eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)さんのサイトより
https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12890635138.html
<転載開始>

1945年7月17日~8月2日、米英ソ連の3か国がベルリン郊外のポツダムに集まり、ヨーロッパの戦後処理と日本の降伏条件が話し合われたポツダム会談。

 

 

当時日本では天皇陛下がご臨席される「御前会議」と、「最高戦争指導会議」と呼ばれる会議があった。

 

「御前会議」(旧字体:御前󠄁會議)

明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急な重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚、軍首脳が集まって行われた合同会議のこと。ただし法制上には規定はなかった

 

「最高戦争指導者会議」

小磯國昭内閣が成立した直後の1944年(昭和19年)8月に、大本営政府連絡会議を改称して設置された会議で、小磯首相は設置理由の背景について、日清戦争、日露戦争時の大本営会議を引き合いに出し、仮に自分が大本営会議に出席したとしても自由な放談や議論をすることは許されないとの考えから、新たに会議を作った。

最高戦争指導会議の出席者は、内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長とされ、必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長が列席。また重要な案件の審議には天皇が臨席する御前会議の形式で開催された。


1945年(昭和20年)8月22日に廃止された。

 

8月9日、最高戦争指導会議後、鈴木貫太郎首相が裕仁天皇陛下に「御聖断」を仰ぐこととなり、10日に御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決定された。14日の最終的な決定が下され、連合国側に中立国のスイスとスウェーデンの日本公司館経由で受諾の旨が連合国側に伝えられた。

 

 

■戦争末期の「御前会議」の経緯
6月8日の御前会議「今後採るべき戦争指導の基本大綱」

 

6月10日の段階ではあくまでも戦争の完遂が決定されてしまったようです。

 

 

■ポツダム宣言

7月26日には米英と中華民国の政府首脳の連名で、日本に対する降伏勧告の宣言である「ポツダム宣言」が出された。

 

ポツダム宣言は米英ソの3国首脳会談で決定され、中華民国総統の同意を得て発表されたため、参戦前のソ連ではなく、中華民国の名前が米英に加えられ、米英中(中華民国政府=国民党軍政府)の連盟で発表された。

 

ソ連も8月9日に対日参戦後、この宣言に加わっている。

 

■ポツダム宣言を受けての天皇陛下のお言葉が繁栄されなかった鈴木首相の発言

実はこの「ポツダム宣言」を受けて、天皇陛下(昭和天皇裕仁陛下)は東郷茂徳外相に以下の様に述べておられたそうです。

 

「これで戦争を止める見通しがついた。それだけでもよしとしなければ。原則として受諾するほかあるまい」

 

このお言葉を、東郷茂徳外相が「最高戦争指導者会議」に直ちに伝えなかったはすはないと思いますが、その御意思は速やかな形では反映されなかった。

 

「最高戦争指導会議」はこの「ポツダム宣言」に対して取りあえず静観を決めてしまったため、2日後の7月28日の記者会見の場で、鈴木貫太郎首相は「黙殺」と「我々は戦争完遂に邁進するのみ」といった発言を行ってしまった。

 

背景として、終戦間際においても尚、軍内部、特に陸軍を中心として、「本土決戦」を主張する参謀・司令官が多く、7月26日に米英中の三国によって発表された「ポツダム宣言」を受諾するという合意はぎりぎりまで形成されていなかった。

 

 

■7月28日に鈴木首相が発したポツダム宣言を「黙殺する」という表現

鈴木貫太郎首相は、7月28日に行われた記者会見の場で、ポツダム宣言について問われた際、「政府としてはなんら重大な価値があるものとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂に邁進するのみである」と強気に答えてしまった

 

「黙殺」という日本語は、日本の同盟通信社では「ignore」と訳されたが、海外のロイタ ーやAP通信などは「reject (拒否)」という単語を使って大々的に報じた。

 

日本側の「ノーコメント」の意味で用いた「黙殺するだけ」という首相が用いた言葉が日本側の「拒否」として国際社会に広がってしまった、とありますが、これは英語を敢えて誤訳することによる罠だったようです。

 

鈴木首相は、この自身の発言を悔やみ、回想記『終戦の表情』には、「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点」と綴られていたそうです。

 

海外メディアではポツダム宣言の受諾を日本が「reject (拒否)」していると報道され、これによって米国のトルーマンは、原爆投下の機会を得た、と内心喜んだとされている。かたやソ連は日本からの仲介依頼をはぐらかしつつ、米英ソで密約された「ヤルタ協定」に従って対日参戦への準備を着実に進めていた。

 

引用元

「ポツダム宣言」に対して日本の最初の対応が”ノーコメント”だった真相とは? | 歴史人

 

 

■広島・長崎の原爆被害、ソ連の参戦

1945年8月6日と9日には広島と長崎に「新型兵器=原爆が使用された、米軍による原爆投下」があり、未曾有の被害が発生し、それとほぼ同時に8月8日にソ連がヤルタ協定に従って対日宣戦布告し、9日には侵攻を開始しており、事実上日本はほぼ戦争遂行能力を失っていた。

 

 

御前会議

8月9日の最高戦争指導者会議で鈴木貫太郎首相から天皇の「御聖断」を仰ぐ形で翌

8月10日の0時3分から御前会議が開かれた。

 

「ポツダム宣言受諾の可否について」

(昭和天皇から)「最後まで本土決戦とか戦争継続とかいうけれども、戦備は一体出来上がっているのか」という御詰問があって、「陸軍の九十九里浜の新配備兵団の装備が、6月頃には完成するという話だったが一つも出来ていないじゃないか」という強い御叱りもあった。

 

御聖断に対しては何人も奉答する者なく御前会議は10日午前2時半終了して諸事唯、聖旨を奉じて取り運ぶこととなった」

御前会議後の10日午前3時、臨時閣議開催。聖断に従い、国体護持のみを条件にポツダム宣言の受諾を正式決定。

 

8月14日御前会議

ポツダム宣言受諾の最終決定

 

外務省はただちに電文作成に取りかかり、6時間後の8月14日午前9時、中立国のスイスの日本公司館経由で米国と中華民国に、スウェーデンの日本公司経由で英国とソ連に、以下の緊急電報が発せられた。

「帝国政府は天皇陛下の平和に対する御祈念に基き即時戦争の惨禍を除き平和を招来せんことを欲し左の通り決定せり。帝国政府は対本邦共同宣言(ポツダム宣言)に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に右宣言を受諾す……」

 

 

■8月14日から15日未明に起ったクーデター事件「宮城事件」

ポツダム宣言受諾決定に対し、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の若手将校が引き起こした皇居占拠事件であり、彼らは、東部軍と近衛第1師団を決起させようとし、森赳近衛第一師団長を殺害し、ニセの師団命令を出して、近衛師団の部隊に皇居を占拠させる動きに出た。

 

更に、天皇の終戦の詔勅の放送「玉音放送」を阻止しようと、8月14日深夜から15日未明にかけ、「玉音放送」の収録に立ち会っていた下村宏情報局総裁(注)などを監禁した上で、玉音放送を収録したレコード盤を奪おうと、宮内省など皇居内の建物を捜索し、当時、内幸町にあった日本放送協会(NHK)も襲撃。

 

この動きに対して東部軍管区の田中司令官が鎮圧に乗り出して、クーデターは失敗に終わり、15日朝には鎮圧され、正午、昭和天皇による「終戦の詔勅」の朗読の放送「玉音放送」は何事もなく行われた。

 

近衛師団司令部(現 東京国立近代美術館工芸館)
 

戦後、宮城事件の関係者へのNHKによるインタビュー

当時近衛師団第一連隊にいた小田敏生さんという方は後にこう語っておられています。

 

Q 小田さんの中隊で行った、NHKの玉音放送の阻止しようとしてたというのはどう思いますか。

A 結果がどうであれですね、当時の立場上、あるいは当時のいわゆる日本国民としての考え方、当時の軍のあり方、そういうものを考えますと、わたしは間違った行動をとったとは思いませんし、まあまあよくやったといって自分をほめてやりたいような気持ちでいっぱいなんです。

引用元

「“玉音放送を阻止せよ”」|戦争|NHKアーカイブス

 

この事件で注目すべきは、天皇陛下をお守りするために明治24年に創設された近衛師団という、全国から優秀な兵が集められたエリート兵団の一部などが、昭和11年の「二・二六事件」の時と同様に、直接関わっていた、という点です。

 

 

何故彼らは、天皇陛下直近の軍隊でありながら、そのご意志を国民に伝えることを阻止しようとしたのか、そこには玉音放送の中身である「ポツダム宣言受諾」が天皇のご意志ではない、そうであろうはずがないという

 

誤解がそこにあったのかもしれません。

 

天皇陛下による玉音放送収録に立ち会い、当日クーデターを起こした兵士らによって監禁された下村宏放送協会会長という方についてですが、この方は鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)にも任命されていた人物です。

 

つまり、当時の内閣とNHKは完全に一体であり、大本営発表とは当時、内閣と一体であったNHKラジオ放送を通して、日本政府が国民に対して行っていた発表のことででした。

 

(注)下村宏NHK会長

1921年(大正10年)に台湾総督府を退官後、朝日新聞社に入社し専務・副社長を歴任。

1923年(大正12年)2月6日、早稲田大学で科外講義の講師を務め、1937年(昭和12年)1月12日に貴族院議員に勅選され(1946年2月22日まで在任)、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任。

1942年(昭和17年)日本文学報国会理事、第1回大東亜文学者大会座長。

1943年(昭和18年)5月15日に社団法人日本放送協会会長となり、

1945年(昭和20年)4月7日に鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。

1945年(昭和20年)8月8日、昭和天皇に拝謁して情報局の現場や政情等を奏上。この中で、「和戦いずれにしても聖断を仰ぐべき時なり」という考えを国民の心持ちとして伝え決断を促した。

12月2日、GHQは日本政府に対し下村を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。 戦犯容疑者として巣鴨拘置所に勾留された後に釈放。

 

公職追放を受け、東京商業学校(現ドルトン東京学園中等部・高等部)の運営に関わりながら1953年の参院選に無所属で出馬するも落選に終わっている。

下村宏 - Wikipedia

 

 

昭和天皇の国民への終戦宣言である「玉音放送」の威力は絶大で、終戦後、GHQによる日本統治の間、日本人によって組織的な暴動が起こったことはただの1度もなかった。(例外として、朝鮮学校閉鎖をGHQが決め、日本政府が学校閉鎖しようとした際、38年4月14日~26日に大阪と兵庫で在日朝鮮人の人々と日本共産党が起こした阪神教育事件の際、戦後の日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告されている)

 

 

 

第二次大戦終盤の時系列

■1945年2月 米英ソのヤルタ会談

第二次大戦終盤の1945年2月、連合国の米英ソ3国はソ連のクリミア半島ヤルタでソ連の対日参戦を促すための「ヤルタ会談」が開かれた。

 

これはソ連に対し「日ソ中立条約(41年4月に締結)」を破棄して、「ドイツ降伏の3カ月後以内に対日参戦する」ことを促すものであり、具体的には、ソ連の日本侵攻作戦として、米ソの間では「プロジェクト・フラ作戦」の合意が交わされた。

 

 

■45年3月10日などに行われた東京大空襲

3月10日、米空軍のB29爆撃機344機が午前0時8分、東京上空に飛来。1665トンの焼夷弾(しょういだん)で下町地区は火の海となり、死者10万人、焼失家屋27万戸、東京の全建物の4分の1が破壊されたといわれる。この日以降も4月13日、5月25日の大空襲を中心に、105回の空襲を受けた。

 

東京都は1990年に、3月10日を「東京都平和の日」と定めた。

 

■2月19日~3月27日 硫黄島の戦い Battle of Iwo Jima

小笠原諸島での死闘

 

■3月26日~ 米軍による沖縄上陸戦

 

■4月5日 ソ連が日ソ中立条約の不延長(事実上の破棄)を通告

 

■4月~7月 米ソの共同作戦「プロジェクト・フラ作戦」

具体的には昭和20年の4月~7月まで、アラスカ半島の先端のコールドベイにある米軍兵1500人が常駐する米軍基地で、ソ連軍から集めた1万2000人の将兵に対し、船舶輸送やレーダー、無線通信、ソナー、エンジニアリング、機雷除去などの習熟訓練の指導を米軍が行った

 

ソ連には当時上陸用舟艇がなく、そうしたこともあり、日本陸軍はソ連の北海道への上陸をさほど心配していなかったが、作戦実行のために米軍は艦船を百隻以上をソ連軍に貸与し、それに乗ってソ連軍が北方領土や千島列島に上陸し日本に攻撃をしかけたのだそうです。

 

米軍はこの作戦のために1945年11月までに180隻をソ連に貸与することを計画。実際に、米軍からソ連に対して掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、フリゲート艦28隻、駆潜艇32隻など計149隻の艦船が無償貸与されて、その内の11隻を含む18隻(輸送船を含む)が北方領土上陸作戦に使用された。米国からの貸与艦船は、ソ連海軍によって千島列島のほか、南樺太や朝鮮半島北部の上陸作戦にも使われた。

 

プロジェクト・フラ - Wikipedia

 

ソ連による「北方領土」上陸作戦は米ソの「プロジェクト・フラ作戦」に基づいて行われたものだった | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)

 

 

■7月17日~8月2日のポツダム会談(米英ソの会談)

第二次世界大戦中の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったドイツのベルリン郊外のポツダムで、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。

 

第二次世界大戦の連合国「三大国」の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。主に討議されたのはドイツをはじめとしたヨーロッパおよび中東の戦後処理であり、会議の最後にはポツダム協定が策定された。但し、会議の公式日程において対日問題は協議されていない、とある。
 

ポツダム会談 - Wikipedia

 


■7月26日のポツダム宣言(米英中の三国の連盟による宣言、後にソ連も加わった)

7月26日には日本政府に対して英国、米国、中華民国の政府首脳の連盟において、日本軍の無条件降伏などを求める全13か条で構成される宣言。

 

正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言 (Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言」とも呼ばれる。ソ連は、後から加わり追認し、そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至り、第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。

ポツダム宣言 - Wikipedia

 

ポツダム宣言は米英ソの3国首脳会談で決定されたのち、中華民国総統の同意を得て発表されたため、中華民国の名前が米英に加えられた、とあります。

 

ポツダム宣言の受諾を日本側は、駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表(玉音放送)

 

終戦協定の調印が9月2日であることから、日本以外の国では、第二次世界大戦の終戦は9月2日となっており、中華民国(国民党軍の中国政府、現在の台湾)は9月3日、当時調印当日戦艦ミズーリ号にいなかった、というよりそもそも国すら出来てもいなかった中華人民共和国(共産党軍の現在の中国は49年10月1日に建国)なども9月2日を何故か対日戦勝記念日としている。

日本の降伏文書 - Wikiwand

 

中国、ロシア、アメリカで「対日戦勝記念日」が異なる理由(SBCr Online)

 

ミズーリの上に飾られた2つの星条旗の意味 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)

 

 

■8月6日、9日 広島・長崎での原爆

当日の広島の様子を語っている文章を以前、拙ブログでご紹介していますので、そちらをご参照ください。

世界の核兵器と核保有国 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)

 

 

■8月8日午後5時ソ連の対日宣戦布告、8月9日の零時に攻撃開始

ソ連軍は連合国の要請により対日参戦し、満洲国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍には、ソ連軍の進撃を防ぐ手段は無く、日本の降伏を決定付けた。

布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤大使は、東京の政府へ連絡しようとした。モロトフ外相は暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤大使はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった。

なお、「ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが、本来対ソ宣戦を決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった」とあり、従って、「日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強かった
 

 

■8月18日~21日の日ソ間の占守島の戦い

1945年(昭和20年)8月18日~21日、千島列島東端の島でソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間で「占守島の戦」という戦闘が行われている。

 

8月18日未明ソ連軍は占守島も先制攻撃、武装解除を停止していた日本軍守備隊と戦闘となり、占守島自体の戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後多くがポツダム宣言の趣旨に反する形で連行され、シベリアへ抑留された。

 

2月に米英ソ連の間で結ばれた秘密協定である「ヤルタ協定」ではソ連が日本との戦争に参戦する場合、戦後、北緯50度線以南の樺太南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが決められていたそうです。

 

8月15日に米国のトルーマン大統領が、ソ連のスターリン首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかったため、ソ連側は千島列島及び北海道北東部(釧路 - 留萌を結んだ直線以北「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた。)をソ連担当地区とすることを求め、米国も17日付の回答で北海道北東部については拒否したものの千島列島については同意した、などとあります。

占守島の戦い - Wikipedia

 

当時の一般の多くの国民が思っていた本音では、早く戦争を終わりにしてほしい、というものであったでしょうし、そのまま続けていたら、ひょっとして、3発目、4発目の原爆が使用されていたかもしれません。しかし、そうしたことを(言えば非国民扱いされるわけで)当時の人々は口に出来ようはずがなかった。

 

負け戦さとなった太平洋戦争を、一刻も早く終わらせるために、日本国民、特に戦争を継続しようという帝国陸軍の人々に対し、既に「新型兵器」を米国が開発し終わって、それを日本に2発落とされた、と日本人に信じさせる必要があったのかもしれません。

 

そうでもしないと、その当時大本営発表で国民を偽って戦争継続をしてしまった手前、帝国軍の敗戦を認めること、即ち終戦が容易にできない状況に軍部は陥っていたようです。

 

日本側には(天皇陛下の真意を汲み)、連合国軍と協力して終戦にもっていくための協力者がいた、それが「昭和の藤原氏」近衛文麿であった、という推論を近現代史研究家の林千勝先生がなさっておられます。

 

使用されたものは果たして本当に原爆兵器だったのか、また、それは米軍の戦闘機B29から投下されたものだったのか。

 

現代日本にとって極めて貴重な「頭脳」である林千勝先生の、極めて興味深い内容の、驚愕の推論が語られている動画です

 

林千勝×水島総 第39回「ウォール街ともディールするトランプ、一方日本はグローバリスト特区に?」[桜R7/3/15] 原爆煮ついてのお話は31分50秒あたりから

 

 

下の写真は広島の爆心地から500メートルが離れた広島市袋町に勤務していたレントゲン技師の松重三男さん撮影のものだそうですが、但し、8月6日当日は病気療養のため、爆心地から7キロ離れた自宅におられた。この写真は国連のサイト「A-Bomb  Terror」にも掲載されているようです。
 
1945年8月6日8時17分、当地の太陽高度は約34度。当時自宅にいた松重三男さんの目撃証言「ピカッと光った直後に火球が尾を引くように凄い速さで上昇するのを目撃」

果たして、これは実際に人類初の実戦使用された「米軍製の原爆」であったのか、あるいはそうでなかったのか、地上起爆だったのか、米軍戦闘機B29からの投下だったのか。

 

参考

1942年に「マンハッタン計画」を会議で決めた「ボヘミアンクラブ」とは | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)


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