みのり先生の診察室さんのサイトより
https://ameblo.jp/drminori/entry-12937615647.html
<転載開始>

PresidentOnlineに永井康徳先生の本の抜粋記事が掲載されていました。

 

とても良い記事だったのでご紹介。

 

是非お読み頂きたい↓

 

 

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この世を去る人に栄養や水分の点滴をしてはいけない…意外と知られない人間がもっとも楽に逝ける看取り方
 

聴覚や触覚は最期まである…手を握って感謝の気持ちを伝えよう
 

PRESIDENT Online

永井 康徳
医療法人ゆうの森 たんぽぽクリニック医師

7割近くの人が病院で亡くなる現代。そのため、どのようなプロセスを経て最期を迎えるか知らない人が多い。愛媛県松山市にある在宅医療を専門とする「たんぽぽクリニック」の医師・永井康徳さんは「食べる意欲が湧かない場合は、最期の時が近づいている。植物が枯れるように、死期が近づいてきた人の体は、楽に逝けるように準備を始める」という――。

 最期が近づいてきた“死の迎え方”

 

人はいつか必ず死ぬ、それがわかっていても、実際に身近な人の死を体験することはそれほど多くありません。しかも、現在の日本では病院での看取りが7割近くを占めています。病院での看取りの場合、面会時間が限られていますし、日常のケアは病院のスタッフが行うので、どのような過程をたどり、死に近づいていくのか、ほとんどの人は知る機会がないでしょう。

そこで、看取りに近づくとどうなるのかということを、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。

 

 

知らない、経験したことがないから怖い

人は体験したことがないものや知らないもの、未知のものへのおそれを強く感じるものです。日本で“死”を忌避きひする傾向が強いのは、人が死に向かってどのような経過をたどるのかを知らない人が多いことも関係しているのではないでしょうか。

たんぽぽクリニックでは自宅での看取りを積極的に行っていますが、患者さんも家族もほとんどが自宅での看取りははじめてです。

そもそも自身の死を体験したことがある人はいませんから、自分が死ぬことを経験するのは1回だけです。体験したことがないからわかりません。だからこそ、いつか迎えるそのときまで、避けるのではなく、「自分ならどうしたいのか」「どう迎えたいのか」を考えておくことが大切だと私は考えます。

死を考えるからこそ生が充実する、「どう死ぬか」は「どう生きるか」につながると、これまでの経験から強くそう感じるのです。

また、身近な人の死を間近では経験したことがないという家族も増えています。いざというときにあわてないために、家族もどのような経過をたどり、どうすればいいのかを知っておくことが大切です。

たんぽぽクリニックでは、看取りが近くなってきたと感じたとき、訪問診療の際に口頭でも説明しますが、それだけでは不十分なので、『家で看取ると云うこと』というパンフレットをお渡ししています。30ページほどの小冊子なのですが、看取りが近づいてきたときのことを、心の準備も含め、やさしいイラストとともに紹介しています。手元に置いておいて、不安になったときなど、繰り返し何度も読んでいただくようにしているのですが、これを読むことで看取りを迎える心の準備になったというお礼を、たくさんの方からいただいています。

死を迎えるということは、本人はもちろん、家族や身近な人にとって、とてもショックが大きい出来事です。怖いと感じるのが当然のことでしょう。しかし、生まれたときからいつか死ぬことは決まっています。これは人に限ったことではなく、動物も植物も、生きとし生けるものすべてに当てはまります。人が死ぬことは、赤ちゃんが生まれることと同じ、生も死も当たり前の人の営みの一つだと考えれば、死に対するおそれが少し軽くなるのではないでしょうか。

これから生を歩み始める誕生のときは希望や喜びに満ちていますが、近しい人とのお別れとなる死は悲しみや喪失感を伴います。それらを少しでも軽くするためにも、後悔のない看取りであってほしい、在宅主治医としていつもそう願っています。

 

 

  最期が近づいてきた“1〜2週間”

 

食欲が落ちて食べられなくなってきたら、看取りが近づいています。食支援で食べられるようになる患者さんもいらっしゃいますが、それでも食べられない、食べる意欲が湧かない場合は、最期の時が近づき、食べられなくなっていると考えられます。

植物が枯れるように、死期が近づいてきた人の体は、楽に逝けるように準備を始めます。体の機能が徐々に低下していくので、食べ物や水分を欲しなくなるのです。このような場合に、点滴などで栄養や水分を入れると、逆に患者さんの体に負担をかけてしまい、つらい看取りとなることもあります。


 

 

食べられなくなったら1週間くらい

 

自然に食べられなくなってきた場合、体は徐々に脱水状態になります。元気なときに脱水状態に陥るとしんどいものですが、看取りが近いときの脱水状態はつらく感じることはありません。意識が薄らいできて、本人にとっては楽な状態です。

亡くなる時間を正確に推測することは医師でもできませんが、口からはまったく食べられなくなったら残された時間は1週間程度とされています。

眠っている時間が増え、呼びかけてもあまり反応しなくなります。痛みやつらいところがあると眠ることはできません。眉間にシワを寄せるなど、つらそうな表情をしていなければ、本人にとっては楽な状態で、よく眠ることができています。

目を覚ますこともありますが、時間や場所、家族や親しい人のことがわからなくなってきます。この時期になると、亡くなった人が会いにきた、ずいぶん遠くに行ってきたなど、うわごとのように言うことがありますが、よくある事例なので、患者さんが安心するよう、そのまま聞いてあげましょう。

手を握ったり、体をさすったりしてあげると安心します。眠っている時間が長いので、家族は何かしてあげたくても、何をしたらよいのかわからなかったり、そっとしておいたほうがいいのではと考えたりして、遠巻きにみているようになります。会話ができなくても、患者さんは親しい人がそばにいると安心するので、いつものように声をかけてあげてください。


 

 

  がんの患者さんは直前まで動くことができる

 

老衰で徐々に弱っていく場合は別にして、がんの患者さんは終末期が近づいていても自分で動けるケースが多く、ギリギリまで動けることが多いです。

家族から「いつまで自分でトイレに行けますか?」という質問を受けることがあるのですが、これまでの経験からすると亡くなる前の「約1週間」と感じています。

最期までトイレは自分で行きたい、そう希望する患者さんは多いです。介護する家族にとっても、患者さんがトイレに自分で行けるかどうかは、かかる負担にとても大きな違いがありますが、患者さんにとっては、自分の尊厳を保てるかどうかの瀬戸際になる大きな問題です。患者さんの体力や家族の状況によって変わりますが、できることなら最期まで自分でトイレに行きたい、そう患者さんは願っています。

 

 

  最期が近づいてきた“数日”

 

眠っている時間は徐々に長くなっていき、呼びかけてもほとんど反応がなくなってきて、目をあけることもできなくなってきます。尿の量が減り、色が濃くなってきて、亡くなる2〜3日前には尿が出なくなります。

この時期になると、むくみが出たり、皮膚が乾燥して色が変わったり、手足が冷たくなって呼吸が不規則になったり、だ液が飲み込めなくなってのどの奥にたんがたまってゴロゴロいうなど、体の状態に変化が出ます。ただし、点滴などを最小限にすれば、この段階でもだ液やたんの吸引をすることはほとんどありません。

不安なことがあれば、いつでも医師や看護師に連絡して相談しましょう。また、お別れが近づいていることを家族や親しい人に連絡して、残されたわずかな時間を後悔することがないよう大切に過ごしましょう。聴覚や触覚は最期まであるといわれています。手を握って感謝の気持ちを伝えましょう。

 

 

  最期が近づいてきた“旅立ちの時”

 


手を握ったり体をさすったり、呼びかけたりしても反応がほとんどなくなってきたら、最期の瞬間が近づいてきています。もちろん、ヒトの体のメカニズムは複雑なので、正確に予測することはできません。亡くなる前の経過は人によって異なり、急に息を引きとることもあります。

ただ、最期のその瞬間は、それまでと呼吸が変わります。大きく呼吸をしたあと、10秒ほど呼吸が止まり、また呼吸するという波のような息づかいになります。そして、あごを上下させる呼吸( 下顎かがく呼吸)に変わります。

苦しそうに見えるかもしれませんが、この頃には本人の意識はなく、苦しみもありません。やがて呼吸が止まり、胸やあごの動きが止まります。呼吸が止まると、脈がふれなくなり、心臓も止まります。在宅での看取りの場合、医師が立ち会うことはほとんどありませんし、家族がこの瞬間に気がつかないこともあります。


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この記事は永井先生のご著書からの抜粋だそうです。

 

是非ともこちらもお読み頂き死について、家族を看取るということについて考えてみて下さい。

 

 

 

 

昔は自宅で看取ったものですが、今は病院で亡くなることが当たり前の世の中になりました。

 

あるいは高齢者施設などで亡くなる方も多いでしょう。

 

ご家族が毎日会いに来られるというケースはほぼないです。

 

私の父も施設に入りましたが私は全く会いに行けていません。

 

生活や仕事がありますから行きたくても行けない人も多いでしょう。

 

母はほぼ毎日会いに行っているようですが、仕事のある人だとそれも無理です。

 

 

病気であれ老衰であれ、高齢になれば誰しもいつか死にます。

 

その亡くなった場所が自宅ではないことが現在の医療トラブルに繋がっているように思えてなりません。

 

亡くなった原因を病院や施設や医療スタッフのせいにしようとするご家族が少なからずおられるのです。

 

それが加齢による身体機能低下であっても・・・。

 

 

普段、見ていないから、こういった死に向かう体の変化も分かりませんし知らない人がほとんどです。

 

 

食事が摂れなくなると点滴をするかどうか、ご家族に希望を聞きます。

 

本来ならご本人に確かめたいことですが、元気な頃にどうしたいかを話し合って決めていない場合は、ご本人ではなくご家族の希望に従うことになります。

 

そこで点滴をしたり胃瘻をつけたりしてしまうと延命できてしまう。

 

場合によれば延々と。

 

当然、意識がない場合もあるでしょう。

 

管に繋がれて、ただただ肉体だけが生き長らえるという状態です。

 

 

「水も飲めないのはかわいそうだ」と思って点滴を希望するケースもありますが、永井先生によると点滴をするほうがご本人の体にとって負担になったり、つらい看取りになることもあると。

 

「植物が枯れるように、死期が近づいて来た人の体は、楽に逝けるように準備を始める」としたら、それを邪魔するようなことをしないほうがいいのかもしれません。

 

私の父はアルツハイマー病で自宅での介護が限界になり老人ホームに入所しました。

 

入所するまでは週に1回、高濃度ビタミンC+高濃度グルタチオン点滴をうちの診療所でしていたのですが、今はそれもやめています。

 

週に1回だけ外出させて点滴を続けようかとも考えたのですが、続けてしまうとやめるタイミングがなくなると思ってやめました。

 

父は元気だった頃、「管に繋がれて長生きしたくない。ボケたらさっさと施設に放り込んでくれ。迷惑かけたくないから」と常々言っていました。

 

良い施設が見つからなくて頑張って自宅介護しましたが、母が限界になったので納得の入所です。

 

 

死を考えるから生が充実する

「どう死ぬか」は「どう生きるか」につながる

 

 

心に響きました。

 

 

一度きりの限られた人生。

 

後悔のないように毎日生きたいものですね。

 

「やってしまった後悔」よりも「やらなかった後悔」のほうが大きいと言います。

 

だから「どうしよう・・・」と悩んだら「やる(行動する)」ようにしています。

 

 

悩んだ末、自分が出した結論は、その時の自分の精一杯であったなら、どんな選択をしても後悔はしないはず。

 

それは主人が脳出血で倒れて救急搬送された日に息子に教えてもらいました。

 

 

 

皆さんも死について、看取りについて考えてみて下さい。

<転載終了>