https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12921359888.html
ミッドウェー海戦の真実は誰も語られないでしょうね。
それこそ基地外と言われるようで。
海戦している時に米軍艦隊がどこに居たのかわかればいいのですが
<転載開始>
「大和」は大日本帝国海軍が徹底した極秘裏建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の「武蔵」と共に史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦で世界最大の戦艦で、呉海軍工廠で秘密裏に建造され、昭和16年(1941年)12月16日就役し、昭和20年(1945年)4月7日、沖縄戦の「天一号作戦」で沈没。
沖縄戦の海上特攻「捷号作戦」時の「大和」
極秘裏に建造された「大和」
帝国海軍の象徴で、技術の粋を集めて極秘裏に建造された「大和」が実戦投入されたのは「レイテ沖海戦」と「沖縄戦支援」の2回のみであった。
「レイテ沖縄戦」では「大和」は「謎の引き返し」をしている。
■レイテ沖海戦
第二次世界大戦中の1944年10月20日から25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍と米国及びオーストラリア両海軍からなる連合軍との間で交わされた一連の海戦の総称。フィリピン奪回を目指して侵攻する連合軍を、日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生。6日間の海上戦役は、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦で構成されており、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行われていた。また、神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用されている。連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだこの海戦は「捷一号作戦」として発動された。
日本海軍はこの海戦を最後にして事実上消滅し、侵攻した連合国軍の最高指揮官マッカーサーは、25日に同島に司令部を設置した
栗田艦隊の「武蔵」と「大和」
「大和」と並ぶ大型で主要の戦艦「武蔵」がレイテ湾海戦で敵艦隊により沈没。このとき栗田中将が「大和」に出した命令は、レイテ湾のある南方向への進撃ではなく北方向への反転であったが、実はそのとき栗田中将には電報が打たれ、その内容は「北方に敵艦隊あり、突撃せよ」というものだった。
レイテ沖での戦艦大和の謎の引き返しの意外な真実とは?詳しくひも解いていく - Rinto
壮絶な沖縄戦
1945年沖縄諸島に上陸上陸した米軍と英軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いの総称。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(Operation Iceberg、氷山作戦)。
1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了。
連合国軍の目的は、日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、九州南部および関東平野の侵攻作戦(ダウンフォール作戦)の補給基地の確保であった。
日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた持久戦を意図するという不統一な状況であった。
第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。
海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。
■「大和」の沖縄戦支援、海上特攻
「沖縄戦の真実」より
昭和20年(1945年)4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領「第一遊撃部 戦艦「大和」、第二水雷戦隊「矢矧(やはぎ)」及び駆逐艦6は海上特攻として4月8日黎明沖縄に突入を目途し、急速出撃準備を完成すべし」との暗号電報が戦艦「大和」に届いた。
本艦には第二艦隊司令長官・伊藤整一中将が座乗し、聯合艦隊(れんごうかんたい)作業地・山口県三田尻沖で訓練と警泊を繰り返し、警戒態勢のまま待機していた。
■天一号(てんいちごう)作戦計画
GF電令作第564A号として艦隊に伝わった。作戦内容は、
①第一遊撃部隊は警戒を厳にして内海西部方面にあって待機し、特令により出撃準備を完成する。
②航空作戦が有利な場合は、第一遊撃部隊は特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅する。
警戒並びに発動要領は「捷号作戦」に準じ本職(聯合艦隊司令長官)之を下令す」
とあった。
遊撃部隊は航空戦の戦果に策応して水上決戦を企図する任務の名称であり、これは前年のレイテ沖海戦で生まれた「捷一号作戦」と同じ戦術だった。
■沖縄戦第一遊撃部隊の旗艦「大和」
船体全長を縦にすると、東京都新宿にある都庁ビルをはるかに超える263m、最大艦幅は現代の40m道路に匹敵する38.9m、船体の深さとなるキールラインより最上甲板側線までは、6階建てビルに相当する高さ18.915m、さらに満載排水量7万2809トンの巨艦であった。
世界最大の口径46㎝艦載砲を3連装した主砲塔も、3基9門搭載し、我が国の大艦巨砲主義の象徴であった。
(中略)
第一遊撃部隊は出撃準備し、信号により「第一遊撃部隊 明日6日徳山回航の予定」と打電。
6日、第一遊撃部隊は各艦別々に三田尻沖を離れ、徳山湾沖の錨地(船が錨を下ろして停泊する場所)の岩島灯台の南南西、3.8㎞の地点に、「大和」を中心に集結。
■沈没
7日、12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米国海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始。
米艦隊の戦闘機、爆撃機、雷撃機による同時攻撃を受け、14時23分「大和」沈没。
伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名(第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名)
「大和」は現在、鹿児島県「坊の岬沖」の海底345mで静かに眠っている。
米国からみた沖縄戦
米軍は、当初の計画は1か月で沖縄を攻略する計画であったのに対し、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害を被る事になった。
しかも、その人的損失はドイツ軍を相手にした最大の激戦の1つバルジの戦いの損失にも匹敵したが、バルジのドイツ軍は13個の歩兵師団と7個の装甲師団の約41万人の兵力に加えて、1,400輌もの戦車、駆逐戦車、突撃砲、4,200門もの野砲、対戦車砲の大戦力であった。
これに対し、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない約10万人の兵力に過ぎず、沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのか米国の指導部内に不安が蔓延することとなった。
その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない。
これほど短期間の内に米海軍がかくも多くの艦艇を失ったことはなかったし、これほど狭い地域でかくも短期間内に、これほど米軍の将兵の血が流された事もない。おそらく3ヶ月の間に敵(日本軍)がこれほど大きな損害を被った事もかつてなかったであろう。(中略)
陸戦としては、もっと大きい会戦もあったし、もっと長期に渡る航空戦もあったが、沖縄作戦は最大規模の統合作戦であり、海上、海中、陸上において仮借のない戦闘が継続されたのである。
沖縄戦は人間の忍耐力と勇気の叙事詩あった。
日本軍の攻撃は創意に満ち、決死的であった。これに対し米軍が防衛に成功し、沖縄攻略に成功したのは卓越した補給、作戦計画およびその断固たる実施によるものである
「戦艦大和が沈んでも技術は沈まなかった!日本の復興の秘密」
<転載終了>
