嘘八百のこの世界さんのサイトより
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-5657.html
<転載開始>
「会津の上杉景勝というのは、 「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、 「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?」by八切止夫
「隠匿の日本史」④八切止夫
前回に続く。以下、一部引用する。
*「スペインのトレドへ行くと、未整理の日本の戦国資料がありますよ」と教われば、そちらへも私はバカ正直にすぐ飛んでいったものである。
さてトレドというのはフェリッペ1世が、マドリッドを首都にするまで君臨していた山の中の城下町だが、そこの僧院へ行って500ペセタ奉納して見せて貰った中に、
「黄金情報」というとじこみがあって、
「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」
という当時の日本からのレポートにぶつかった。その時は信長関係をあさっていたので、あまり気にもしなかったが、あとでコピーを訳していって、その(TIA)にひっかかった。
なにしろ、会津の上杉景勝というのは、
「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、
「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-5657.html
<転載開始>
「会津の上杉景勝というのは、 「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、 「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?」by八切止夫
「隠匿の日本史」④八切止夫
前回に続く。以下、一部引用する。
*「スペインのトレドへ行くと、未整理の日本の戦国資料がありますよ」と教われば、そちらへも私はバカ正直にすぐ飛んでいったものである。
さてトレドというのはフェリッペ1世が、マドリッドを首都にするまで君臨していた山の中の城下町だが、そこの僧院へ行って500ペセタ奉納して見せて貰った中に、
「黄金情報」というとじこみがあって、
「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」
という当時の日本からのレポートにぶつかった。その時は信長関係をあさっていたので、あまり気にもしなかったが、あとでコピーを訳していって、その(TIA)にひっかかった。
なにしろ、会津の上杉景勝というのは、
「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、
「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?
*さて、その無宿の名称たるや、「無宿者」といえば、今ではまるで犯罪人のような感じを一般に与えているのは、
「現今の戸籍のように、誰もが人別帳に入っていて、それを削られたから無宿者」
といった観念がひろまっているせいではなかろうか。だが実際は違うのである。寺の人別帳に入っていたのは百姓衆だけで、お役人とか木こり、炭やき石切りなどは初めから人別帳には無関係な存在だった。
前にかいた陽の民族は、寺の人別帳に、「生まれた時から名をかきこまれ、年貢をとられたり助郷(すけごう)とよぶ伝馬(でんま)の労力奉仕を課せられていたが、原住系の蔭の民は、寺や領主とは関係なしに、各地の何々大夫又は、弾左衛門とか弾正とよぶ者の支配下にあって、まるっきり人別には係りなしだったのである。
つまり二つの民族に分かれていたのだが、往々にして人別帳に入っている者の中から、法度(はっと)とされていた駆け落ち者や心中のし損ない、破戒坊主が出た場合、これを陽の側では、人別からはずして蔭の民の方へと廻した。そして「非人」とこれをよんだ。
蔭の民の方は、これは奴隷みたいなものだから、女は遊女にして稼がせたが、男は使えるだけ使わねば損ゆえ、これを罪人の処刑人などに用いた。
よく罪人の引き廻しや槍で突き殺すのがそれだが、映画でみても、ぼろぼろの恰好をしているから、あれが無宿者かと間違われやすいが、
「人別に入っていて削られた非人」と、初めから人別帳に係りあいのない蔭の民の無宿者とは、まるっきり性質が違うのである。この陽の民と蔭の民の争い。つまり、
「高家」とよばれる陽の足利家の流れをくむ吉良上野介と、浅野弾正の名でも判る蔭の民の浅野の支流の内匠頭の衝突は、乱心でもなくケチでもなかった事が、こうかけばそれで想像がつくというものであろう。
しかし、その後徹底的に調べあげたところ、浅野は当日になって老中小笠原佐渡守によばれ、「なんとしても吉良が抜刀するよう仕向けい。如何に振舞うても咎はせぬ」と命令された。
そこで挑発するごとくチョイナチョイナと突いたり叩いたが吉良はのってこずに未遂におわった。すると浅野はすぐに坊主部屋につれてゆかれて切腹どころか烏帽子のままで斬首されてしまっている。
*世直しせんとする日本列島原住民のエネルギーがミナモト政権をたてたが失敗し家康を勝たせたが家光の代でまた逆転。寺百姓とかド百姓といわれた奴隷なみの者らは寺人別に入れられ束縛された。が、終には人別に入らない蔭の民は非人間とされた。
それゆえお蔭まいりと各地に蜂起した蔭の民は叉も変革を求めて一新の世にした際、寺人別を廃し神社人別を明治5年つくった、氏子札ともいう。がまた2年で敗れた。
*<続古今集>の中にも、
「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、
「ええ女を持っとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、
「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されまするなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。
つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、
「ええ事しはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなすの意味である。
何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男』とよっていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊され、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出来上がった」
というのが話の起りで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、
「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江の島」と、いった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。
山岡荘八氏の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土(おんりえど)」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、
「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、
(edo)を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、
「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。
つまり本当のことをかくと身も蓋もないが、「江戸ッ子だア」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以降の事であるらしい。
*そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となった。
これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦10世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住民)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。
そして、なんとか又陽の当たる場所へでて、「立身出世」を願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、
「何んとか阿弥」と名のって洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。
それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。
日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、
「河原者」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のやくざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、
「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、
「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差(ながわきざし)と称して、長刀をさしていられたのも、やくざの根源が、
「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。
(管理人)
ウィキの上杉謙信女性説より抜粋。
ゴンザレス報告書
スペインのゴンザレスという人物が、日本についての調査報告書を国王フェリペ2世宛てに送った。トレドの僧院にはその報告書が残されており、その中の「黄金情報」というとじこみに「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている)とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている。
AI による概要でも
「スペイン語で「Tia」は「叔母」を意味します」と出る。
八切止夫氏の情報が間違いであるならば、とっくの昔に誤情報とされているはずだ。
そうならないということは、上杉謙信が女性だった証拠だろう。
八切止夫氏の情報を否定する根拠を示すことができず、
「大衆に情報を伝えずスルーする」という方法をとるしかないのである。
大衆を騙しておきたい勢力にとっては。
現在過去未来、この世界は、基本、嘘で構成されており、
真実はひた隠しにされている。
真実を訴えていた八切止夫氏や太田龍氏の書物は、
一般の書店で見かけることはほとんどない。
一般の書店で見かける歴史書は、
大衆を騙しておきたい勢力に雇われた御用歴史家が書いた嘘歴史本ばかりである。
自分自身で真実を調べようと努力しない限り、
真実にたどり着くことはできない。
新聞・テレビ・学校教育の嘘情報に未来永劫騙され続けるばかりである。
「噓八百のこの世界」においては。
<転載終了>
「現今の戸籍のように、誰もが人別帳に入っていて、それを削られたから無宿者」
といった観念がひろまっているせいではなかろうか。だが実際は違うのである。寺の人別帳に入っていたのは百姓衆だけで、お役人とか木こり、炭やき石切りなどは初めから人別帳には無関係な存在だった。
前にかいた陽の民族は、寺の人別帳に、「生まれた時から名をかきこまれ、年貢をとられたり助郷(すけごう)とよぶ伝馬(でんま)の労力奉仕を課せられていたが、原住系の蔭の民は、寺や領主とは関係なしに、各地の何々大夫又は、弾左衛門とか弾正とよぶ者の支配下にあって、まるっきり人別には係りなしだったのである。
つまり二つの民族に分かれていたのだが、往々にして人別帳に入っている者の中から、法度(はっと)とされていた駆け落ち者や心中のし損ない、破戒坊主が出た場合、これを陽の側では、人別からはずして蔭の民の方へと廻した。そして「非人」とこれをよんだ。
蔭の民の方は、これは奴隷みたいなものだから、女は遊女にして稼がせたが、男は使えるだけ使わねば損ゆえ、これを罪人の処刑人などに用いた。
よく罪人の引き廻しや槍で突き殺すのがそれだが、映画でみても、ぼろぼろの恰好をしているから、あれが無宿者かと間違われやすいが、
「人別に入っていて削られた非人」と、初めから人別帳に係りあいのない蔭の民の無宿者とは、まるっきり性質が違うのである。この陽の民と蔭の民の争い。つまり、
「高家」とよばれる陽の足利家の流れをくむ吉良上野介と、浅野弾正の名でも判る蔭の民の浅野の支流の内匠頭の衝突は、乱心でもなくケチでもなかった事が、こうかけばそれで想像がつくというものであろう。
しかし、その後徹底的に調べあげたところ、浅野は当日になって老中小笠原佐渡守によばれ、「なんとしても吉良が抜刀するよう仕向けい。如何に振舞うても咎はせぬ」と命令された。
そこで挑発するごとくチョイナチョイナと突いたり叩いたが吉良はのってこずに未遂におわった。すると浅野はすぐに坊主部屋につれてゆかれて切腹どころか烏帽子のままで斬首されてしまっている。
*世直しせんとする日本列島原住民のエネルギーがミナモト政権をたてたが失敗し家康を勝たせたが家光の代でまた逆転。寺百姓とかド百姓といわれた奴隷なみの者らは寺人別に入れられ束縛された。が、終には人別に入らない蔭の民は非人間とされた。
それゆえお蔭まいりと各地に蜂起した蔭の民は叉も変革を求めて一新の世にした際、寺人別を廃し神社人別を明治5年つくった、氏子札ともいう。がまた2年で敗れた。
*<続古今集>の中にも、
「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、
「ええ女を持っとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、
「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されまするなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。
つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、
「ええ事しはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなすの意味である。
何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男』とよっていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊され、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出来上がった」
というのが話の起りで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、
「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江の島」と、いった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。
山岡荘八氏の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土(おんりえど)」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、
「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、
(edo)を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、
「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。
つまり本当のことをかくと身も蓋もないが、「江戸ッ子だア」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以降の事であるらしい。
*そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となった。
これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦10世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住民)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。
そして、なんとか又陽の当たる場所へでて、「立身出世」を願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、
「何んとか阿弥」と名のって洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。
それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。
日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、
「河原者」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のやくざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、
「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、
「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差(ながわきざし)と称して、長刀をさしていられたのも、やくざの根源が、
「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。
(管理人)
ウィキの上杉謙信女性説より抜粋。
ゴンザレス報告書
スペインのゴンザレスという人物が、日本についての調査報告書を国王フェリペ2世宛てに送った。トレドの僧院にはその報告書が残されており、その中の「黄金情報」というとじこみに「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている)とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている。
AI による概要でも
「スペイン語で「Tia」は「叔母」を意味します」と出る。
八切止夫氏の情報が間違いであるならば、とっくの昔に誤情報とされているはずだ。
そうならないということは、上杉謙信が女性だった証拠だろう。
八切止夫氏の情報を否定する根拠を示すことができず、
「大衆に情報を伝えずスルーする」という方法をとるしかないのである。
大衆を騙しておきたい勢力にとっては。
現在過去未来、この世界は、基本、嘘で構成されており、
真実はひた隠しにされている。
真実を訴えていた八切止夫氏や太田龍氏の書物は、
一般の書店で見かけることはほとんどない。
一般の書店で見かける歴史書は、
大衆を騙しておきたい勢力に雇われた御用歴史家が書いた嘘歴史本ばかりである。
自分自身で真実を調べようと努力しない限り、
真実にたどり着くことはできない。
新聞・テレビ・学校教育の嘘情報に未来永劫騙され続けるばかりである。
「噓八百のこの世界」においては。
<転載終了>