yocchan_no_blog3さんのサイトより
https://yocchan-no-blog3.blog.jp/archives/6819600.html
<転載開始>
戦争の収束にはどんな力学が働くのか、私のような素人にとっては正確に掴むことは難しい。
もちろん、最後の一兵に至り、武器弾薬が尽きたとしたら、白旗を掲げるしかない。だが、これは軍事的な側面を重視した議論である。そして、現代の戦争においては、軍事的な勝敗についての議論の背後には、常に、軍産複合体が見え隠れする。彼らは戦争を計画し、偽旗作戦を引き起こすことによって敵側に先制攻撃を起こさせる。こうして、敵の侵略に対応するという大義名分を確立してから、金儲けのための戦争が開始されるのである。それでは、そのように始まった戦争を収束する際の原動力はいったい何なのであろうか?
ロシア・ウクライナ戦争の収束について、最近、歴史を主要な議論、あるいは、要素として取り上げている記事に出遭った。まさに、歴史の知恵である!「ウクライナ戦争を終結させる和平モデル」と題された記事がある(注1)。
本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

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副題: 1955年の「オーストリア国家条約」はウクライナにとって明快なモデル
1945年の春、ソビエト赤軍は東からオーストリアに侵入し、米軍は西からオーストリアに侵入した。両軍は古都ウィーンに接近していた。その時点で、戦時同盟にある米国とソビエト連邦は、ナチス・ドイツが敗北するとすぐにでもヨーロッパの運命を巡って激しい対立関係に豹変するであろうことは明らかであった。オーストリアはこの対立のど真ん中に位置していた。
オーストリアでお互いに相手が優位に立つのを防ぐために、米軍(英軍と仏軍も含む)はオーストリアの一部を占領し、ソ連軍は他の部分を占領した。1947年までに、米国防総省は西側の部隊を撤退させることはオーストリアを完全にソ連軍の占領にさらすことになるであろうと確信した。一方、ソ連軍は冷戦が激化しているドイツでの優位性を確立することに遥かに大きな関心を抱いていた。
1953年にスターリンが死去した後、ソ連のモロトフ外相はオーストリアの独立について話し合う意向を示し、オーストリアのユリウス・ラーブ首相をモスクワに招いて、この問題を議論した。
ウィキペディアはその後起こったことについてまずまずの要約を掲載している:
ラーブ首相のモスクワ訪問(4月12日から15日)は画期的なものとなった。モスクワ政府はオーストリアが遅くとも12月31日までに自由になることに同意した。オーストリア側はソ連軍によって残された「ドイツ資産」や油田の代金を主に現物で支払うことに同意した。「本当の賞金はスイスモデルに見られる中立性であった。」また、モロトフはソ連邦に拘束されているオーストリア人を解放し、帰還させると約束した。
西洋諸国は驚愕した。イギリスの外交官であり、この条約の署名者のひとりでもあったジェフリー・ウォリンジャーは、この取引は「正直に言って、あまりにも良過ぎる」とロンドンに報告した。しかし、それはモスクワで合意された通りに進行し、1955年5月15日にアントワーヌ・ピネー、ハロルド・マクミラン、モロトフ、ジョン・フォスター・ダレス、フィグルらがウィーンでオーストリア国家条約に署名した。それは7月27日に発効し、オーストリアは10月25日には占領軍から解放された。翌日、オーストリア議会は中立宣言を制定し、オーストリアはNATOやワルシャワ条約のような軍事同盟には決して参加せず、外国軍がオーストリア領内に駐留することを許可しないことを定めた。
ロシアと米国は、それ以降、オーストリアの中立協定を尊重してきた。
2022年2月のミュンヘン安全保障会議でバイデン政権は危機に関する対話のために無秩序に喋りまくるカマラ・ハリスを米国の代表として送ることでロシアを故意に侮辱した。その時以降、私はウクライナにはオーストリア方式の中立協定を提案すべきだと固く信じている。そのような協定があったならば、何十万人もの若者の死を防ぐことができたであろう。
3年の血なまぐさい年月が経過した今、ウクライナの中立性に関する合意は以下の事柄を必要とする:
1). 米国は、2015年に公式に始めたウクライナへの「防衛装備品」の送付政策を停止する。
2). 米国当局はウクライナをNATOに加盟させることについての発言をやめる。
3). CIAはウクライナでの陰謀や操り人形の操作をやめる。
4). ロシアはウクライナの中立を認め、その合意をオーストリアの場合と同様に尊重する。
問題は、ロシアがすでに発表した和平条件、つまり、民族的にロシアの領土であるドネツク州やヘルソン州、ルハンスク州、ザポリージャ州を保持することにあるのではないかと私は思う。
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ここで注目すべきは、1997年にジョージ・ケナンや他の米国の冷戦派がロシアとの長い国境やモスクワへの近接性、ロシアと西ヨーロッパの間にある歴史的、文化的、民族的な複雑さを考慮して、ウクライナのNATO加盟を容認することの愚かさについて警告したことだ。
2022年以降、多くの米国人や西ヨーロッパ人は、ドネツクやヘルソン、ルハンシク、ザポリージャ諸州を含めて、ウクライナの領土についてはたとえ1インチであろうとも非常に神聖であり、不変であるという考えに奇妙な程に感情的な愛着を抱くようになり、その完全性を維持するためには第三次世界大戦や核戦争のリスクさえも受け入れる価値があると考えている。
この感情的な執着の起源は極めて神秘的だ。つまり、2022年以前に抗争の対象となっているこれらの州について聞いたことがある米国人なんてほとんどいない。さらには、これらの領土をウクライナの支配下に置くことが米国市民の誰にとっても利益になるとは思えない。また、モスクワではなくキエフの支配下にこれらの領土を残すために自分の命を捨てる覚悟がある米国市民が一人でもいるのだろうか?極めて疑問だ。
私はちょうどタッカー・カールソンとピアーズ・モーガンの間の愚かな討論を聞き終えたばかりで、後者はロシアがクリミアを放棄することはないという明白な現実を理解するのに苦労しているようであった。クリミアは、1783年、ロシアの女帝エカテリーナ2世によってオスマン帝国の属国からロシアへ併合された。
ロシア人は黒海に海軍基地を持つことを望んでいたが、エカテリーナ女帝もクリミアの奴隷貿易を終わらせたいと考えていた。何世紀にもわたって、クリミア・ハン国は東ヨーロッパでの「クリミア・ノガイ奴隷襲撃」を通じて東欧の人々を誘拐してきた。クリミアからのオスマン帝国による奴隷貿易と協力して、誘拐された奴隷は他のイスラム世界に運ばれていった。(訳注:クリミア・ノガイ奴隷襲撃は東ヨーロッパにおいてクリミア・ハン国やノガイ・ホルドの軍によって、主にロシアやポーランド・リトアニアが支配する領土でオスマン帝国の後援の下で行われた。これは300年以上にわたって続いた。オスマン帝国はクリミアとオスマンの奴隷貿易のために奴隷を提供した。)
1783年以降、クリミアは黒海におけるロシアのセヴァストーポリ海軍基地の所在地である。ロシア人がこの戦略的な所有物を手放すことは米国がハワイのオアフ島(真珠湾海軍基地を含む)にある戦略的な所有物を手放すことと同じくらいにあり得ないことである。米国は1898年にハワイ王国からハワイを盗み取った。オアフ島から米海軍基地を撤去し、ハワイをハワイ王国の先祖に返すべきだとペンタゴンに推奨してみてはどうか。
トランプ大統領がプーチン大統領に電話をかけ、1955年のオーストリアの中立条約をモデルにしたウクライナの平和協定をまとめるための即時対話を提案することを私はお勧めする。
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これで全文の仮訳が終了した。
戦争における軍事的な勝敗は地上における重要な要素であることは確かであるが、何百年もの歴史的背景も極めて重い。
たとえば、クリミアに関して著者は「1783年以降、クリミアは黒海におけるロシアのセヴァストーポリ海軍基地の所在地である。ロシア人がこの戦略的な所有物を手放すことは米国がハワイのオアフ島(真珠湾海軍基地を含む)にある戦略的な所有物を手放すことと同じくらいにあり得ないことである。米国は1898年にハワイ王国からハワイを盗み取った。オアフ島から米海軍基地を撤去し、ハワイをハワイ王国の先祖に返すべきだとペンタゴンに推奨してみてはどうか」と述べている。
この説明は実に明快だ。クリミアの歴史的背景を無視して、クリミアをウクライナへ変換せよという議論が一部に見られるが、それはクリミアに関するロシアの歴史を全否定することに等しい。ドネツクやルハンシク、ザポリージャ、ヘルソンの諸州も同列の議論であると言えよう。
歴史家である著者の観点は、この引用記事に記されているように、昨日今日の紛争がもたらした結果ばかりではなく、何百年にもわたって繰り広げられてきた歴史的事実や背景を注意深く検証することの大切さを伝えている。

参照:
注1:A Model for Ending the War in Ukraine: By John Leake, Feb/02/2025

<転載終了>