではない
とすると,それは何を意味しているというのであろうか。

それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する

(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をする

ときには,そこに深い意味が隠されているものである。

さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。

ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙である

ことに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか,なんですが「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」について最近結論が出て肩の荷が降りた感じです。

「パラクレートの宿り」というイメージはグノーシスの種子が人間の中に密かに埋め込まれているというグノーシス主義の観念と同種のものである。それは人間が外的な業やその制度化によって救われるのではなく,人間の中には神的なものが内在しており,人間はその内なるものの働きによって救われるのだということを語っているのである。

 それならば,キリストの死が人間を救うためではないとすると,それは何を意味しているというのであろうか。それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか,なんですが「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」について最近結論が出て肩の荷が降りた感じです。


結論として分かったことは........

この意味は、

「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、

「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、

と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?

管理人注としてはルカによる福音書に座布団10枚!! あげた次第です。


 旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。
 モーセの出エジプトやノアの洪水やソロモンの伝説のように、歴史と虚構がどのように交じったかを読むのもスリルがあるし、ユダヤの預言文学のレベルを他の古代宗教とくらべるのも興味が尽きない。イザヤ書・エレミア書・エゼキエル書を読んだときは、「そうか、これがユダヤの言霊か」と合点した。
 その一方、約束の地カナーンを誓った民族共同体イスラエルがどのようにユダヤ民族のなかの理念として定着していったかとか、古代ヘブライ社会やヘブル語がどんな表現レベルをもっていたのかということを見るのも、興奮させられる。
 しかし、文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した。

 現行の旧約聖書は「律法」「予言者」「諸書」の3部構成になっている。しかしながら、「モーセ五書」とか「律法」(トーラー)とよばれてきた『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を読むだけでは入口しかわからない。
 「諸書」と「外典」が異様なのである。異様なだけではなく、広くヨーロッパ史における人間精神の考え方の基層に突き刺さっている。たとえば「混沌から勝利する」というイメージといえば、それは必ず諸書『エステル書』の物語をさすわけだし(ラシーヌの悲劇はここから派生する)、デボラといえば、その名を聞いただけで、これは外典『ユデト書』の勇敢な女性デボラのことなのだ。
 そういう意味で、『ヨブ記』の主人公ヨブは、旧約聖書のなかではカインの問題とともに最も哲学上の重要課題を投げかける人物になっている。ぼくのようなクリスチャンじゃない者にとっても、カインとヨブの名はいまだにぼくの背中のどこかに引っかかった「うしろの百太郎」なのだ。

 『ヨブ記』は「諸書」の中の『詩篇』『箴言』につづいて収録されていて、全体は42章で構成されている。そのうちの1、2章と最終章の一部が散文になっているほかは、すべてが韻文(詩文)である。したがって暗示力がすこぶる高い。
 散文部分は聖書研究者のあいだでは「枠」とか「民間本」とよばれる。おそらくは民間伝承そのままを編集した箇所である。ここではヨブは敬虔な忍従の人として描かれる。きっとイスラエルの地でこの物語を記録した"編集者"の意志が反映したのであろう。
 ところが韻文の部分では、ヨブは3人の友人と果敢に論争し、神に疑問をもち、ついには神に反抗する姿勢すら見せる。この互いに矛盾するようなヨブの二つの立場を描いているところが『ヨブ記』を最も魅力的にしているゆえんで、そのため『ヨブ記』はずっと智慧文学の原典ともいわれてきたのだが、どうして、智慧などというものよりずっとハードな問題を扱った。

 ヨブの名は『エゼキエル書』にも出てくる。が、これは主人公の名を"編集者"が借りただけで、とくに物語と関係はない。
 もともとヨブは裕福で正直な名士で、「ウツ」の地(おそらく死海の南のエドム)に住んでいた。家族も土地も家畜もじゅうぶんにいた。聖書は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきた」と書く。
 そのヨブの信仰を神はさまざまな試練によって試すのだが、ヨブはことごとく信仰の堅固なところを証明してみせる。
 そこで神は悪魔(サタン)を呼んで、ヨブの財産を傷つけたらどうか、体を傷つけたらどうかと言う。悪魔が巧みにヨブの体に悪腫をつけると、ヨブは体中を掻きむしって苦しむのだが、決して神を恨まない。見かねた妻が「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」と言うと、ヨブは「愚かな女だ」と悲しむばかりなのである。
 ヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。友人たちはヨブが本人と見分けがつかない苛酷な姿になっているのに衝撃をうけ、7昼夜を一緒にするものの、一言とて会話が交わせない。
 ここまでが「序」にあたる序曲で、ここにヨブの詩が入る。「私の生まれた日は消えうせよ」という有名な呪歌である。ここから壮絶なヨブの疑念が燃え上がる。

 次に「破」に入る。
 友人たちはヨブを慰めるために、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」「罰せられるのは悪人だけだ」などと説く。これは当時のユダヤ教の古典的な教訓である。きっとそのような教えが流布していたのであろう。しかしヨブは、そのような古典的な教えをしだいに納得できなくなっている。
 そこで友人たちは、たしかに善人でも苦難にあうことがあるだろうが、そもそも完全に潔白で汚れがない者なんているはずもなく、おそらく天使だって完全ではないはずなのだから、それに加えて人間は悪に染まりやすいのだから、神を信頼しつづけて謙虚に神に訴えればいいのではないかと勧める。
 ヨブは自分がまったく悪行をはたらいていないのに、神がなぜ試練を与えたかが理解できないので、友人の言葉には同意できない。そういうヨブの態度を見て、我慢できなくなった3人のうちのビルダドが「いつまでそんなことを言っているのか。お前の口は嵐のようだ。神が裁きを曲げられるか、全能者が正義を曲げられるか」と罵る。他の友人もヨブを批判する。

 友人たちはヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見ているわけである。けれどもヨブはその罪の自覚がないらしい。そこで、エリファズはいくつもの無慈悲な行為をあげ、ヨブに濡れ衣を着せる。
 よくあることである。相手が小さな罪を認めないのなら、もっと大きな罪を付加させたくなるのは、大半の人間がもつ感情であり、 かつまたマスメディアや批評家がもつ態度というものだ。
 ヨブはこれらの暴言に耐えられなくなって、「君たちは慰めのふりをして苦しめている」「役にたたない医者だ」と、友人たちを詰(なじ)る。「黙ってくれ、私に話をさせてくれ。たとえどんなことがふりかかってもいい」という絶叫だ。
 驚いた友人たちは、ヨブにともかく黙って試練に耐え、毅然としていけばいいではないかと、なにやら懐柔策に出る。ここでヨブの断固とした一撃が出る。「私が話かけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい」。
 この「神への申し立て」が可能なのかどうかという一点が、『ヨブ記』の最初の神学的逆上になる
 ヨブはすでに何度も神に跪き、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいと懇願してきたのである。ヨブは自分が公平に裁かれているのなら、その報いをうける覚悟はあったわけである。けれども神は沈黙したままにいる。なぜ神は、主は、何も言おうとしないのか。
この疑問はものすごい。
それどころか、ここからがさらに重大な社会の成立の仕方そのものに対する大問題になるのだが、もし神が告発者であって、かつ裁判者であるとしたなら、いったいこの世の誰がヨブを裁けるのかという「大疑」が生じてくる。つまり、ここには「もはや上訴のない社会」という問題が立ちはだかってくるわけなのだ。

どうだろうか。
ここまでで、誰が『ヨブ記』が提訴しつつある問題に「解」を思いつけるだろうか。自信があるなら、挑戦してもらいたい。
そのうえで言うのだが、今日の欧米世界の底辺にあるユダヤ=キリスト教社会がこの問題を解決するには、実はこの問題に目をふさぐしかないはずなのだということに気がつかれたい。

 さて、こうして「序・破」をおえた『ヨブ記』はいよいよ「急」にさしかかる。
 ここではヨブが「神はどこにいるのか」「遠いところにいないのなら、自分とともにここに来てほしい」、そして「自分は神とともに裁きの場に出たい」とさえ言う。しかしそれでも神は沈黙したままなのである
こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。悪魔を非難するのではない。神に絶望するのだ。そしてすべての人間との交わりを避けて、すべてが自分を放っておいてほしいと願う。これはまさに絶望の精神の行方の暗示というものである。けれども、ここがユダヤ教的なところなのだが、ヨブは絶望しきれない。自害もならず、遁世もない。そして、それならせめて「自分に対する告訴状」を神が出してくれることを、一縷の望みに託すことになる。
 ここでエリファズ、ビルダド、ツォファルの会話を聞いていた新たな登場人物である青年エリフが出てきて、ヨブの独白を聞く。これが長いのだが、意外な結末はその直後に訪れる。嵐の中から主ヤハウェの大音声がついに聞こえてくるのである。

これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて、
神の経験を暗くするとは。
男らしく腰に帯せよ。
わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。
これが神の第一弁論といわれる開始であった。
ヨブは必死に答えようとするのだが、答えはまとまらない。つづいて神の第二弁論が雷鳴のごとく降り落とされる。

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。

ヨブは神の臨在に圧倒され、打ちのめされる。そして「急」は幕を閉じ、「終」になる。
ヨブは言う、「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。こうして終曲はふたたび散文に戻って、3人の友人には神の訓戒がくだされ、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。
 ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。

 なんと恐ろしい物語だろうか。なんと答えのないレーゼドラマだろうか。
 しかも、この『ヨブ記』を書いた"編集者"の名も出自も、これまであらゆる聖書研究者が"調査"をかけながらも、ついにまったく見当がつかないままなのである。そして、『ヨブ記』の悪魔はメフィストフェレスとなり、神と悪魔の両者を含む超越者はスタヴローギンとなり、ヨブは馬鹿なイワンとも、ゴッホの向日葵とも、ユダヤ・キリスト教社会の未解決の象徴ともなっていったのだ。
ヨブの問答。
これは、少しでも神と交わりたい者が必ず出会わなければならない神の教えなのである

 (松岡正剛・千夜千冊 ヨブ記より編集)


<転載終了> 

 コメント一覧 (4)

    • 4. おそ松くん
    • 2023年12月04日 23:21
    • ヨブと言うのは【呼ぶ】という名前だ。 
       神に答えてもらったから、【神を呼び出した者】と言う名前を 後から貰ったのであろう。

        普通は神様ってのは、なかなか出てきてくれない。 【直接答えなんかもらえない何か恐れ多く、遠くにいる存在】なのだが、ヨブが本当は正しかったので、答えてもらえたという解釈ができる。
       正しい人間で。罰が当たるはずがないのに、世のしわ寄せや天変地異やら 病(コロナや癌)やらで、これでもかと苦しめられる事が有る。
       ちょうど今現在特に悪いことはしていないような普通の人間は、苦しんで、ヨブと同じになって居る。 
      それでも絶望するんじゃない、神はやっぱり 沈黙しているようで、見てくれている。 
       世の終わりでも信じて努力すれば人類に未来は来るという話だと思うけどな。
      しかし悪人どもには大罰が下る事が公平(正しい裁き)だと思うので、正しい裁きを祈っている(笑)

      キリストの最後の言葉も、2つあると思う。 あまりの苦しさに神よ、何故お見捨てに成るのですか、と言ったとして、 人の子、 半分は人間であるイエスが弱音を吐いたとして、 それは自然な事だろう。
      そして本当の最後には神に身をゆだねると言って絶命になったのだろう。

       もっとも、その後に奇跡で復活しているけども、 これも死から復活する人は、驚く事に、時々いる!
       臨死体験と言うのがあるんだから、聖書に書かれていることが本当だと言うう人々の言うことも頷ける面がある。

       あ、 吾輩は、教会とか特定宗教には帰依せず、興味ないが、
       ただ、人知を超える大宇宙の力や不思議な事と言うのはある物だと思っている。 一々神が助けてくれない時も、神の意思を代わりに成って助けてくれる存在は周り中にたくさんいるのだ。天使だとか、良き隣人とか。
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    • 3. 訴訟すき
    • 2023年12月04日 09:51
    • JEWを標榜するエフラム工房の平某はどこに隠れたのかな?古代日本国家のJEWの役割と失敗を総括する時期だよ!
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    • 2. 印藤立樹
    • 2023年12月04日 04:42
    • 命乞いなんかしてる時点で、はいっ贋者確定、ぶっ殺します!ですよ
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    • 1. 真理愛
    • 2023年12月03日 23:42
    • 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、

      「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、

      と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?

      という、この達人とかいう知ったかぶりの愚問愚答には笑えます。
      ルカ23:46の叫びは「ベダクエフキドルエル」
      であり、マタイ27:46の「エリエリレマサバクタニ」という叫びとは別物です。
      50節の「その時、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」の叫びが適応しています。
      この方の記事はいつも、真理に的を向けているかのようで、見事に外していらっしゃるため、閉口してしまいます。

      主イエスキリストの憐れみがありますように。
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