eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)さんのサイトより
https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12949686496.html
<転載開始>

中国の文化大革命(1966年〜1976年)の全体の死者数は、研究者によって大きく異なり、50万人から200万人、あるいはそれをはるかに超えるという推計まで幅広く存在し、あるいは、この期間の死者数が2000万人にも上ったとされています。

 

迫害の対象は知識人(大学教授、研究者、作家、芸術家など)で「ブルジョア反動派」「反革命分子」などのレッテルを貼られて紅衛兵による激しい迫害の主要なターゲットとなったそうです。

 

36年前の天安門事件のときも、国を本当に思う勇気ある知識人、大学生など骨のある若者達ほど犠牲となったようです。

 

そうした人材を共産党軍が無惨に虐殺した中国の暗黒の歴史が文革と天安門事件です。

 

そのような暗黒の自国史を抱えながら、中国は共産党の一党独裁体制の体制維持のために監視と情報統制の社会となっており、日中戦争当時の自国歴史の整合性のなさ自国の暗黒歴史から自国民の目をそらすため、構造的反日国家とならざるを得ない体質のようです。

 

そのため、信じられない様な野蛮な「戦狼外交」を行いつつ、日本の政治家や官僚、財界人に対してハニトラ、マネトラを仕掛けるなどで自国の協力者に仕立てて日本をまるごと自国の中に取り込もうとしてきたわけです。

 

 

 

■近年の暗黒歴史である天安門事件

中国では天安門事件を、発生日である1989年6月4日からとって、通称で「六四」と呼んでいるそうですが、自国に検索エンジンでは情報が閲覧できないようになっているそうです。(1989年が平成元年であることから、1989年と入れると「平成元年」などと出てくるようです)

 

 

現在の中国では習近平氏が3つの主要な役職である中国共産党中央委員会総書記、中華人民共和国国家主席、中国共産党中央軍事委員会主席を全て兼任し、党・国家・軍の三権のトップで、最高権力者である自分自身に国内の権力を集中させています。

 

 

一方、1989年の天安門事件当時、国家主席は楊尚昆(よう しょうこん、Yang Shangkun)、共産党の総書記は趙紫陽(ちょう しよう、Zhao Ziyang)という人物だったが、公式に国家主席や総書記のポストではない鄧小平(とう しょうへい、Deng Xiaoping)ないこそが当時の中国政府の最高実力者であり、彼が中国共産党の実権を握り、天安門事件の最終的な弾圧決定を下したといわれています。

 

 

鄧小平は天安門事件の際、学生らのデモ抗議を「反革命暴乱」と断じ、戒厳令の布告や軍の出動といった最終決定を下しており、事件後に武力弾圧について批判されたが、事件そのものの直接的な責任追及は避け、党内の「動乱分子」が事件の原因であるとして、学生らに当初理解を示した穏健派の趙紫陽総書記(改革派)を失脚させ、保守派(非改革派)を優遇した。

 

総書記であった趙紫陽は当初は学生たちの要求に比較的理解を示し、武力弾圧に反対したために失脚し、事件後に江沢民(こう たくみん、Jiang Zemin)が後任の総書記に就任している。

 

鄧小平は経済の改革開放路線は堅持して、自ら「党と国家の指導者」としての地位を守り、経済改革・開放政策の成果を強調することで事件によって路線が転換したかのような批判をかわした。

 

天安門事件で中国当局による抗議者に対する武力弾圧については、国内だけでなく国際社会から痛烈な批判を浴び、死者数については、中国当局は319人としていたが、2017年に公開された駐中国英国大使の外交文書からは、改革を叫ぶ知識人や大学生に対する弾圧、天安門広場で大規模な虐殺が行われていた実態が伝わってくる。

 

 

■時代背景

1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ」を表明した。これはソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すことが目的であった。ソビエト連邦が民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進。胡は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まった。

 

 

これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。

 

 

ゴルバチョフの訪中

天安門事件の直前の1989年5月15日、「改革派」として世界的に知られ、ソ連国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問。(同年11月9日には、東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊し、東西冷戦終結の象徴的な出来事として契機になった)

 

 

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになり、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったものの、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が報道されるなど、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。

 

孫文らの「五四運動」から70周年記念日の前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をしたため、学生運動終息に期待が持たれたものの、終息するのではなく、この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなっていった。

 

天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌し、併せて英国の植民地であった香港や日本、米国などの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化。(現在日本に帰化して国会議員となっておられる石平氏もそうした一人だったようです)

 

 

■1989年の天安門事件

中国の歴史において、1989年の「天安門事件」は共産党の一党独裁政治を続ける当局に対して民主化を求めるため、知識人や大学生、市民らからなる100万人ともいわれる人々が、事件当日の6月4日には北京の天安門広場に集結しており、極めて規模の大きい抗議運動が起こっていた。

 

 

2017年12月26日のBBCニュースより

天安門事件の死者は「1万人」 英外交機密文書

英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになった。

 

 

 

「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」人物から入手した数字だと説明している。

 

国務院は中国の内閣に相当 し、首相が議長を務める。天安門事件の死者数はこれまで、数百人~1000人以上と、様々に推計されていた。中国は1989年6月末に声明で、1989年6月4日の「反革命暴動」を弾圧した、北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表していた。

 

一連の光電はこれまでロンドンの英国立公文書館で保管されていた。10月に機密指定が解除され、香港のニュースサイト「香港01 」が閲覧した。

 

ドナルド大使によると、情報源は事件以前から信頼できていた人物で、「事実と憶測と噂を慎重に区別」していたという。

 

大使は当時、「学生たちは広場退去まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし、5分後に装甲兵員輸送車(APC)が攻撃を開始した」と書いている。

 

「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」

 

「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、銃剣で刺されてしまった」

 

ドナルド氏は、「国務院委員の一部は、内戦勃発の危機が迫っていると考えていた」と付け加えている。

天安門広場の抗議デモは、軍の派遣まで7週間続いた。共産主義国家・中国にとって、史上最大規模のデモだった。

天安門事件は、今なお中国では極めてデリケートな問題として位置付けられている。

 

中国は活動家の追悼行事を一切禁止し、政府批判の検閲を含め、天安門事件に関するオンラインでの議論を厳しく規制している。しかし活動家たちは毎年6月には、特に香港や台湾などに集まり、天安門での犠牲を追悼してきた。

 

 

■「愛国主義教育jという名の反日教育はじまり

天安門事件後、中国共産党は求心力の低下という危機に直面し、事件後に失脚した穏健派の趙紫陽総書記に代わって総書記に就任した江沢民は、中国国民の目を国内の不満から逸らし、共産党への忠誠心を高める手段として「愛国主義」を強調する政策を採用した。

 

この「愛国主義教育」において、日中戦争、南京事件などが重要な教材として利用され、これにより、抗日戦争の歴史が中国のアイデンティティの一部として深く浸透することとなった。

 

 

 

■現在の中国国内のデモ

天安門事件後、監視体制が進み、現在の中国国内のデモは小規模であり、その殆どは個人の財政に関わる経済的な苦情に関連しており、政治思想的なものではなくなっていると分析されています。

 

米国の権利擁護団体「フリーダム・ハウス」のプロジェクト「China Dissent Monitor (CDM)」によると、中国国内の市民らによるデモ抗議件数は、2024年第2四半期は前年同期比で18%増加、2025年上半期には前年同期比で73%も増加しているが、中国では強化された監視とインターネット規制によって市民らによる抗議行動は抑え込まれており、デモは小規模で広がらないことが多く、デモ参加者が習主席に怒りを向けることは殆どないらしい。

 

多くの場合、抗議の矛先は地方政府や民間企業に向けられており、直接中央政府の転覆を求めるものではなく、抗議活動の大部分(約85%)は、個人の財政に関わる経済的な苦情に関連している。

 

特に多いのは、未払い賃金に関する労働者の抗議(労働争議)で、不動産危機による未完成物件の購入者や建設作業員による抗議も倍増。若者の失業率の高さも不満の一因となっていると分析されている。

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

反日映画「南京写真館」は今夏中国で記録的な大ヒットをしたそうです。

 

 

■厳しい情報統制と構造的反日国家中国

日本に対して「戦狼外交」をし続ける中国という国を隣国にもち、そのような国と付き合っていくことの難しさ。

 

80年前の日中戦争や南京事件の記憶は、教科書や映画の題材にして繰り返し繰り返し愛国主義教育に利用されています。

 

その一方で、約1万人の自国民を野蛮な方法で虐殺した36年前の「天安門事件」に関する情報は厳しく検閲・制限し、中国国内のインターネット(百度、Weiboなど)で検索しても、公式な情報や詳細な内容は出てこないかあるいは検索結果自体がブロックされているそうです。

 

中国政府は事件をタブー視しており、言論統制の対象として、「天安門事件」や関連するキーワード(「六四」「89六四」など)で検索すると、情報にアクセスできなくなったり、検索結果が削除されたりする現状なのだそうです。

 

文化大革命(1966年~1976年)の暴力と混乱の歴史についても、中国政府は、インターネット上の情報流通を管理するために「グレート・ファイアウォール」と呼ばれる大規模な検閲システムを運用して「一党支配の正当性を損なう」と判断するような批判的な見解や詳細は検閲の対象となっているらしいです。

 

この様な構造的反日国家となっている隣国と善隣外交を行っていくことの難しさ・・高市総理は就任早々、本当に連日大変ですね。当面、熱くならず、生あたたかく距離をおくのがよさそうですね。

 

国内にはどう見ても中国の協力者としか思えないような人々が各方面に浸透しており、現在の日本政府が中国の思惑が通用しない高市政権になったことで、それらの人々というのは相当焦っているようですが。


<転載終了>