eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)さんのサイトより
https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12950160157.html
<転載開始>

殷は考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝とされているが、漢民族の王朝ではなく、東夷などの影響を受けた異民族の王朝とされています。

 

甲骨文字は「殷墟」から1899年に発見された文字で、漢字の起源とされる。つまり、甲骨文字は漢民族起源ではないということになります。

 

 

そして、現在約5000くらいある甲骨文字の内、1500文字、全体の30%程度しか解読出来ていないらしいです。

 

 

周代以前の「夷」とは現在の江蘇省や山東省周辺に居住していた民族を指していたとされているが、史書が編纂された時代において「夷」は消滅しており、中華世界の東に居住していた諸民族を指して「東夷」と呼んでいた。

 

 

中国における東夷(とうい)とは、古代中国の東方に住んでいた異民族の総称で、最初は山東省あたりを指し、時代とともに東北地方、朝鮮半島、そして日本列島(蝦夷)を含む地域の人々を指すようになり、四夷(東夷 とうい・西戎 せいじゅう・南蛮 なんばん・北狄 ほくてき)の一つとして、自らを「中華」とする漢民族が他を蔑称として呼んだ言葉なのだそうです。

 

当初は「根本」や「生命を尊重する」といった好意的な意味合いもあったが、後に「野蛮な」という蔑称のニュアンスが強まり、日本では「あずまえびす」とも読み、東国の武士や蝦夷を指す言葉にもなった。 

 

東夷伝(とういでん)は、中国の史書の中で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた伝(記述)。

中国の正史の中では二十四史の中の『後漢書』から『新唐書』の間に東夷伝が出てくる(東南夷伝、蛮夷伝となっているものもある)。中でも、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)は特に有名。

 

ということは、東夷とは中華からみて、東の方に住む人々のことであり、特に「東夷伝」の中には「魏志倭人伝」があり、内容からして、大陸から海で隔てられた日本列島にすむ倭人を含む異民族などのことらしい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D

 

 

 

 

「魏志倭人伝」原文と訳

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

(倭人は帯方南東の海に住み、山々に囲まれた王国を築いています。彼らはかつて100以上の王国に属し、漢の時代にはいくつかの王国が貢物を捧げに訪れました。現在では、彼らの使節や通訳が30以上の王国と交流しています。)

 

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

(県から倭(日本)まで、水路で海岸線に沿って、朝鮮を通り、時には南に、時には東に、北岸の高野朝鮮まで、七千里余りの旅。)

 

 

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

(始めて一海を渡り、千余里で対海國(対馬)に至る。その大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。)

 

 

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

(また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名は瀚海という。一大國(壱岐)に至る。官は、また(対海国と同じく)、卑狗といい、副は卑奴母離という。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海國と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている)

 

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

(また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。)

 

 

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

((末盧國から)東南に陸上を五百里行くと伊都國に到着する。官は爾支といい、副は泄謨觚柄渠觚という。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。)

 

 

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

((伊都国から) 東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚といい、副は卑奴母離という。二万余戸が有る。)

 

 

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

(東に行き不弥国に至る。百里。官は多模といい、副官は卑奴母離という。千余りの家がある。」)

 

 

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

(南の投馬王国まで水路20日間の旅。正式名称は彌彌、副名称は彌彌那利。収容可能世帯数は5万世帯以上。)

 

 

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

(南下して女王の都がある邪馬壹國までは、水路で10日、陸路で1ヶ月かかります。女王の下に伊支馬(いきま)が官として仕え、その次は彌馬升(みましょう)その次は、彌馬獲支(みまかき)、その次に奴佳鞮(なてい)が仕えて7万世帯以上ある。)

 

(注)「彌馬升(みましょう)は、『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる古代日本の官職名で、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)を補佐する重要な役職(伊支馬(いきま)の次)。邪馬台国は、卑弥呼のもとで男弟(だんてい)が政治を行い、その下に伊支馬、彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかき)、奴佳鞮(なかい)といった官が配置され、租賦(そふ)を徴収し、法を運用する組織的な国家体制を築いていたことが示唆されている。 これは投馬国(とうまこく)から邪馬台国への道中で、女王の支配が及ぶ「倭人」の行政組織の一部を示しており、倭国の社会構造や支配階層を知る上で重要な情報です

 

 

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

(女王の国の北側では、その国境の距離は大まかに記録できます。その他の近隣の国は遠く離れているため、詳細を記すことはできません。次に司馬国、次に四百之国、次に易衍国、次に独直国、次に閩奴国、次に好姑度国、次に不胡国、次に契奴国、次に徂素国、次に孫奴国、次に胡易国、次に華奴孫奴国、次に桂国、次に衛武国、次に桂奴国、次に閻魔国、公真国、次に八里国、次に知微国、次に武奴国、次に奴国。これが女王の領土の範囲です。)

 

 

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

(その南に狗奴国があり、男性が王として統治し、官職に狗古智卑狗(くこちひこ)がいて、女王(卑弥呼)には属さず、郡(帯方郡)から女王国まで1万2千余里(約5,000km以上)の距離がある)

 

 

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

(男子は年齢に関わらず皆、顔に墨を入れ(黥面)、体に文身(刺青)をしていた。昔から、彼らが中国に使節として赴く際、皆自らを「大夫」と称していた。 夏王朝の少康の子が会稽に封じられた際、髪を切り、文身をして、蛟龍(りゅう)の害を避けた。今(当時)、倭の水辺の人々は潜って魚や貝を獲ることを好み、文身(刺青)もまた、大きな魚や水鳥を避けるためであり、後に次第に装飾として用いられるようになった。諸国(倭の国々)の文身(刺青)はそれぞれ異なり、あるは左に、あるは右に、あるは大きく、あるは小さく、身分によって差があった。その距離を計算すると、会稽(現在の中国浙江省)の東冶(とうや)の東だろう。

 

 

其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之

(その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿(ゆう)の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。)

 

 

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

(稲・いちび・紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。兵器には、矛・盾・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である。風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある。)

 

 

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

(倭の地は温暖で、冬も夏も火を通さず生食する。みな、裸足である。家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。飲食では高坏(たかつき)を用い、手で食べる。)

 

其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐

(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて川水中で体を清める。これは練沐のようである。)

 

 

其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

(倭の者が中国に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が𠮷善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。)

 

 

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉

(真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には柟(だん。クス)、杼(ちょ。トチ)、櫲樟(よしょう。クスノキ)・楺(ぼう。ボケ)・櫪(れき。クヌギ)・投橿(とうきょう。カシ)・烏号(うごう。ヤマグワ)・楓香(ふうこう。オカツラ)がある。竹には篠(じょう)・簳(かん。ヤタケ)・桃支(とうし。カヅラダケ)がある。薑(きょう。ショウガ)・橘(きつ。タチバナ)・椒(しょう。サンショウ)・蘘荷(じょうか。ミョウガ)があるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない。猿、黒雉がいる。)

 

 

其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 

(その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。)

 

 

其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒

(その会同・起坐には、父子男女の別は無い。人は酒好きである。)

 

 

見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年

(大人の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(膝まづき拝する)の代わりにする。人は長生きで、あるいは百歳、あるいは八十、九十歳。)

 

 

其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差序足相臣服

(風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。身分の上下によって、各々差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。)

 

 

収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

(租賦(ねんぐ)を収める邸閣が有った。国々に市があり、交易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。)

 

 

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

(女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。国中(中国)の刺史のようなものである。王が使いを京都(魏都洛陽)・帯方郡・諸韓国に遣わす。郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ 探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(誤る 間違う)することはない。)

 

 

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

(下戸が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまづき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫(あい)と言い、それは、承知の意味である。)

 

 

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

(その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせた。年は既に長大(成人)だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え出入する。居処宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも兵器を持った者が守衛する。)

 

 

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である、又、侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年ばかりで着くことができる。)

 

 

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

(倭の地を尋ねると、離れた海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、往来は五千余里ばかり。)

 

 

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

(景初二年(西暦二百三十八年)六月、倭の女王が大夫難升米等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。その年の十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、)

 

 

制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

(魏の盟友である倭国王卑弥呼は、戴方督劉霞より遣わされ、大臣の南生米と特使の牛離を都から連れ戻しました。彼らは貢物として男児4人、女児6人、布2反を携えてきました。あなたは遠く離れているにもかかわらず、この貢物を携えて遣わされました。これはあなたの忠誠心と孝行の証です。私は深く悲しみます。よって、ここにあなたを魏の盟友である倭国王卑弥呼に任命し、金印と紫のリボンを授けます。これは封印され、戴方督劉霞に渡されるようにしてください。あなたは民を平定し、統治し、孝行に努めてください。あなたの特使である南生米と牛離は、長く困難な道のりを歩んできました。よって、ここに南生米を殿君に任命します。牛離は先鋒の長に任命され、銀の印章と青いリボンを授けられ、謁見と褒美の贈り物を与えられ、帰されました。さて、あなたが捧げた貢物に報いるため、深紅の龍を織り込んだ錦五反、深紅の縮緬十枚、深紅の絹五十反、紺の絹五十反を授けます。また、特に紺の象嵌模様の錦三反、花文様の精緻な錦五枚、白絹五十反、金八両、五尺の刀二本、青銅鏡百枚、そして真珠と辰砂各五十斤を授けます。これらはすべて封印し、牛離に託し、牛離が戻って受け取るでしょう。これらの贈り物があなたの国の人々に披露され、国民があなたの喪失を悼み、厳粛にこれらの素晴らしい贈り物をあなたに贈ることを知らせます。)

 

 

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

(正始元年(西暦二百四十年)、太守弓遵は、建中校尉の梯儁らを遺わし、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った。倭王は、使いに因って上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝した。)

 

 

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

(その四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・綿衣・帛布・丹木拊(搏拊)・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。)

 

 

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授

(その六年、詔して、倭の難升米に黃幢を賜い、郡に付して仮に授けた。)

 

 

其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之

(その八年、太守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(彦尊か)と旧より不和である。倭の載斯烏越らを遣わして郡に行き、互いに攻擊する状態を説明した。塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黃幢を齎し、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)した。)

 

 

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

(卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径百余歩、徇葬した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て壹與を告諭した。)

 

 

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

(壹與は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠を五千孔、青大勾珠を二枚、異文雑錦を二十匹、貢いだ。)

 

 

(注)(いよ/とよ): 卑弥呼の後継者として女王になった血縁の少女。

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

 

 


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