ナカムラクリニックさんのサイトより
https://note.com/nakamuraclinic/n/nb7e4e9d2250d
<転載開始>

【証言1】
デイビッド・スネル(米国第24犯罪者取調派遣隊係官)の証言

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「日本は第二次世界大戦の終了直前、1945年8月12日に核実験を成功させました。その経緯をお伝えします。
すでに、8月7日に広島に、8月10日に長崎に原爆が落とされましたが、8月10日の深夜、満州国の興南(フンナム)に日本人の科学者と技術者を乗せた複数台のトラックが到着した。そして興南沖合の船に原子爆弾を搭載しました。そこから、日本海の小島の近くで、さらに大急ぎで作業が進められました。
8月12日の明け方、ついに準備が完了し、ボートが音を立てて錨の周りの船の間を抜けて、小島に到着した。ボートには原子爆弾がありました。
研究者は30㎞ほど離れたところにいた。研究者自身、すでにその完成が遅すぎたことは百も承知でした。
その瞬間、爆発的な閃光とともに、東に巨大な太陽が出現したかのようだった。研究者は溶接工用の眼鏡をかけていましたが、閃光があまりに強かったため盲目になりました。火球の直径は900mと見積もられました。様々な色をした蒸気雲が天空に立ち上がり、成層圏にまで達するキノコ雲になりました。
激しい水蒸気にかき回されて、爆発点の真下にあった船は見えなくなり、錨の周りにいた船は激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5,6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気づきました。
こんな具合に、日本は、広島や長崎に原爆の被害を受けたその直後に、原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げたのです。
後の尋問で、日本軍の士官は、通訳を通じて、私にこう語りました。「原爆は、上陸した米軍に対して特攻機から投下する予定だった」
しかしご存知のように、この予定は遂行されることはありませんでした。
原爆実験に成功した後の経過は、以下のようです。
観測者たちは、急いで水上から興南に戻りました。すでに、ロシア陸軍の部隊が数時間の距離に迫っています。科学者と技術者たちは、すみやかに機械を破壊し書類を燃やしました。さらに、完成した原爆を破壊しました。しかし、ロシア軍の動きがあまりに速かったため、科学者たちはロシア軍につかまりました。
士官は「科学者たちはロシアに連行され拷問にかけられた」と語りました」

【証言2】
杉山元元帥の証言
1944年7月初旬、総理大臣の東条英機大将と参謀総長の杉山元元帥が昭和天皇に意見上奏をするため、皇居を訪問した。

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杉山元(1880~1945)

杉山元は陸軍学校を主席で卒業し、当初は航空部門の責任者をしていた。その後、陸軍大臣や参謀総長を歴任した。原爆開発を含む日本の軍事科学の総元締めのような立場でもあった。
ミッドウェーでの敗戦を機に、ガダルカナル島も落とされ、戦局は日ごとに苦しさを増していた。太平洋の重要拠点サイパンも、いまにも米軍に奪われようとしていた。すでにB29による北九州への本土空襲が行われおり、東京への空襲もまもなくだと思われていた。灯火管制と疎開で夜の東京は漆黒の闇に包まれていた。
そんな状況の中で、東条と杉山は天皇陛下に謁見し、戦況が容易ならざる段階にあることを報告した。次いで、東条から天皇に、原爆について初めて重大な提案をした。
「諜報機関が手を尽くして集めた情報によると、アメリカ、ドイツ、ソ連、中国など、いくつかの主要国が極秘裏に原爆開発を進めています。原爆というのは、ウランの原子核を使った新兵器です。
我が国もその開発を進めてまいりましたが、ようやくその完成が見えてきました。
日本の戦局は苦しく、本土空襲も目の前に迫っていると思われますが、原爆が完成すれば、それは起死回生の決定打になります。完成すれば、ハワイやサイパンにある米軍の拠点に投下します。これで戦局を一気に挽回できると見ています」
杉山は天皇が喜ぶと思っていた。「でかした!こういう逆転の一撃を待っていた!ぜひとも原爆投下を成功させよ」といった賛同の言葉を期待していた。
しかし日本の原爆開発の進捗とそのハワイへの投下計画を聞いた天皇は、
静かに、しかし明確に、こう言った。
「私はそれに反対である。数か国が新兵器の開発を競っているとのことだが、仮に、日本がそれを最初に完成し使用すればどうなるか?他国も全力を傾注してそれを完成し、使用するだろう。そうなっては全人類を滅亡させることになる。
それでは、日本が人類絶滅の悪の宗家になるではないか。
また、ハワイに投下する計画があるとのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築き上げた。そのような場所に新兵器を使用することは賛成しかねる」

天皇陛下は原爆に無知だったわけではない。それどころか、当時の誰よりも原爆の何たるかを知っていた。それは、1944年春に理研の仁科芳雄博士を訪れて、「ウラン爆弾」について説明を受けたからである。従来の爆弾とは根本的に異なる大量破壊兵器であること、強力な爆風と火力で敵地を一瞬にして焦土と化す力があること、のみならず、大量に発散される放射線により甚大な放射線被曝を起こすことなど。
この説明に天皇は強いショックを受けた。後日、様々な疑問が浮かび、天皇は直々に仁科に手紙を書き、聞きたいことを重ねて尋ねた。遣いの者から手紙を受け取り、仁科は恐縮しながらも、やはり本音で陛下の質問に返信をしたためた。

陛下に原爆使用を反対され、東条は恐れをなして、すぐに原爆計画を引っ込めた。しかし杉山は内心でどうしても承服できなかった。いまや日本国の滅亡が目の前に迫っている。戦局を一転させるカードを持ちながら、このまま「座して死ね」というのか。
杉山は「全責任は自分がとる」として、密かに原爆の開発を継続した。

日本の敗勢は止まらない。レイテで大敗し、1945年3月には硫黄島も落とされた。その硫黄島を拠点に、3月10日には東京大空襲が始まった。沖縄に米軍が上陸し、いよいよ本土決戦も視野に入ってきた。
杉山の作戦はこうである。
「すでに日本の周囲には米軍の哨戒網が敷かれ、仮に原爆を積んだ爆撃機や潜水艦が出撃しても、すぐに撃墜されるだろう。理想的には、日本本土から原爆を発射し、それをハワイやサイパンに届かせることだが、今の技術では難しい。そこで、米軍の警戒が手薄な千島から北太平洋で潜水艦で行き、ハワイの近くから原爆ロケットを打ち込む。これができれば、アメリカの太平洋戦力の半分以上が吹き飛ぶ。B29の空襲も当面は止むだろう」

杉山にとっての誤算は、あるとき、ロケット燃料の製造過程で、誤爆事故が起こったことだった。すでに原爆の開発の目途がつき、あとはそれを小型の核ミサイルに搭載するだけだったが、そこで誤爆事故が起こった。
事故の報せは陛下の耳にも届いた。
「陛下は私を呼ばれ、「まだやっているのか!」と強く叱責されました。まことに面目ないことであり、原爆開発をこれ以上続けることはできなくなりました。
仮に原爆開発に成功し、それをハワイやサイパンに打ち込み、米軍の戦力にダメージを与えられたとしても、私のシミュレーションとしてはそこまでです。
ウランもロケット燃料もありません。米本土まで攻め込む力は、今度こそ本当に日本には残っていません。
しかし米本土の資源や生産力はそのまま残ります。ニューメキシコの研究所も科学者も残っている。ハワイやサイパンへの原爆攻撃で、彼らは一瞬青ざめるでしょうが、同時に、怒りと復讐心に燃え上がるでしょう。そうなれば、広島と長崎だけでは済まない。東京、新潟、京都など、従来の原爆投下の候補地だけではなく、日本全土に大量の原爆を打ち込むことでしょう。
陛下に叱責されたとき、私は自決することにしました。この戦争の勝敗には関係なく、戦争が終われば、自決して陛下にお詫びしようと、そのときに固く心に誓いました」

【証言3】
Uボート乗員尋問報告

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1944年6月、50万人の米軍が北フランスのノルマンディーの上陸し、ナチスドイツとの決戦に向かった。
戦争は、単なる兵士と兵士のぶつかり合いではない。近代戦は情報戦である。米軍を迎え撃とうとするドイツ将校たちの電話、ドイツ軍艦とナチス司令部との無線、ナチス空軍と基地の間の電波など、あらゆる情報通信を盗聴傍受するCIC(米軍諜報部隊)も、同時にヨーロッパに上陸していた。
CICの職員が、ある信号を傍受した。それは奇妙な信号だった。モールス信号には違いない。しかし米軍の持つ暗号解読書では解けなかった。英語、ドイツ語ではなく、フランス語でもロシア語でもポーランド語でもない。何種類もの乱数表を介在させて解こうとしたが、その信号はどうしても置き換えられない。
ひょっとして、日本語ではないか。職員はそう思って、そのモールス信号記録を米本国の統合本部の暗号解読センターへ送った。ハワイの日系人の協力などを得て、どうやら日本語らしいと判断され、情報分析チームが解読にかかった。
発信者は分からない。しかし状況から、東京の日本軍の特殊な中枢からベルリン日本大使館への信号だと思われた。

解読の結果は「ウランを送れ。先の要請分2トンはまだ届いていない。酸化ウランかそれに近いウラン原料を送れ
ウランが必要ということは、、、まさか核爆弾を作っているのか?
ペンタゴン首脳部に衝撃が走った。ニューメキシコの原爆研究者たちは、この「ウランを送れ」の暗号を知って、最初笑った。「黄色いサルが何のジョークを言っているんだ」と。しかし「もし本当なら」と青ざめた。
彼らはすでに、ゼロ戦の悪夢を見ている。米欧戦闘機の半分の滑走距離で出撃し、しかも2倍の速度で高空へ上昇した。ドッグファイトは無類の強さで、米欧戦闘機の半分の回転径で旋回し、倍のスピードでターンした。一度ゼロ戦に食いつかれると、米欧戦闘機は逃げることができず、「ハエのようにバタバタと」撃墜された。
なぜそんな段違いの性能なのか。まったく分からず、彼らは恐怖におびえた。たまたまミッドウェイでほぼ無傷で墜落したゼロ戦を分析することで、彼らはその秘密を知った。ジュラルミンの板や支柱に無数の穴や空洞があった。機体が弱くなるはずだが、支柱を力学的に巧みに組み合わせることで強化していた。そのため機体をそれほど弱めず、しかも機体の重量を米欧戦闘機の6割ほどまで軽くしていた。そこに米欧戦闘機の2倍の馬力のエンジンをつけ、3割も大きいフラップをつけ、5割増しの20ミリ口径のマシンガンをつけていた。これらを総合的に働かせることで、かつてない戦闘力と急回転、ハイスピードと航続力を作り出していた。この工夫に米空軍のメカニックたちは驚嘆した。
「こんな技術を持つサルどもなのだから、ウランが必要だというのもひょっとして、、、」
信号解読した1944年11月以後、ホワイトハウスで緊急会議が行われ、いくつかの部隊に密命が下った。
「ドイツから潜水艦が日本へウラン原料を輸送する可能性がある。ただちに探知して的確に対処せよ」
「日本が独自の原爆開発をしている可能性がある。原爆開発に携わっている可能性のある地域を重点的に爆撃せよ」

1945年5月14日、米駆逐艦がUボート(U234号)を拿捕した。潜水艦はポーツマス軍港まで護送され、そこで本格的な検査が行われた。
艦内には、表面を鉛で覆った謎の箱が10個あった。フタには「日本陸軍へ」という宛名があった。専門の化学班が分析したところ、酸化ウランであり、量は全部で560㎏だった。


【所感】
アメリカは総じてひどい国だと思うけど、多少いいなと思うのは、かつての機密情報を記録した文書とかも、時間の経過で機密指定が解除されて一般公開されるところです。人々の知る権利に奉仕しているわけです。こういうサービス精神は日本には皆無ですから。
1985年ロバート・ウィルコックスが公開された新資料に基づき、『Japan's Secret War』を上梓し、日本の原爆開発の事実を明らかにしました。
日本の原爆開発について、米国が機密指定を解除した。これが何を意味するか?日本の核武装について、ゆくゆくは認めて行ってもいいという暗黙のメッセージかもしれません。

日本が原爆開発していたことを米軍はつかんでいました。しかしその動きを知ったのは、諸外国に比べてかなり遅いほうです。ポツダム会談の時点で、スターリンは日本の核開発と興南の核インフラの重要性に気付いていたけど、ルーズベルトは気付いていなかったか、あるいは軽視していた。
ソ連も中国も日本の核開発を知っていたし、蒋介石でさえ知っていた。
大戦末期、ソ連が突如北朝鮮を襲撃したのも、あるいは中国が朝鮮戦争に参戦したのも、興南の核施設を奪取することが目的だった。
北朝鮮は日本の核技術をそのまま継承しています。日本は、理研の仁科芳雄、京大の荒勝文策、東北大の彦坂忠義など、当時世界トップレベルの核物理学者がいて、彼らのおかげで原爆開発に成功しました。日本は朝鮮や中国出身の学生にも等しく学問の道を開いていましたから、朝鮮出身の李升基が京都大学で核物理を学び、戦後北朝鮮に戻って自国の核開発を支えるといったような事例もありました。
北朝鮮だけではなく、台湾にも日本の核インフラの一部が残っています。米国が台湾をにらんでいるのも、当然それが背景にあります。1970年代に蒋経国独裁下で核開発で成果をあげたのも、日本の核インフラがあったからこそです。
田中英道氏によると、「ロシア、中国、北朝鮮の核は日本の技術をそのまま使っている」とのこと。
日本が原爆を米国に使おうとしていたということは、日本は原爆の被害者であると同時に、加害者でもあり得た、ということになります。これについて、みなさんがどう考えるか、深く議論する余地があるでしょう。
そんな具合に、日本の核開発のことを知らないと、世界史が見えてこないのはもちろん、今日のニュースだって正しく読み解くことはできません



【参考】
・田中英道氏の動画
https://www.youtube.com/watch?v=H8bKmmzNiKM

・『世界が隠蔽した日本の核実験成功』(矢野義昭著)

・『Uボート内に散った日本人技術者』
https://chuokoron.jp/history/116424.html


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