https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12853370281.html
<転載開始>
「ユダヤ的免責」については、我々日本人にはわかりにくい表現なのですが、理解のために、ヨーロッパには中世以降「ユダヤ人問題」というものがあり、要するに、「ユダヤ人」は嫌われていたわけですが、第二次大戦後、逆に彼らに対する批判をあからさまには出来にくくしたのが、ナチスによる「ホロコースト」だったわけです。
BC722年に滅んだ「イスラエル王国」から約2000年の時を隔て、かの地に「イスラエル」の建国が国際社会で容認されたのは、1947年11月29日、UNでの「パレスチナ分割決議 」(国際連合総会決議181)が賛成多数で可決したためです。
それには「ユダヤ人」にとり受難の歴史である「ホロコースト」という大事件が(見方を変えれば、彼らが神への「生贄」を捧げる儀式が)あったから可能となったともいえます。
そして「ホロコースト」については否定することを法律で禁じる国がヨーロッパには結構あります。
1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰されるそうです。
ヨーロッパで「ホロコースト否認」を法律で禁止する国々として、
フランス(ゲソ法)、ベルギー (Belgian Negationism Law) 、スイス (刑法261条bis ) 、ドイツ、オーストリア (article 3h Verbotsgesetz 1947) 、ルーマニア、スロヴァキア、チェコ、リトアニア、ポーランド、ルクセンブルク などに取り締まる法律があるそうです。
参考:
「第三神殿」までの道② | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
5年前の記事なのですが、「現代ユダヤ人」という言葉の定義として、再投稿しておきます。
ボルガ河 7世紀~10世紀頃、カスピ海沿岸のボルガ河沿いの地にユダヤ教徒「ハザール人」の王国があった。
1948年建国当時のイスラエルの人口は約80万人程であった。
イスラエルの独立を1948年5月14日に宣言した初代イスラエル首相のダヴィド・ベン=グリオン(1886~1973年)はポーランドのプロニスク(当時ロシア帝国領)で生まれた人物。第二次大戦前にポーランド国内に住んでいたユダヤ人の多くは第二次大戦時にイスラエルに避難し移民したとされるが、ダヴィド・ベン=グリオン首相は1950年に「帰還法」を制定。
これによってイスラエル建国後に他国から多くのディアスポラユダヤ人のイスラエルへの「帰還」が1950年以降に進んだ。
■帰還法
「帰還法」(英語: The Law of Return、ヘブライ語: חוק השבות)とはイスラエルの法律で、国外のユダヤ教徒がイスラエルにアリーヤー(移民)することを認める法律。イスラエル独立宣言から約2年後の1950年7月5日に制定され、1954年と1970年に2回改定。
1950年 - ダヴィド・ベン=グリオン首相
第1条(帰還の権利)、第2条(移民の査証)、第3条(移民の証明書)、第4条(住民および新生児)、第5条(実施および規定)から成る。
1954年 - モシェ・シャレット首相
第2条に「犯罪歴のある人物」の除外を追加など、一部改定。
1970年 - ゴルダ・メイア首相
第4条に「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」という帰還法における「ユダヤ人の定義」を追加など、大幅な改定。
つまり、1970年に改訂された「帰還法」によって「ユダヤ人」とはいかなるものかが定義されているともいえる。
ここで、注目すべきは、父親がユダヤ人でも母親が非ユダヤ人の場合、子供はユダヤ人ではないとしている点。
引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E9%82%84%E6%B3%95
■「帰還法」でのユダヤ人のアリーヤー(移民)
1950年以来、273万4245人以上の教徒がイスラエルに帰還。帰還法ではユダヤ人(孫を含む)の全ての子孫(母系子孫)に国籍を付与するよう定義されているため、これまで数十万人の非ユダヤ人も、イスラエルの市民権を得たとされる。
■人口増加
外務省のHPによれば、2018年6月現在のイスラエル国の人口は888万人(2018年6月 イスラエル中央統計局))
内訳としてユダヤ人(約75%),アラブ人その他(約25%)とある。(2016年9月 イスラエル中央統計局)
1948年の建国時80.6万人であった人口が当時の11倍になったということで、この増加率が続くと、2048年のイスラエルの100回目の独立記念日には、その人口は1520万人に達すると予測されている。これはイスラエルの子供の出生率の高さも要因で、イスラエルの女性の出生率は、「3.11人」と、OECDの中でナンバーワン、特にイスラエルの中でもユダヤ人女性の出生率は3.16人と平均よりも高いのだそうだ。
引用:
http://beastrongwoman.com/2018/04/17/703/
http://beastrongwoman.com/2018/03/15/289/
■「ユダヤ法」においては「ユダヤ人」は母系集団
「ユダヤ法」(ヘブライ語でハラーハー、ハラハー(halakhah, הֲלָכָה hălākhāh)では母親がユダヤ人なら、子もユダヤ人であると無条件に認められている。ユダヤ人の母からの出産という明確な証拠でユダヤ人の血が受け継がれたことが確実であるものの、(遺伝子検査での親子鑑定登場以前は)子供の父親が誰かは母親以外は本当に分からないから、父親がユダヤ人でも母親がユダヤ人でなければユダヤ人とは認められない、という考え方のようなのだ。
■「ユダヤ教」への改宗者
ユダヤ人の母系子孫以外に、例えば民族としては元々ユダヤ人ではなく他民族であった「ハザール人」なども「ユダヤ人である」と認める枠組みが1970年に改訂された「(改訂)帰還法」であるといえる。
■ハザール(英: Khazar、ヘブライ文字:הכוזרים)
民族としては元々ユダヤ人ではないものの「ユダヤ教への改宗者もユダヤ人」とする典型例が「ハザール人」の例である。
13世紀に完全に灰燼に帰した王国ハザールの歴史を引用元から抜粋。
「ハザール王国とは7~10世紀にかけてカスピ海のボルガ川沿い、カスピ海北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およそのその国家のことで、支配者層はテュルク系民族と推測されている。8世紀末から9世紀初頭にかけて、ハザール王オバデアの国政改革(799~809年)により国民の大部分がユダヤ教に改宗し、ハザール王国は世界史上、類を見ない“ユダヤ人以外のユダヤ教国家”となった。」
「ハザール王国のユダヤ教への改宗によって国内の微妙なバランスが崩れ ハザール人の貴族の間では、ユダヤ教を受容する国王派と、ユダヤ教を受容しない地方貴族派との対立が目立つようになる。」
「835年頃、ハザール王国内で地方貴族派により反乱の火の手が上がったが、国王派が勝利。 反乱者の多くは殺され、一部は国外に逃れた (カバール革命)」
「この反乱貴族は家族とともにアゾフ海東岸近くのロストフに亡命。 ロストフはルス人の商人団が築いた根拠地であり、 ここでルス人の商人団長の娘とハザール反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた」
「西暦862年ルス人リューリクが率いるルーシ・カガン国の軍勢が、それまでハザール王国の支配下にあった主要都市キエフを無血占領。その後、キエフはルス人の町として発展し1132年にキエフ大公国成立。」
「10世紀半ばまでの間、ルス人の攻撃は主として東ローマ帝国に向けられていた。 ルス人(キエフ大公国)とハザール人(ハザール王国)との間には摩擦や衝突はあったものの、この両者は交易を基礎とした関係を結んでいた。 ハザール人はルス人の交易ルートを押さえ、東ローマ帝国やイスラム帝国を目指してハザール王国を通り抜けていく交易物資に10%の税金を課していた」
「東ローマ帝国とキエフ大公国とは次第に親交を深め合うようになり、それに連れハザール王国の地位は低下。 東ローマ帝国とキエフ大公国との交易物資に10%の税金を課すハザール人の存在は、東ローマ帝国にとってもキエフ大公国とっても苛立ちの原因となった。」
「 9世紀末、ルス人の艦隊がカスピ海沿岸を侵略し始めた。 そして、10世紀に入り西暦913年、800隻からなるルス人の大艦隊がカスピ海沿岸にやってきて、事態は武力衝突へ進み、この侵略によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。 西暦965年、キエフ大公国のスビャトスラフ大公はハザール王国に戦争を仕掛け、ハザール王国の都市を次々に攻略し、首都イティルを攻撃。 これらの攻撃によりハザール王国は衰退。」
「1016年、「対ハザール同盟」 を結んでいたキエフ大公国と東ローマ帝国との連合軍がハザール王国に侵入。 ハザール王国東部の諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われ、ハザール王国西部(クリミア半島含む)では、被害は比較的少なかったが、それでも都市は荒れて、交易路は乱れた。」
「 ハザール王国はそれ以降13世紀半ばまで、領土はかなり縮小したものの、なんとか存続し、ユダヤ教の信仰を保持した」
「1223年、かつてハザール王国があった地域にチンギス・ハンの別働隊モンゴル軍が現われ、カスピ海の南回りでコーカサスを通り、南ロシアを荒らし1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫バトゥも東ヨーロッパ遠征に出発」
「バトゥ率いる遠征軍はヴォルガ川中流域からロシアに侵入し、ロシアの大部分を占領。更に、ポーランドとハンガリーにも侵入し、此れらの地域の白人を、男女の区別なく、且つ、大人・子供の区別なく、殺しまくった」
「 第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイ・ハン(チンギス・ハンの三男)が亡くなると、バトゥ率いる遠征軍はヴォルガ川まで後退。1243年、ヴォルガ川下流河岸の都市サライを首都として 「キプチャク・ハン国(西暦1243年~1502年)」 を建国。 こうして、キプチャク・ハン国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸国は従属国となり、ここにロシア人の言う 「タタールの頸木(くびき)」 が始まった」
「キプチャク・ハン国の首都サライは、またの名を 「イティル」 と言ったが、イティルはかつてハザール王国の首都であった。 このことからも、キプチャク・ハン国が建国された1243年の時点でハザールの中心部(イティル)はバトゥの権力に吸収され、ハザール王国は完全に滅亡したことが分かる」
ハザール王国が完全に滅亡した頃、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
「1245年、ローマ教皇イノセント4世は新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探る目的でキプチャク・ハン国の首領バトゥに使節団を送った。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にキプチャク・ハン国の首都サライに到着。 この使節団の長だった修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。 その中に彼が訪れた地域に住む人々のリストもあって、コーカサス山脈の北に住む人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで 『ユダヤ教を信じるハザール人』 の名がある。 今のところ、この記録が民族としてのハザール人についての最後の公式記録とされている」
引用:http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/Khazar_oukoku_rekisi.html
1970年の「(改訂)帰還法」の枠組みで、「ユダヤ教へ改宗者で、他の宗教を一切信じない者」が「イスラエルへの帰還」が許されるという枠組みによって「ユダヤ教改宗者もユダヤ人である」と定義されるということ。従って民族的には明らかに古代ユダヤ人とは別の系譜であるハザール王国の系譜の人々もこの枠組みによって「ユダヤ人」とみなしてよいということらしい。
参考:
ガリラヤ人の顔とイエスキリスト | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
旧約聖書にみるユダヤ人の系譜 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
イスラエル建国と英国 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
世界の中のユダヤ人の国別人口比率 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
「第三神殿」までの道 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
ハザール王国 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
「第三神殿」までの道② | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
<転載終了>
ユダヤ教徒はユダヤ人を解放出来なかった。メシアの到来でそうなるとしたから、ルシファー崇拝者はキリストを殺害した。西欧、米国のキリスト教徒はマルスク時期には半分位ユダヤ教徒化した。今は米国は9割そうなった、キリスト教が完全な宗教と規定したのはヘーゲル(精神現象学、マルクスも異論無)で神の誕生からその自己実現の運動が真理である。米国のキリスト教徒は世界のそれを信じる人類と人間の解放運動を推進している。真理が現れる意味はこのこと。
ETエーリアンが類人猿、ホモエレクトスと交配して進化を手助けした何十万年前から一部のETはこの交配をETの奴隷目的にして固定しようと世界を支配したが、アブラハムは人間は神の似姿に人間を創造したとしたから、ユダヤ人は隷属と一応戦ったが、金と汚い商売に負けた(マルクスのユダヤ人問題)。マルクスはだから人類はマネするなと忠告した。
日本人は悪魔を取り込んでいない人間は成仏する。悪魔人間は地獄に落ちる(往生要集)
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