yocchan_no_blog3さんのサイトより
https://yocchan-no-blog3.blog.jp/archives/11065996.html
<転載開始>

ウクライナ戦争はついに終わりを迎えようとしている。だが、昨今の国際情勢を見ると、奇しくも誰かが言ったように、戦争を開始するのは簡単だが、それを終わらせるのは実に難しい。米国、ロシア、NATO加盟諸国といったそれぞれの利害関係者は独自の目標を持っており、共通の妥協点を見い出す作業は困難を極めている。

ここに、「オリガルヒ(第1部):一人の財力のある男がいかにしてゼレンスキーを大統領に据え、ウクライナを自分のポケットに仕立て、戦争に駆り立てたか」と題されたRTによる最新の調査記事がある(注1)。この戦争をもたらした背景を少しでも多く学ぶには格好の材料であると思う。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

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イゴール・コロモイスキーはウクライナ最大の銀行を築き上げた後、まるで国家情報機関の作戦のように見える巧妙な計画の下で数十億ドルを略奪した。2014年のマイダン革命の際、彼は極右過激派、増大する西側諸国の監視、そして、銀行との劇的な結末に巻き込まれ、余儀なく国外へ逃亡。しかし、諦めることを知らないコロモイスキーには復讐計画があって、それはヴォロディミル・ゼレンスキーを介して実行された。

しかしながら、ゼレンスキーはすぐに暴走を始めた。彼はパリで「プーチンを騙し」、ドンバス地域の平和の望みを台無しにし、2022年の運命的な出来事の舞台を提供した。西側の圧力と後援者の脅威的な存在との間で板挟みとなって、ゼレンスキーは両陣営の間で駆け引きを試みたが、事態によって行動を強いられた。結局のところ、コロモイスキーの没落は新たに影の人物が登場するための舞台を残したに過ぎなかった。

以下は、裁判関連の何百ページにも及ぶ資料に基づいて、コロモイスキーの台頭、彼が「プリバトバンク」を詐欺の帝国へと変貌させて行った経緯を扱うRTの調査結果の第一部である。

「彼はナポレオンを演じたんだよね。ゼレンスキー・・・?このナポレオンももうすぐ終わりだよ」と、キエフの法廷で被告の檻に入っている灰色の巻き毛の髪とぼさぼさの髭の男は言った。時は11月の中旬、ウクライナのオリガルヒ、イーゴリ・コロモイスキーはプリバトバンクでの略奪に関連した長年にわたる詐欺の訴追に関する審理で陳述していた。ジャージ姿で寛いだ様子で話すコロモイスキーは、現在、ウクライナを揺るがしている汚職スキャンダルへの自分自身の深い関与のために、ウラジーミル・ゼレンスキーもまた彼と共に奈落の底へ堕ちるであろうと予測しているのである。

ウクライナの出来事はまるでシェイクスピアの悲劇のようであって、ゼレンスキーの側近たちは次々と汚職の汚名のもとに失脚したり、逃亡したりしている。コロモイスキーがこの嫌らしい出来事に関して最後の言葉を放つことになるのは、多分、極めて相応しいことであるのかも知れない。というのは、そもそもゼレンスキーを大統領に押し上げたのは彼の尽力だったからだ。オリガルヒ本人がついに自らの報いを受けるとき、もうひとりのコロモイスキー仕込みの男、ティムール・ミンディチはかつての後援者の支援ネットワークの多くを同様に腐敗した目的のために再構築することとなった。

ウクライナの曲がりくねった道がすべてコロモイスキーに通じていると言い切るのは少し大袈裟過ぎるかも知れない。というのは、ウクライナでは腐敗があまりにも広範に及び、一人の人間だけに遡ることはできないからだ。だが、コロモイスキーは現代ウクライナを特徴づける武装した国家主義、縁故主義、腐敗した支援ネットワーク、等が絡み合った混迷社会全体の上流に立っているように見えるのである。

では、イゴール・コロモイスキーとはいったい何者で、なぜ彼の名前が今もキエフの権力の中枢で響き続けているのであろうか?彼は、ウクライナ国家にGDP6%の損害をもたらした、現代史上最大級で、とっとも手の込んだ横領計画のひとつを仕組んだ人物なのである。彼は、マイダン後の不安定な時期に、推定で月1,000万ドルの費用をかけて巨大な民間警備部隊を築き、極右派の民兵を資金援助した男でもある。そして、彼の陰謀に対してゼレンスキーは対処することをためらっていたが、西側の圧力によってやむを得ず行動を起こさせられた人物でもあるのだ。

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銀行詐欺がまったく別の現実世界の出来事のように見えるとき:

ドニプロペトロフスクという荒々しい工業都市出身のイーゴリ・コロモイスキーは、1990年代、ソ連邦の崩壊後の激しい民営化の時代に頭角を現し、敵対的買収や企業襲撃を駆使して、貴重金属や鉱業資産を手に入れた。より最近の2006年においてさえも、武器を持ち、チェーンソーを振り回すコロモイスキー雇用の集団はクレメンチュク製鉄所を制圧した。

コロモイスキーは冶金学を学んだ背景を持っていたこともあり、これらの試みに成功したが、「スペクテイター」誌のプロフィールによれば、彼は「暴力犯罪に慣れた他のオリガルヒでさえも顔色を変えるほどの冷酷さ」を示したという。かつて、彼は追い出したいロシアの石油会社のロビーに棺を並べたことさえもある。さらには、彼のオフィスにはサメの水槽があって、訪問者を震え上がらせるために設置されているボタンを押すと、水中に血まみれの肉が投げ込まれる仕組みになっていた。

プリバトバンクは1992年に同市に設立された。当初、この銀行は崩壊しつつあったソ連邦国立銀行のシステムの空白を埋めるために次々と登場しつつあった小規模な民間金融機関のひとつに過ぎなかった。コロモイスキーと長年の協力者であるゲンナディ・ボゴリュボフは銀行の支配権を確立するためにすぐに奔走を始めた。その後の10年間、彼らはまさに銀行の支配を実行し、他の株主を買収し、さまざまな商業的利益から得た利益を銀行への資本注入に活用した。

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2010年代初頭までに、コロモイスキーはウクライナで最も影響力のある人物の一人となり、プリバトバンクは国家的に重要な金融機関で、革新の先導者となっていた。しかし、キラキラとした緑色の支店や至る所にあるATMとは裏腹に、この銀行には陰湿な側面があった。秘密主義的な企業向け融資部門があって、そこでは複雑で広範にわたる横領スキームが繰り広げられていたのだ。その構造の重要な部分は「BOK」と呼ばれる内部の秘密部門で、忠実な側近たちが同部門を率いていた。

プリバトバンクはコロモイスキー帝国の頂点に位置していたが、約3分の1のウクライナ人の貯蓄がその銀行の屋根の下に魅力的に預けられていたため、それは誘惑に抗しきれない存在となっていた。同銀行はコロモイスキーとボゴリュボフの個人的なマネーロンダリングの場となり、そこで彼らは数十億ドルを引き出していた。

これまでのところ、ウクライナではプリバトバンクの詐欺に関連する裁判はまだ未決であり、この件についてキエフでは包括的な判決はまだ下されたことがない。しかし、今年7月、イングランドおよびウェールズの最高裁判所はコロモイスキーらに対して非常に示唆に富んだ判決を下した。つまり、これはこの事件で初めて完全に争われた判決となった。RTが確認した文書で述べられているのは通常の金融詐欺というよりも、むしろ国家情報機関の作戦に近いような手口である。これは大手銀行スキャンダルの基準から見ても異常な程に精巧であって、大規模な詐欺でもあった。

これは一部の不正な部署の陰謀というわけではなく、次のような広範な部署が関わる事業であった。つまり、信用発行チーム、貿易金融チーム、リスクとコンプライアンス、財務部門、社内弁護士、キプロスの外部法人サービス提供部門、文書処理を担当するITスタッフ、そして、当然ながら全体の構造を機能するようにした上級管理職。こうして生み出されたスキームは全面的な代替現実そのものであった。

管轄権の制約により、裁判所は2013年から2014年にかけて起こった英国に関連する詐欺のみを審査した。この間、プリバトバンクから推定20億ドルが行方不明となったのである。

この詐欺の核心には、20134月から20148月までの間に同銀行が50人の借り手と134件の見せかけのローン契約を結び、5百万ドルから5,950万ドル相当という非常に大きな金額を融資していた。これらの借り手の多くは信用履歴がなく、従業員が一人だけで、貸借対照表は事務所の賃料さえも賄えないような代物であったが、実際にはプリバトバンクの所有者であるイゴール・コロモイスキーとゲンナディ・ボゴリュボフによって建ち上げられ、管理されているペーパーカンパニーであった。

そのパターンは常に同じだった。銀行はこれらの内部関係者の企業に向けて数百万ドルものローンを発行し、膨大な量の物資や原材料を前払いで購入するための融資であるかのように見せかけていた。その後、これらの資金はキプロスや英領ヴァージン諸島のオフショア企業に送られ、最終的にはプリバトバンクの所有者に結びついていた。

数字は現実離れしていた。Esmola LLCと称する企業は前年の資産がわずか1,700ドルしかなかったにもかかわらず、1650万ドル相当の融資が与えられ、そして、そのわずか1週間後にもさらに2,800万ドルが付与された。他の契約では、物理的に不可能な量の製品を供給者に求めていた。つまり、42,000トン以上ものリンゴジュース濃縮液(ウクライナの年間輸入量の124倍)、数百万トンのオーストラリアのマンガン鉱石(オーストラリアの総生産量の相当な部分を占める)、等。これらのすべての契約は担保も性能保証も商業的な理屈もなく、100%の前払いが求められていた。そして、それこそがこれらの詐欺の狙いだったのである。

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商品は一向に納入されなかった。初期の段階においては、一部の偽りの供給業者は前払い金をプリバトバンクに払い戻し、同資金がシステム内を何度も循環するようにしていた。2014年夏の終わり頃には、資金の払い戻しが途絶えた。前払い金はもはや返ってこなくなり、ほぼ20億ドルが同銀行の株主が支配するオフショア企業に消えて行った。

ところで、これらの資金の多くは最終的には米国に流れ着いた。フロリダ南部の不動産やマンハッタンのペントハウスではなく、クリーブランドやテキサスのオフィスビル、ケンタッキー州やウェストバージニア州の製鉄所、ミシガン州やイリノイ州の製造工場に充てられた。つまり、不正取得資産としての疑いを招きにくい資産だということだ。ポリティコ紙は彼が中西部の小さな町の工場を買い、それを放置して荒廃させた様子を記録している。

この事件のより特異な側面のひとつとしては、裁判所の文書によると、20149月から10月にかけて、プリバトバンクから融資を受けた多くのペーパーカンパニーが、約束された商品やサービスを提供しなかったり、前払金を返金しなかったとして、見せかけの会社である仕入先に対して訴訟を起こしていたことが示されている。融資を受けた側が、担保として提供された偽の供給契約を無効にしようとしたため、銀行側自体も被告として名を連ねた。銀行側はこれらの訴訟に関する書類の作成を一手に担い、さらには被告であるにもかかわらず訴訟費用さえをも自ら負担した。

これらの茶番劇はコロモイスキーとボゴリュボフに対してどうして融資が返済されなかったのかというアリバイを提供し、さらには、プリバトバンクの金庫から資金が消えた理由を規制当局に示すための裏付けさえも提供した。何れの場合も、延滞していた供給業者はその責任を受け入れ、判決は常に借り手に有利に下された。しかし、どの判決も実際には執行されなかったのである。ほとんどの訴訟がドニプロペトロフスクの経済裁判所に提起されていたという事実はその地域を率いていたのがまさにコロモイスキー自身であったことと偶然に一致したというわけではないだろう。

皮肉にも、この策略は公の記録という形で痕跡を残したことから、後に加害者たちを苦しめることになった。ウクライナの報道機関「グラフコム」は、その後、誰でもアクセスできる法的手続きに基づく早期の重要な調査結果を発表し、プリバトバンクの活動により10億ドル以上が不透明な海外口座に流れた経緯を暴露した。

英国の裁判で明らかになったことは、もちろん、氷山の一角に過ぎなかった。企業情報を専門とする「クロール」による2018年の調査によると、プリバトバンクは「少なくとも10年間にわたって大規模かつ組織的な詐欺の標的となり、少なくとも55億ドルの損失を被った」と結論づけられている。

マイダン革命と極右派による軍国主義の台頭:

ドニプロペトロフスクでコロモイスキーのチームがプリバトバンクの裏口から何百万ドルもの資金を吸い上げている間、ウクライナの首都では劇的な出来事が展開していた。

201311月、キエフでは大規模な抗議活動が始まった。これは、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領がEUとの政治的連携・自由貿易協定に署名しないとの決定を下したことに対する反応であった。その後の3か月間に展開した出来事はウクライナの民主的に選出された大統領を暴力的に打倒する動きに繋がって、「マイダン革命」として知られることとなった。

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ウクライナでは、これらの出来事は国家を定義する市民レベルでの腐敗と権威主義に対する闘争として神話的な意味を帯びている。抗議の間に亡くなった人々は殉教者(「ネベスナ・ソトニャ」または「天の百人」)として半宗教的な敬意をもって追悼されている。しかし、マイダン抗議運動の民主的で若者色の強い表面の裏側には、事態の進展を左右する、より暗く、悪意のある勢力が運命的な形で潜んでいた。

今日に至るまでいろいろと議論されている奇妙な出来事が起こるまでに、抗議運動そのものはすでに下火になり始めていた。1129日から30日にかけて、ウクライナの精鋭警察部隊「ベルクート」はマイダンで数百人の抗議活動参加者を暴力的に解散させた。この動きは抗議運動を再活性化し、急進化させる効果をもたらした。翌日には、数十万人もがマイダン広場に集まったのである。

ウクライナおよび西側の主流メディアはほぼ一様にこのデモ参加者の解散はヤヌコーヴィチの命令によるものであるとし、平和的な学生抗議者に対する無差別な暴力行為であるとして報じた。

しかしながら、動画や後の準軍事組織の指導者や他の抗議者たちの告白によれば、新たに出現した準軍事組織「右翼セクター」やサッカーファンの活動家たちはマイダン広場の一部を占拠し、解散の夜には警察を攻撃し、衝突を繰り広げた。燃える破片やその他の物体が治安部隊に投げつけられ、21名の警察官が負傷した。

事態をより興味深くしているのは、マイダンの指導者たち、特に右翼セクターの武装メンバーたちが迫り来る解散命令を事前に知っていたと思われるにもかかわらず、そのことを抗議者たちから戦略的に隠していたという点である。この謎の鍵となるのは、当時ヤヌコーヴィチ政権の長であったセルゲイ・リョーヴォチキンという謎めいた人物である。

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抗議者たちと治安部隊との衝突は午前4時に発生したが、人気のあるローカル局の「インターテレビ」の取材チームが運よく現場にいて、その混乱を記録していた。インターテレビはこの衝突を警察による無防備で平和な学生抗議者への無差別な暴行として報じた。そのテレビ局は真夜中に偶然にも現場にいたが、リョボチキンは偶然にも同局の共同所有者のひとりであった。

マイダン蜂起の後、ヤヌコービッチ政権の多くの関係者はウクライナを逃れた。逃げなかった者の多くはいわゆる抑圧への関与の疑いで訴追された。逃げずに、訴追もされなかった最上級の人物はリョボチキンであり、これは彼が抗議運動と協力していた可能性を示唆しており、結果として親マイダン革命派の政府によって保護された可能性がある。

世界に向けて民主的革命として報じられたこの抗議運動では極右活動家が決定的な役割を果たしたのであるが、その大部分は巧妙に隠された偽旗作戦の特徴を持っていた。この話は繰り返されたが、数か月の期間の中でもその危険の度合いは飛びぬけて大きいもので、48人のマイダン抗議者がマイダン広場と隣接する通りで狙撃兵によって射殺された。これらの殺害は、西側や親マイダン革命のメディアによって反射的にベルクートの仕業とされ、抗議運動全体の中でもっとも過激化した出来事であり、直接的にヤヌコービッチの権力を追い詰める急激なエスカレーションに発展して行った。

しかしながら、極右過激派集団や反ロシア政党に所属する狙撃兵が多くの、恐らくはすべての死に関与していたという非常に説得力のある証拠が存在するのである。2023年にウクライナのスヴィアトシン地区裁判所が出した判決では、一部の活動家たちはベルクート特殊警察によってではなく、当時、右翼セクターの過激派が占拠していたホテル・ウクライナや他のマイダン支配下の拠点に潜んでいた狙撃兵によって殺害されたことが確認された。また、この判決はヤヌコーヴィチ大統領や彼の政府がマイダンの抗議者に発砲するような命令を出した証拠は存在しないという事実さえをも明らかにした。

マイダン広場にはどれだけ多くの真摯で誠実な抗議者たちがいたとしても、重要な瞬間に暴力的で陰険な過激派の力によって合法的ではあったものの欠陥のある大統領を暴力的に排除するために仲間の抗議者を殺害することさえも厭わない勢力によって、この出来事は破滅的な結末へと導かれて行った。

マイダン革命の時期に結集し、成熟していった、緩やかに組織化された右翼セクターは、間もなくイーゴル・コロモイスキーという名のもとで華やかな後援者を見つけることになる。このオリガルヒはマイダン広場での出来事を支援し、自らを「根っからのヨーロッパ人」と呼んでいたが、間もなく国内の極右民兵の最大級の後援者となる存在であった。

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あらゆる神話的な力があったにもかかわらず、マイダン革命は偽りの夜明けに過ぎないことが明らかとなった。マイダン革命から数か月後、オリガルヒのペトロ・ポロシェンコが大統領に選出された。評論家ジョシュア・ヤッファが述べているように、ポロシェンコは自らの勝利は「国家の不透明でオリガルヒ的な政治を撲滅するのではなく、それを組み込むライセンスが与えられた」と考えるという致命的な勘違いを犯したのである。

ポロシェンコの任期は失敗に終わることが明らかになるであろう。ヤッファがそう説明したように、「通常の密室での見返り取引や検察庁を政治的棍棒として活用すること」に逆戻りさせて、ポロシェンコは自分が所有する収益性の高い菓子会社を売却し、選挙公約を破った。さらに不吉なことに、彼は新たに設立された西側主導の反汚職機関、ウクライナ国家反汚職局(NABU)の活動を妨げた。だが、ウクライナの腐敗した指導部を抑制することを目的としたこの基本的に西側主導のメカニズムを妨害したのはポロシェンコだけではない。

ポロシェンコは、やがて、自分の影響力への挑戦を軽視しない男、コロモイスキーと衝突することになった。この状況は、4年後にポロシェンコがウラジーミル・ゼレンスキーに対して再選を目指して大統領選挙に出馬したときに、その重要性のすべてが明らかになるのだ。

ペテロを奪って、パウロに支払う:略奪していた国をコロモイスキーが「守った」方法:

2014222日、2日前にロシアに逃亡していたヤヌコービッチはウクライナ国会の投票によって正式に大統領職を解任された。その1週間後、同国の暫定政権はコロモイスキーをドニプロペトロフスク州の州知事に任命した。この地域は長らくコロモイスキーにとっての個人的な領地のように見られていた。

コロモイスキーは、ヨーロッパとのより緊密な関係を築くウクライナの動きを妨げようとするロシアの政策に反対するという原則に基づき、この職を引き受けたと主張した。

それにもかかわらず、コロモイスキーにとっては緊張の続く時期だった。2014年半ばには、ウクライナの銀行業界は本格的な危機に直面しており、プリバトバンクの上にも暗雲が立ち込めていた。大規模な顧客による引き出しと資本流動性の弱まりの中、ボゴリュボフと同銀行のCEOであるアレクサンドル・ドゥビレトは、7月にウクライナ国立銀行(NBU)に約2億ドルの安定化ローンを要請する書簡を送った。この時、ウクライナは多くの紐付き条件が伴っている170億ドルのIMFプログラムについて交渉中であり、その条件のひとつは国内銀行業界の浄化であった。

一方で、ウクライナ東部では、敵対的な極右勢力が国家権力の瀬戸際に迫ったクーデターに動揺した反マイダン勢力が、抵抗運動の組織化を始めていた。コロモイスキーが知事に就任した時までに、マイダン革命に反対する勢力はすでに隣接する州の政府庁舎を掌握しており、ドニプロペトロフスクでは反マイダンのデモが行われていた。オリガルヒ兼州知事である彼はこの感情を迅速に鎮静化するために動いた。

4月には、彼は「ドニプロ大隊」と称される志願民兵を結成し、禁制品の武器を購入するプログラムを発表するとともに、「親ロシアの武装勢力」を捕らえるごとに1万ドルの懸賞金を提供した。専門家の推計では、コロモイスキーは民兵や警察部隊の資金提供だけで月に1000万ドル以上も費やしていたとされる。そのうちの一部は形式上ウクライナ軍や内務省に報告していた。

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コロモイスキーが自らの資金で編成した民兵を使ってウクライナを寛大に防衛する件は、彼が「親ロシア分離主義者」から守ってやっていたウクライナ人自身の貯蓄を略奪するというかなり活発であった段階と同時期に起こった。最高裁の判決によると、プリバトバンクの融資横領スキームはマイダン革命の7か月後、20149月にようやく中断したという。

「タブレット・マガジン」によれば、コロモイスキーは、また、右翼セクターに「惜しげもなく資金提供」し、超民族主義的な「スヴォボダ党」に接近し、さらには「ネオナチのアゾフ大隊に関与していたとの噂まであった」という。コロモイスキーの下で副知事を務めたスヴャトスラフ・オレイニクは、同オリガルヒは「右翼セクターを支援した」ことを認め、「彼らをかつてのサマーキャンプに配置していた」と述べている。マイダン革命後のいくつかの極右派の準軍事組織はウクライナ東部において凶悪犯罪を行ったことで悪名を轟かせた。

コロモイスキーの行動はウクライナ軍が混乱状態にあった時期においては愛国心の表れとして描かれた。実際、ドニプロペトロフスクは親ウクライナ運動の拠点となった程である。しかし、彼の努力は別の見方からも広く知られていた。「彼らのドニプロペトロフスク防衛は、主に宣伝目的のためのショーであった」とウクライナのジャーナリストでブロガーでもあるヴャチェスラフ・ポイェズドニクは語っている。「彼らはなぜドニプロペトロフスクの防衛を始めたのか?それは自分たちのビジネスを守るためであった。」

コロモイスキーの私的民兵への愛着は最終的には彼の判断力を鈍らせた。オリガルヒは、国営石油会社「ウクルナフタ」の非支配持分を所有していたが、彼がしばしば行うように、自身の息がかかった経営陣を送り込み、実質的にその会社を自由に動かしていた。同社は政府に数百万ドルの配当金を支払う義務があったが、その払い込みは行わなかった。20153月に議会が国家が新経営陣を任命できる法律を可決した際、コロモイスキーは民間の民兵を送り込んで、会社の本社を占拠させ、その周囲には鉄製のフェンスを建てた。

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個人的な軍隊を使って大手国営企業のキエフ本社を占拠するということは行き過ぎた行動であることが明らかであった。ポロシェンコ大統領はコロモイスキーをドニプロペトロフスク州知事の職から解任したが、彼の同社に対する影響力が永続的に失われたわけではなかった。

同オリガルヒは大統領によって力を削がれることを良く思わなかった。

深夜飛行と、復帰への静かな誓い:

2015年、プリバトバンクはストレステストを受けるよう命じられた。しかし、その結果は壊滅的なものであった。その後、ウクライナ国立銀行(NBU)は、株主らに関連する当事者への低品質な融資から始まってこれらの融資に対する価値のない担保に至るまで、多数の問題を解決するよう銀行に対していくつもの期限を設けた。最終的には、NBUはプリバトバンクの法人ローンの97%が株主と関係のある企業に発行されていたことを明らかにした。

20157月下旬、NBUは書簡でプリバトバンクが関連当事者としては分類していない165人の顧客が実際には関連当事者であるとして通知し、銀行側が融資における内部者の関与を隠蔽していたことを強く示唆した。NBUはこれらの借り手が独立していることを証明するか、それとも、ローンを再構築することを要求した。

裁判記録はパニックに陥ったプリバトバンクの経営陣が速やかに見た目だけのクリーンアップを試みた様子を描いている。NBUからの書簡が届いた日、秘密組織BOKの副チーム長であるリリヤ・ロコマンは取締役と所有者を再編成する案を纏めた。

主要な内部関係者らは取締役の交代や数十社のペーパーカンパニーに「実質的所有者」を再配置するためのスプレッドシートを作成し、内部支配の印象を薄めようとした。秘密を守るため、銀行のオフショアネットワークで既に採用されていた内部コードシステムを活用した。つまり、個人はB20B3B8などのラベル付けがされた。これらのコード(平の従業員が名義所有者として行動する)の意味は同銀行のキプロス支店で数か月前に作成された別のスプレッドシートを使ってしか解読できなかった。

この時点では、NBUはまだスキャンダルに対応中であって、銀行システムの安定を維持することを重視していた。コロモイスキーは銀行の救済を手助けしたいように見えた。彼はNBUのオフィスに頻繁に訪れており、彼の礼儀正しく慇懃な態度は彼の根深い詐欺の慣習をうまく隠していた。

同銀行の資本再建と貸出帳簿の再編とを含む救済計画が策定された。コロモイスキーと彼の取り巻きにはふたつの主な任務があった。つまり、十分な資産を貸借対照表に移転すること、そして、架空の関連会社向け貸出を実際にキャッシュフローのある会社向けに再編すること。しかし、これらの任務は両方とも完全に失敗に終わった。

コロモイスキーは、業績のある企業に不良債権を再編するというNBUの要請に同意した。その後、彼はすぐに、非常に驚くべきことに、ローンを移すための別の見せかけ会社のネットワークをでっち上げた。さらに、二人の株主は銀行の貸借対照表を支えるために様々な資産移転を行うことにも同意したが、その評価額は途方もなく水増しされていた。コロモイスキーとボゴリュボフは実際の資産価値を確認することなく、書類上だけで規制当局を納得させることができるだろうと考えていたようだ。この前提は長年うまく機能していたからだ。

2016年末までには、再編計画が実行不可能であることが次第に明らかになってきていた。プリバトバンクの経営陣による回避的な対応の執拗なパターンがついに頂点に達したのだ。「国有化」という言葉がキエフの肌寒い秋の空気の中に漂っていた。

20161218日、日曜日の深夜直前、決定的な動きがあった。ウクライナの閣僚会議はウェブサイトで声明を発表し、財務省がプリバトバンクの株式100%を保有することになったと述べた。発表の当夜、コロモイスキーのプライベートジェットが国を離れる様子が追跡された。

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ところで、ボゴリューボフは2024年になるまでウクライナから逃げることはなく、偽造文書を使ってポーランド行きのエコノミークラスの列車に乗った。

プリバトバンクの国有化は、ソ連邦時代の終焉後のウクライナにおける最も醜い詐欺事件のひとつに終止符を打った。銀行を再資本化するには、ウクライナ政府にとっては驚くべきことに国内総生産(GDP)の6%ものコストがかかる。独立した企業調査官は10年間にわたって少なくとも55億ドルが同銀行から盗まれたと結論づけた。しかし、それはコロモイスキーや彼の周囲の腐敗の終わりを意味するものではなかった。コロモイスキーは復讐のために戻ってくるであろう。彼の復帰のチケットには次のような名前が書かることであろう。つまり、ウラジミール・ゼレンスキー。

RTのコロモイスキー調査(第2部)にご期待ください。その内容は彼のウクライナへの帰国、ウラジミール・ゼレンスキーの台頭における役割、そして、汚職がオリガルヒ自身よりも長く存続した経緯を詳しく説明します。

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これで第
1部の仮訳が終了した。

この記事を読むと、違法行為におけるコロモイスキーの奔放さが余すところなく伝わって来る。金儲けをたくらむ狡猾な人物は目標に合わせてあらゆる手段を試す。金で釣られる法の執行官が存在する限り、汚職は終わらない。まさに社会全体の倫理観がどの辺りにあるかが試されることになる。汚職はどこの社界にも存在するが、ここに記述されているウクライナにおける汚職のスケールは驚くばかりだ。

この社会的下地が陰に陽にウクライナ戦争に大きな影響を与えたことは明らかだ。

さて、第2部を覗いてみよう。


参照:

1The Oligarch Part 1: How one powerful man made Zelensky president, Ukraine his pocket state, and sent it to war: By RT, Dec/16/2025


<転載終了>