eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)さんのサイトより
https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12911456309.html
<転載開始>

トランプ大統領が21日にご自身のSNSで米軍がGBU-57爆弾バンカーバスター)でイランの3カ所の核施設を直接攻撃したと報告。

 

 

攻撃の瞬間映像

 

 

トランプ氏は「イランの核の脅威は中和された」と宣言し、この攻撃を「見事な軍事的成功」と表現。

 

 

これに対し、イランは「外交の最中であるにもかかわらず、米国がイランとの戦争を始めたという事実を忘れてはならない」と警告。

 

サウジアラビアは米国に対する懸念を表明し、英国は米国が再びイランとの核交渉に復帰するよう呼びかけた、と報じられています。

 

サウジ、米のイラン攻撃に「強い懸念」 英は交渉復帰呼びかけ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

 

22日にヘグセス国防長官は記者会見で、「真夜中の鉄槌」と名付けられた作戦で、はB-2戦略爆撃機7機が投入され、攻撃には地下貫通爆弾「バンカーバスター」の中で最大級の「GBU-57」14発が初めて実戦で使われたと発表し、「イランの核開発計画の壊滅」を図ったものであり、 体制転換狙ったものではないと語ったそうです。

 

米国防長官「イランの核開発計画を壊滅」 “体制転換狙ったものではない” イラン外相「核兵器を保有していない」 米攻撃非難も“報復”言及せず

 

 

 

米国には約512万8千人、全人口の1.82%のユダヤ人が住んでおり、イスラエル以外では米国はユダヤ人が最も多く居住している国とされます。

■ユダヤ人富豪からのトランプへの政治献金

2024年の大統領選挙ではイーロン・マスク氏が巨額の政治献金を行ったことは日本でも盛んに報じられていましたが、第一次トランプ政権誕生前の2016年の選挙キャンペーンから、ずっとトランプ氏を応援している人物に、ユダヤ人社会の一員でカジノ業界の大手ラスベガス・サンズのオーナーシェルドン・アデルソン氏の未亡人のミリアム・アデルソンというユダヤ人女性がおられるそうです。

 

アデルソン女史は第一次トランプ政権時代から現在に至るまで300~400億円の献金を行っており、これまでも米国共和党への主要な政治献金者とされる人物です。

 

彼女は2016年の大統領選挙の選挙キャンペーンや2017年の大統領就任、2016年の米大統領選挙へのロシア干渉に関する特別捜査に対する弁護基金にも多額の献金を起っており、2018年にトランプ大統領から大統領自由勲章を授与されています。

 

彼女はイスラエルの大手紙イスラエル・ハヨムのオーナーでもあるそうです。

 

 

■イランとの核交渉を打ち切ったトランプ大統領

米大統領は中東イスラム勢力の国々とイスラエルとの対立構造において、イスラエル側にどうしても立たざるを得ないようで、トランプの姿勢がこれまでに比べぐらぐらしていると伊藤貫氏はご指摘されておられましたが、とうとうとランプ大統領がイランとの核交渉を打ち切って、イランの核施設を直接攻撃してしまいました。

 

イラン爆撃、トランプ氏は外交より武力行使に賭ける

米国は約半世紀にわたりイランと争ってきたが、その対立は主に影に隠れていた。米国の政策立案者たちは、しばしば不本意ながらも、外交が好ましいと考えていたからだ。

 

ドナルド・トランプ大統領がイランの核施設への攻撃を命じたことで、米国はイスラエルと同様にイランとの対立を公にした。その結果が明らかになるまでには時間がかかるかもしれない。

 

「イランが核兵器を獲得することなく、今後3年から5年を乗り切ることができれば、それが成功だったとわかるだろう」と、元CIAアナリストで2003年のイラク戦争支持者であり、現在は中東研究所の政策担当副所長を務めるケネス・ポラック氏は述べた。

 

米国の情報機関は、イランが核爆弾を製造していると結論付けていなかった。イランの機密性の高い核開発は主に交渉の材料とみなされており、イランは攻撃に備えて予防措置を講じていたと推定される。

 

クインシー研究所の副所長で軍事行動を公然と批判するトリタ・パルシ氏は、トランプ氏が「今後5年から10年以内にイランが核兵器国となる可能性を高めた」と述べた。

(中略)

自制を提唱するディフェンス・プライオリティーズの軍事分析ディレクター、ジェニファー・カバナ氏は「トランプ氏が自らの外交努力を縮小するという決断は、中期、長期的に合意を得ることをさらに困難にするだろう」「イランには今や、トランプ氏の言葉を信じる動機も、妥協がイランの利益につながると信じる動機もない」と述べた。

 

カーネギー国際平和財団の上級研究員であるカリム・サジャドプール氏は、トランプ氏の攻撃がイランの地位を強固にするか、あるいは崩壊を早める可能性があるとソーシャルメディアに投稿した。

 

「米国のイラン核施設爆撃は前例のない出来事であり、イラン、中東、米国の外交政策、世界の核不拡散、さらには世界秩序にさえも変革をもたらす可能性がある」と指摘。「その影響は今後数十年にわたって評価されるだろう」と述べた。

イラン爆撃、トランプ氏は外交より武力行使に賭ける

 

イラン、イスラエルに向けミサイル発射 米による核施設への攻撃受け 10発以上命中の報道

米国によるイラン核施設への攻撃を受け、イランは22日、イスラエルに向けてミサイルを発射しました。現地メディアは、10発以上が命中したと伝えた。

 

イランの3つの核施設が米軍に攻撃された後、イランはイスラエルに向けてミサイルを発射し、イスラエル各地で22日朝、空襲警報が鳴り響いた。

 

イスラエルメディアによると、20から30発のミサイルが発射されたとみられ、そのうち10発以上がテルアビブや北部ハイファなどに着弾。

 

イラン外務省は米軍による核施設への攻撃を強く非難し、「外交の最中であるにもかかわらず、米国がイランとの戦争を始めたという事実を忘れてはならない」と警告。

 

一方、イスラエル軍はイラン西部の軍事目標に対し、新たな攻撃を開始し、ミサイル発射台を破壊したと発表し、双方の攻撃の応酬のさらなる激化が懸念される。

イラン、イスラエルに向けミサイル発射 米による核施設への攻撃受け 10発以上命中の報道

 

「米国の野蛮な侵略を非難する」…イラン外務省声明の要旨

 

 

■これまでの歴史

1948年のイスラエル建国後、イランは中東のイスラム国家の中で早い段階からイスラエルを事実上承認するなどしたため、両国の 外交関係は非公式に存在し、特に冷戦時代には米国を共通の友好国とする立場から、安全保障や経済、情報共有の面で連携していたそうです。

 

それが一変したのは1979年のイラン-イスラム革命からでした。

 

■イランーイスラム革命によって生まれた米国と中東イスラム勢力との対立構造

1979年の「イラン・イスラム革命」とそれに続く、「駐アフガニスタン米国大使殺害事件」「イランの米国大使館人質事件」などの一連の「米国大使館の受難の歴史」は米国と中東のイスラム教勢力との戦いの始まりの事件とされます。

 

 

1979年にイランで起きたイスラム革命後のイランの革命体制は、イスラエルをイスラム教の聖地エルサレムを占領した敵とみなし存在も否定するものだった。

 

1982年のレバノン戦争中、イランがレバノンのイスラム教シーア派とパレスチナの過激派を支援したため、代理戦争の形での冷戦構造が始まる。

 

 

イラン革命で成立したイラン・イスラム共和国は、イスラム革命防衛隊などを通じてハマスやヒズボラなど中東各地のイスラム過激派組織、シリア内戦におけるバッシャール・アル=アサド政権側を支援するなどでイスラエルと対立し、イスラエルはイランの核開発計画阻止を掲げるようになる。しかしながら、昨年のイスラエルによるイラン攻撃まで、両者が直接攻撃し合ったことはなく、双方の関係は「冷戦」と表現されてきた。

 

 

■イランとイスラエルの直接戦争へ発展した2024年

こうした両国の代理戦争(In 2024, the Iran–Israel proxy conflict)は、2023年パレスチナ・イスラエル戦争後に激化し、24年1月にイスラエルが行ったシリアのダマスカスへの空爆で、当時会議に参加していたイラン政府高官やイラン革命防衛隊幹部を少なくとも10名殺害し、4月にはダマスカスのイラン大使館を空爆する事態に発展。

 

参考

 

 
以下の記事は2021年7月に別ブログに投稿した記事ですが、参考として、こちらにも貼っておきます。
 

「米国の戦いと米国大使の受難の歴史~イラン・イスラム革命後の関係悪化」

 


2013年のアカデミー賞作品賞映画「アルゴ」(2012年米国)

1979年にテヘランで起きた「イラン米国大使館人質事件」の裏の救出作戦を描いた作品。作品賞、脚色賞、編集賞の3部門を受賞。

 

中央がイラン革命防衛隊である「コッズ部隊」ソレイマニ司令官(2020年1月に米軍の攻撃を受け死亡)彼はイランにとっては英雄だった。

 

 

米軍vsイラン・イスラム勢力との戦い

2020年1月の正月早々、米国トランプ政権下でイランの「ソレイマニ司令官の殺害」という軍事作戦が行われたことをご記憶されている方は多いと思います。

 

 

ソレイマニ司令官はイランの革命防衛隊である「コッズ部隊」の最高司令官で、米軍はこの時同時にイラクのシーア派民兵部隊のアブ・マフディ・ムハンディス副司令官も殺害し、その他にも、イラクやシリアのシーア派民兵組織の基地も攻撃して多数のイスラム組織の民兵などを殺害したと報道されました。

 

 

ソレイマニ司令官の米軍による殺害後、両国間で緊張が高まり、2020年1月8日にイランはイラク国内の米軍基地をミサイルで攻撃。さらなる報復の連鎖と中東情勢の不安定化が懸念。

 

 

米トランプ大統領は、「イランが報復として米国民を拷問したり、障害を負わせたり、爆弾で吹き飛ばしたりした場合は、イランの文化遺産を含む『52か所の標的』を攻撃する」とツイートし、これは世界から大非難を浴びました。

 

 

「52」という数字をトランプ大統領がわざわざ示したのは、遡ること40年前の、1979年の11月4日にイランの首都テヘランの米国大使館に学生のデモ隊が乱入し米国人の外交官やその家族52人を長期間拘束した「イランの米大使館人質事件」に纏わる数字だったようです。大使館員全員解放まで444日間を要したようです。

 

 

1979年の「イラン・イスラム革命」とそれに続く、「駐アフガニスタン米国大使殺害事件」「イランの米国大使館人質事件」などの一連の「米国大使館の受難の歴史」は米国と中東のイスラム教勢力との戦いの始まりの事件でした。

 

 

引用元:

米のイラン司令官殺害 前例なき作戦が生む疑問

【解説】米のイラン司令官殺害 前例なき作戦が生む疑問 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News

 

 

■1979年から始まったイスラム勢力と米国の関係悪化

イランと西側諸国との関係は最初は良好だったものが、1979年の「イラン・イスラム革命」を境に、関係がこじれにこじれたてきたようです。

 

 

イランは嘗ては シャー”(古代ペルシアにおける「大王」、報道では「国王」「皇帝」などと表記)が支配する王制国家でした。

 

 

1908年にイランの油田が中東で最初に発見され、 その当初から開発にあたったのは英国の国策会社である アングロ=イラニアン石油会社 (AIOC、現ブリティッシュ・ペトロリアム,略称BP) )といわれています。

 

第2次大戦期、国王レザー=ハーンはナチス・ドイツに接近したことで、英国やソ連の反発を招き退位させられ、代わって国王となったのが、レザー・ハーンの長男モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)でした。

 

 

パフラヴィー国王の「白色革命

パフラヴィー2世は皇太子時代、上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校「ル・ロゼ」へ留学し、その後CIA長官となるリチャード・ヘルムズら同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作ったとあり、 親英・親米路線でした。

 

 

欧米諸国からの支援を元に開発独裁と親欧米化路線を進め、欧米諸国の外国資本の導入に努めた、などとあります。

 

 

1971年訪米時のパフラヴィ―2世とニクソン大統領夫妻

 

 

 

また、日本の飛躍的な経済成長に注目して「白色革命」に着手し、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、教育の振興、農村の開発などの改革を実行。

 

 

 

女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止し、婦人参政権を確立するなど政教分離原則化を進めたなどとあります。

 

 

これはシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であるルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招き、これに対し、パフラヴィー皇帝はイスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を弾圧し、投獄や、国外追放処分としたため、反体制派ホメイニ師らはパリに亡命。

 

 

73年の第四次中東戦争を機に起きた「オイルショック」(73年10月の「第一次オイルショック」では産油国が原油価格をつり上げ、産油量の段階的削減などを発表)の後の急速な原油価格の安定化などを受け、イラン経済が不調に陥ったこと、国内の貧富の差が広まったことなどで、パフラヴィ―2世に対する国民の不満が高まり、パフラヴィー2世の親米・独裁体制は、パリにいるホメイニ師の影響を受けた革命勢力の抵抗運動招くことになった。

 

 

■石油利権をイランに取り戻す抵抗運動

それを追い風に、反体制派は次第に農民や労働者階級からの支持を受け、国内の「反王制・民族主義勢力」、外国勢力からの解放、独立を目指す勢力の反発を利用。特に英国系の石油会社が独占していたイランの石油利権をイランの手に取り戻そうという抵抗運動が強まる。

 

 

政治への不満も高まりを見せ、1975年には皇帝の求心力を保つために二大政党制を廃止してラスターヒーズ党(復活党)による一党制を行い、バザール商人はそのスケープゴートにされたため更に反発を招いた。

 

 

「イスラーム・イラン革命」

米国を後ろ盾に独裁を強めるシャーに対する反体制運動は、ホメイニ師をはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやイラン共産党(トゥーデ党)などソ連が支援する左翼も参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発。

 

 

 

 

■パフラヴィ―2世の亡命

パフラヴィー2世は1979年1月16日に皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦して避暑地であるエジプトのカイロに亡命して王政は崩壊。 

 

 

「ホメイニ師」は革命の象徴的存在とされ、皇帝一家のカイロ亡命を受け、14年間の亡命先のパリから79年2月1日にイランに帰国。

 

ホメイニ師(1902~1980年)を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派の法学者たちを支柱とする国民の革命勢力が、モハンマド・レザー・パフラヴィ―(パフレビィ―2世)の専制に反対。15年ぶりにパリから帰国を果たし、ホメイニ師はただちに「イスラーム革命評議会」を組織。

 

 

2月11日、評議会はパーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となると「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。

 

 

4月1日、ホメイニは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。

 

 

パフラヴィ―2世の家族はその後、カイロ→モロッコ→バハマ→メキシコを転々としたそうですが、パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけで「人道的見地」から米国入国が認められ元皇帝とその一行は10月22日にニューヨークに到着。

 

 

しかし米国による「人道的見地」での皇帝一家の亡命受け入れは同年に発生した「イラン米国大使館人質事件」を招くことになった。

 

 

皇帝一家の亡命を受けいれた米国への抗議から、11月4日にテヘランの米国大使館を占拠して皇帝の身柄引き渡しを求めるという、「イラン米国大使館人質事件」に発展。

 

このとき「米国人52人」が人質になった。

 

 

その後、外交官6人が翌1月にテヘラン市外に脱出し、カナダ大使公邸に匿われ、カナダ大使館のテイラーカナダ大使はこの6人にカナダ旅券やイランの偽造査証を提供して出国を助けた。

 

その際にCIAが6人をハリウッド映画関係者に偽装させて出国させた顛末が、2012年の米国映画「アルゴ」で描かれているそうです。

 

結局、人質事件は444日間も続き、1980年1月20日に解決。

 

■パフレビィ―2世はエジプトで客死

パフラヴィ―2世は自らが米国へ亡命したことで、11月の抗議デモから発展して起こったテヘランの「米国大使館人質事件」の発生を受けて、79年12月5日に米国を離れてパナマへ向い、その後、パフラヴィ―2世と「兄弟」と呼ぶほど親交のあったエジプトのサダト大統領に受け入れられて、1980年7月27日にカイロで死去。

 

 

パフレビィ―2世の墓は今もカイロにあるようです。

 

 

左から、ベギン首相、カーター大統領、サダト大統領

エジプトのナセル大統領の死後、1970年にからエジプトの大統領になったサダト大統領はナセルが敷いた汎アラブ対イスラエル強硬路線を継承し、1973年にはシリアと共にイスラエル攻撃を行って「 第四次中東戦争」を指導。

 

 

79年に米国カーター大統領の仲介で、イスラエルのベギン首相とサダト大統領は会談し、両国は国交回復。

 

パフラヴィ―2世の亡命を助けたこと、エジプトがイスラエルと単独和平条約を締結したことに反発してイランはエジプトと1979年以来国交を断絶し、その後25年経ち漸く国交回復したそうです。

 

 

サダト大統領は81年10月、第四次中東戦争開戦日の戦勝記念日のパレードの観閲中にイスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺。

 

イランの テヘラン市内の通りにはこの暗殺犯の名前がつけられ、イランとエジプトとの復交の障害となっていたとされます。両国の国交回復の際にテヘラン市はこの通りの名の変更をを行ったそうです。

 

 

イラン国内の一連の政治的・社会的変動を「イラン・イスラム革命」と呼び、封建的な王制への反発という民主主義革命であると同時に、脱西欧化、イスラム化を求める反動的回帰という性格だったようです。

 

パフラヴィ―2世と入れ替わりに、1979年2月1日には、パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国し、以後はホメイニ師がイランの最高指導者となり、2月5日ホメイニ師は回教共和国樹立のための暫定政府首相にメヘディ・バザルガン博士を指名 。

 

 

反体制勢力は王党派を駆逐し、イスラム原理主義、反米路線を掲げる新政権が樹立され、「イラン=イスラム共和国」が成立。

 

 

2月13日、辞任を拒否していたイランのバクチアル首相が、新体制側民兵に逮捕される。

 

当時サウジアラビアは世界最大の石油会社アラムコを完全国有化を発表。イランと対照的にサウジは穏健路線で油断の国有化に成功。親米路線も維持。

 

 

「イラン・イスラム革命」前までのイランは中東において、西洋化を通じた近代化の手本のような存在であったのに対し、「イラン革命」はこの発展モデルを正面から否定することだったようです。

 

引用元:

ルーホッラー・ホメイニー - Wikipedia

 

「イラン・イスラム革命」が進行中の1979年2月、カーター政権時代、アフガニスタンの首都カブールでも、アドルフ・ダブス米大使が反政府軍に誘拐され、奪い返そうとする政府軍との戦闘が起こり戦闘中に大使が殺害されるという事件が発生

 

 

■「駐アフガニスタン米国大使誘拐と殺害事件

2月14日アフガニスタンの首都カブールで、アドルフ・ダブス米大使が反政府軍に誘拐され、奪い返そうとする政府軍との戦闘中に死亡。

 

 

■「イランの米国大使館人質事件

パフラヴィ―2世が亡命後に、「癌の治療目的」で米国に入国することに抗議するデモ集会が米国大使館で連日起こり、11月4日、イランのテヘランで発生した「イスラム革命防衛隊」率いる暴徒が米国大使館にを占拠しサリバン米国大使らを人質とする事件が発生。

 

 

占拠は444日という長期に及び、52人を人質とする事件となり1981年1月20日に漸く解決。

 

引用元:

イランアメリカ大使館人質事件 — Google Arts & Culture

 

■イラン・イラク戦争ではイラクを支援

イラン革命直後のイランに対し、サダム=フセイン独裁下のイラクが1980年9月17日、イラク軍にイラン領内への侵攻を命じ、9月22日から戦闘が本格化。

 

 

イランが反撃してイラクに侵攻し戦争は長期化。その過程でイラク軍は親イランのクルド人に対し毒ガスを使用。

 

 

国連安保理は緊急に停戦を決議、イラクは受け入れたがイランの最高指導者ホメイニ師は拒否し、戦闘が長期化することになった。背景には宗教的対立、石油資源をめぐる対立があり、米国はイラクを支援。

 

 

イラン・イラク戦争は1980年9月~1988年8月までの9年間にわたって続き、戦争前半はイラク軍が優勢、後半はイラン軍が巻き返すという経過で進み、この戦争で初めて隣接する国が互いにミサイル攻撃し合う最初の戦争となった。

 

 

またイラク軍により化学兵器が使用され、被害が拡大。

 

 

■米国はイラン・イスラム革命の拡大を懸念しイラク支援にまわった

イラン=イラク戦争では米国とソ連、さらに周辺のアラブ諸国がイラクを支援した。

 

 

それは前年のイラン革命が拡大することを恐れたためで、特に米国は前年のアメリカ大使館人質事件が続いており、1980年4月7日にイランと国交を断絶、経済制裁を開始。

 

 

4月25日には大使館の人質救出作戦に失敗していたため、対イラン感情は最悪の状態となり、そのため積極的にイラクに兵器供与を供与した。

 

 

後の湾岸戦争ではイラクはその武器で米国を主体とする多国籍軍と戦うこととなったといわれている。

 

 

イランに対する圧力

■2006年~2010年

JWブッシュ政権及びオバマ政権時代に、国連安保理決議によりイランに対し「ウラン濃縮中止」、「核関連原料及び技術の禁止及び核開発計画に関係する個人や企業の資産を凍結」「イランに対する武器輸出の停止、凍結資産を拡張」等々数多くの経済制裁を行い且つ、米国独自の「対イラン二国間制裁」を実施。

 

 

■2019年4月に「コッズ部隊」を「外国テロ組織」に指定

「イラン革命防衛隊」は中東で高度な対外工作を行い、シーア派民兵のイラクでの訓練などを行なっていたため、前年の2019年4月に米国トランプ政権はイラン革命防衛隊である「コッズ部隊」を「外国テロ組織」に指定。

 

 

■2019年12月末バクダットの米国大使館襲撃事件が発生

12月27日北部キルクークに近いイラク軍基地が30発を超えるロケット弾攻撃を受け、米軍の請負業者の米国人1人が死亡、米兵4人が負傷。幸い大使らは不在だったため無事だった。

 

 

米国はこれをイラン支援のイラク民兵組織「カタエブ・ヒズボラ」(神の党旅団)による犯行として、同組織のイラクとシリアの拠点5カ所を報復空爆し、少なくともイラク人の戦闘員ら25人が死亡、55人が負傷。イラク国営通信によると、イラク中西部アンバル州で米軍の無人機が「イラク人民動員隊」(注)を攻撃し、イラク人が死傷。「カタエブ・ヒズボラ」はこうした米軍の攻撃に報復することを言明。

 

 

(注)イラクの約30に上るシーア派民兵組織の統合部隊。過激派組織IS掃討に力を発揮したが、イランの影響下にあるとされる。

 

 

12月31日になって同組織のメンバーら数百人がバグダッド中心部のグリーン・ゾーン内にある米国大使館を襲撃。襲撃者は「米国に死を」と叫び、投石や火炎瓶を投げるつけるなど暴徒化し、建物の一部を放火。何人かが建物の屋根に上ろうとしたため、警備の米海兵隊が催涙弾を発射するなど危機的な状況となったが、上部組織の「イラク人民防衛隊」が撤収を指示。

 

 

■米軍による反撃、ソレイマニ司令官殺害

2020年1月1日午後になって騒乱は沈静化。米国大使館包囲網は解除された。その頃米国大使は休暇でおらず大使館員らは避難して無事だったそうです。

 

 

イラン軍のソレイマニ司令官は米国にとっては「テロリスト」とされたのと対照的に、イランの保守派や、米国に批判的な人々からは大変支持されていた人物で、イランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイ師とも強い繋がりを持ち、ソレイマニ司令官殺害対してハメネイ師は涙を流し、米国への「報復」を誓ったとされています。

 

 

現在のイランの最高指導者ハメネイ師(1939年~)

 

引用元

米軍に暗殺されたイランの「英雄」 その死を追う

 

「イラン首都でソレイマニ司令官の葬儀に大群衆 最高指導者は涙」

イラン首都でソレイマニ司令官の葬儀に大群衆 最高指導者は涙 - BBCニュース

 

イランのソレイマニ司令官とは何者か? 米軍による殺害が一大事である理由 | ハフポスト WORLD

 

長いので一旦切ります。


<転載終了>