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<転載開始>
欧米諸国が日本を脅威と感じる最初のきっかけは、日清戦争や日露戦争での予想に反した日本の勝利であったようです。
■日露戦争の戦費調達
日露戦争は、20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、日露2国間のみならず、帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた戦争であった、と指摘されています。
当時、急激に発達しつつあったグローバルな金融システムとイノベーションをフル活用した戦争であり、日露戦争の戦争資金は当時の覇権国家である英国と、それを追い上げる新興国である米国の金融街で調達され、特に、シティオブロンドンのロスチャイルド家や、NYのクーンロプ商会の代表ジェイコブ・シフが日本の外債の引き受け手だったそうです。
日露戦争の戦費調達はニューヨークとロンドンで行われた事実 | ゴールドオンライン
日露戦争の戦費は総額1億3000万ポンド (約13億円)に達し、 当時の国家予算は約3億円とされるから、日露戦争は国力以上の戦いであり、 この巨額の外債の償還とそれ以上の利払いと完済に日本は82年をかけたといわれています。
日本は戦争に勝利したものの、120年前の9月5日に米国が仲介役を務めロシアとの間で調印された講和条約、いわゆる「ポーツマス条約」でロシアから賠償金を得ることができませんでした。
そのため、「外債」という膨大な借金を抱えることになり、この借金を返済するために、日本は82年間に渡り誠実に返済を続け、そのことが「評価された」などとあります。
■日露戦争(1904年2月から1905年9月)が起こったきっかけ
日清戦争で清が日本に敗れた後、朝鮮半島の李氏朝鮮は、清からの冊封体制を日本によって解かれたものの、独立後に建国した「大韓帝国」は様々な権益を諸外国に売り渡すなど、独立国家としての体をなしていなかった。
満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあったロシアは中国東北部への勢力圏拡大、具体的には満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満洲還付条約不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配を狙って兵を進めるという南下政策に出ました。
日本は自国の安全保障と満洲・樺太・沿海州における利益確保のため、やはりロシアの動きを警戒する英国との間で1902年に「日英同盟」を締結し、一方で戦争を回避するためにロシアとも交渉を行ったが失敗。
1904年(明治37年)2月、中国東北部の旅順で、日本軍の宣戦布告で日本軍とロシア軍との戦闘「日露戦争」が始まり、1905年(明治38年)9月まで、陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天(現在の陝西省咸陽市乾県)が主な戦場となり、海戦では対馬海峡にて大規模な艦隊戦が繰り広げられました。
黒船来航(1853年)から明治維新(1866年~1868年)を経て、政治機構や社会システムの一大変革を行い、僅か36年後の日露戦争で、東郷平八郎大将率いる旧帝国海軍は1905年5月27日~28日、ロシアのバルト海艦隊「バルチック艦隊」を対馬沖で撃破し、19隻を沈め7隻を捕獲するという「日本海海戦」での大勝利ををおさめた。
陸戦では乃木希典大将率いる帝国陸軍は1904年8月19日~1905年1月1日の「旅順攻囲戦」でも勝利し、予想に反し、アジアの国日本がヨーロッパの大国ロシアに勝利するという形で終戦。
■120年前の9月5日に調印された「ポーツマス条約」
120年前の1905年9月5日、米国を仲介役として、米国のニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が行われ、日露戦争後の講和条約、いわゆる「ポーツマス条約」が調印されました。
セルゲイ・ウィッテ率いるロシア代表団は、断固たる立場を貫き、驚くべきことに、日本側の要求のほとんどを拒否した。日本には、戦争継続のための人的、物的資源があまり残っておらず、敗北させた相手への要求を控えめにせざるを得なかった。
交渉の結果、ロシアは、朝鮮半島における日本の「フリーハンド」を認め、旅順と大連を含む遼東半島南端部の租借権を日本へ譲渡し、サハリン島の南部のみを割譲した(日本が主張したように全島ではなかった)。極東方面におけるロシアの海軍力の制限、および賠償金支払いも拒否。
ポーツマス条約の5つの事実:ロシアと日本との悲惨な戦いに終止符 - ロシア・ビヨンド
講和条約は、日本に有利な内容であったが、賠償金に関する条文がなかった事で、犠牲を払って戦争に協力した国民から、不満の声が挙がり、各地で「講和反対」「戦争継続」を訴える運動が起き、暴動に発展する事もあったそうです。
■日本を潜在的脅威ととらえた欧米諸国
日露戦争の勝利によって、欧米の西側諸国の日本への視線が一変し、日本が欧米諸国にとり、潜在的脅威と感じられるようになった。
「ポーツマス条約」で日露の仲介役をした米国大統領セオドア・ルーズベルト
1906年、米国は日露戦争後に疲弊している日本に対し、対日戦争として「無制限経済戦争」を始め、結果的に日米開戦へと追い込み、戦争で日本を叩きぶしたその後に日本を実質米国が占領するという「オレンジ計画」を実行し始めたといわれています。
太平洋戦争開戦の44年前から米国政府内には1898年にマッキンレー大統領下の米国がハワイ王国を併合して自国の51番目の州にした際、前年の1897年、当時のセオドア・ルーズベルト海軍次官(在任1897年~1898年)が、もし日本がハワイ併合の邪魔をするならば、これを機に日本も一気に制服し、太平洋制覇を果たそうという目的で「太平洋制覇の為の19世紀的日本征服計画」を策定したとされます。
海軍次官から、副大統領となったセオドア・ルーズベルトは、1901年にウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺された後、大統領に就任し、1909年まで在任。
そして「太平洋制覇の為の19世紀的日本征服計画」の策定者であるセオドア・ルーズベルト大統領の甥のフランクリン・ルーズベルト大統領が、「カラーコード戦争計画」の中の対日戦争計画といわれる「オレンジ計画」を実行に移したのが仕組まれた日米戦争である太平洋戦争でした。
米国からみた太平洋戦争、1898年の「太平洋制覇の為の19世紀的日本征服計画」と「オレンジ計画」 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)
日本は太平洋戦争で米国によって完膚なきまでに叩きのめされ、戦後の「日米安保条約」によって、在日米軍の駐留を認める形で現在に至っています。
そして、日本が日露戦争の戦費として発行した外債を償還し終わるタイミングで、「第二の敗戦」と言われる「プラザ合意」が40年前の1985年9月に結ばれ、経済成長率が実質0の「失われた40年」を過ごすこととなったようなのです。
<転載終了>

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