マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-b2cb0b.html
<転載開始>
サミヤル・ロスタミ
2026年5月2日
New Eastern Outlook

 オマーンは、対イラン戦争において独自の外交的立場を取り、中立を維持しつつ、中東における緊張の高まりの中、仲介者としての役割を強化している。

 

 オマーンはアラビア半島の東部、ムサンダム半島の北(ホルムズ海峡の南)に位置し、イランに近接している。オマーンの外交政策の重要な柱の一つは、アラブ諸国や西側同盟国とイランとの間でバランスを取ることだ。

 イラン戦争に対するマスカットの姿勢

 2026年2月28日、アメリカとイスラエルによる協調攻撃がイランを襲った。オマーンは紛争勃発直後から中立的仲介者の立場を表明した。オマーンは開戦後すぐ対イラン攻撃を非難した。オマーン国内で、疑わしい、あるいは曖昧な攻撃があったにもかかわらず、マスカットはイランとの政治的関係を弱めることなく、イラン新指導者選出を祝福した。

 アラブ首長国連邦、カタール、クウェート、バーレーンといった他の地域モデルが打撃を受けていることを示す証拠がある今、中東における安定の島としてのオマーンの経済的魅力は、更に高まる可能性が高い。

 オマーンのバドル・ビン・ハマド・アル・ブサイディ外相は「この戦争は違法だ」と述べた(注意! リンク先はアラビア語!)。3月には、アメリカ、イスラエル、イラン間の緊張関係に言及し、これらの紛争はテヘランによって始められたものではないと述べていた。

 実際、オマーンは戦争回避に向けた宣言と行動の両面で政策を進めた。GCCの他の加盟諸国と異なり、オマーンはアメリカによる領土、領海、領空の使用を認めず、国内の米軍基地も戦争には参加しなかった。
 オマーンは、この戦争へのいかなる支援や援助の提供にも反対した。地域情勢が危険な様相を呈する中で、オマーン・スルタン国は外交政策の原則を堅持し続けた。

 またオマーンは、地域紛争を阻止するための行動を国連安全保障理事会に公式に要請したが、他のGCC諸国とともに国連安全保障理事会には参加しなかった。

 次段階として、イランが停戦継続を受け入れ、外交過程に参加した責任ある姿勢を歓迎し、地域に平和と安定が一日も早く戻るよう願うとオマーンは表明した。

 イランのマソウド・ペゼシュキアン大統領とオマーンのハイサム・ビン・タリク・アル・サイード国王との電話会談や、最近のイラン外相のオマーン訪問など、外交協議が継続されていることは、両国間の良好で強固な関係が継続していることを示している。

 これまで、テヘランとマスカットは常に誠意をもって船舶の安全航行を保証してきたが、戦時下においては協力と新たな決定が必要となる。イラン・イラク戦争勃発直後、オマーンはイラン当局者とホルムズ海峡の新たな法的枠組みについて高官級会談を行った

 ペルシャ湾および中東における紛争を、オマーンが自国にとって深刻な脅威とみなしているのは確実だ。

 マスカットは、地域が直面する課題に対処するため、外交努力と建設的対話の強化を継続しており、国家主権の尊重と重要かつ戦略的な内政不干渉に基づき、地域紛争に対する持続可能な解決策を見出すことに重点を置いている。

 オマーンは依然、イランの核開発計画を地域の安全保障に対する脅威とは考えていない。オマーンはイランやアメリカとの良好な関係を維持し、外交政策の独立性を保つことで、危機解決において重要な役割を担い、効果的な仲介者としての地位を確立している。

 オマーン・モデルの好ましい結果

 オマーンはアラブ連盟と湾岸協力会議の加盟国だが、アメリカ・イスラエルによる対イラン戦争に関して、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビア、バーレーンといった近隣諸国と全く異なる立場をとっている。この姿勢は、これまでのところ、地政学的および地経学的領域で、多方面にわたる幅広い利益をオマーンにもたらしている。

 実際、オマーンの外交政策の原則は、独立、近隣諸国の領土保全の尊重、中立性、近隣諸国との交流、地域組織や連合への参加、外交政策の強化と、地域における仲介役の遂行に基づいている。

 巧みな外交手腕と、積極的かつ中立的な仲介の原則を活用した中東の緊張緩和は、他国からも好意的評価を得ている。イランが最も信頼する仲介役は依然オマーンで、その仲介能力、オマーン・ブランドと、マスカットのソフトパワーの高まりは、今後も効果を発揮し続けるだろう。

 オマーンは、地域における危機や軍事衝突の際に中立政策を維持することで、中東情勢の激動から身を守ることができた。実際、マスカットはオマーン在住のイラン人と良好な協力関係を築き、合理的かつ原則に基づいた政策により戦争の火種から自らを遠ざけることができたのだ。

 一方、今日、オマーンは戦争状況から多くの経済的恩恵を得ることができた。経済が打撃を受けなかっただけでなく、正当な経済成長の恩恵も受けた。一方、近隣のGCC諸国は深刻な経済問題を抱えている。

 実際、他国が甚大な損失とコストに苦しむ中、オマーンは経済を強化した。オマーンのマクロ経済指標と不動産価格が上昇したことで、石油・ガス市場の顧客数も増加した。

 アラブ首長国連邦、カタール、クウェート、バーレーンといった他の地域モデルが打撃を受けていることを示す証拠が出てくる今、中東における安定の島としてのオマーンの経済的魅力は、更に高まる可能性が高い。

 この姿勢は、オマーンの2040年構想、新規および拡張中の港湾、南北回廊における潜在的物流および輸送協力や同国の輸送拠点としての役割に更に好影響を与える可能性がある。

 対イラン戦争の目的は地域構造を根本的に変革することだけではないとマスカットの多くの人々は考えており、イスラエルとの妥協はあり得ないと考えている。この考え方はイランへの同情を示すものではなく、対イラン戦争の結果はオマーンに利益をもたらし、地域のイスラエル同盟諸国に損害を与える可能性もあるという認識に基づいている。

 更に、イランとの協力は、マスカットが独立性を維持する機会と、UAEなどの勢力に対する独自行動の可能性を維持するのを可能にするだけでなく、他の勢力とのバランスを取るための要素としてイランを利用することも可能にする。

 中東外交においてオマーン・モデルを確立することは、同国の政治、ソフトパワー、安全保障、経済の利益にとって、確実により好ましい結果をもたらすだろう。

 イラン・イラク戦争におけるオマーン・モデルに基づいたマスカットの姿勢は、イラン、ロシア、中国との関係拡大、経済協力拡大、代表団交流、航空便や貿易量の増加や、人的交流の深化といった面で、より好ましい結果をもたらす可能性もある。

 別の側面から見ると、イラン戦争の結果は、アメリカ・オマーン関係に悪影響を及ぼす可能性が高いものの、オマーン・モデルの恩恵は、EU、ユーラシア、BRICS、中国といった地域や主体との関係においてより広範なものになるだろう。

 サミャル・ロスタミは、政治評論家、国際関係の上級研究員。

記事原文のurl:https://journal-neo.su/2026/05/02/muscats-approach-to-the-war-with-iran-and-the-positive-consequences-of-the-omani-model/

----------

  オマーン、日本とは意外なつながりがある。2015/11/17の産経新聞記事から一部コピーさせていただく。
さらに国王自身にとっても日本はゆかりが深い。国王の祖父タイムールは、内政の混乱に疲れ、1932年に自ら退位した。その後一時、神戸に在住し、そこで日本人女性と結婚したのだ。2人の間に生まれたブサイナ王女こそが、カブース国王の叔母なのである。
 東京新聞 5月2日記事
大空幸星衆院議員「どんな趣旨でも」…防災公園でのあらゆる集会は「慎重であるべき」主張 実態とズレた認識
 ただの嫌がらせ。

 オマーンの歴史 をWikipedia記事の自動翻訳で読んでみた。

 以下は、ウィキペディア、フリー百科事典記事の機械翻訳によるもの。

オマーンの歴史

 近世と現代

 オマーンの歴史は、アジアのオマーン国家の歴史を記述した文書である。オマーンは10万年以上前にさかのぼる先史時代の人類居住地だ。この地域は、ポルトガルやイギリスの侵略者を含む他のアラブ部族の影響を受けた。

 最盛期には、オマーンにはペルシャ湾からマダガスカル島に至るまで、ザンジバル、モガディシュ、グアダールといった著名な保護区が数多くあった。1]

 先史時代

 オマーンでは、かつてスーダンの考古学的発掘調査でのみ知られていたヌビアン・コンプレックスに属する石の層が表面から採取された百か所以上の遺跡が、ビエンゾーヴェン博士により発見された。光学的刺激を与える2つの発光年代測定では、アラビア・ヌビア複合体は約10万6000年前と推定されている。これは海洋同位体の第5段階の初期段階に位置する南アラビアにおける明らかに移動可能な石器時代の技術複合体の証拠を示している。2]

 人類がアフリカから世界の他地域を植民地化するために出発するという仮説には、紅海南部のバブ・エル・マンデブ海峡を、アラビア周辺の緑の海岸線に沿って越え、その後ユーラシア地域へ移動することが含まれる。これら越境は、海面が80m以上低下したことで可能となり、エリトリア南部とイエメン間の多くの海棚が露呈した。気候が不規則に冷え込んで最終的な氷河の最高値に達するにつれ、60〜70キロの氷河領域に達したのはそのレベルだった。13万5000年前から9万年前まで、熱帯アフリカでは大規模干ばつが発生し、人類を陸地から海岸まで移動させ、他の大陸へ越境させた。研究者らは、アフリカにおけるマラウイ時代至る所で植物を作製するため、300年間隔で湖底の泥に閉じ込められた花粉粒子に放射性炭素年代測定技術を用いて試料を採取した。干ばつが頻発した時期に採取された試料は、花粉や木炭がほとんどなく、燃焼もほとんどない希少な植物であることが示唆される。マラウイ湖周辺地域は、現在森林に覆われている地域で、約13万5000〜9万年前の砂漠地帯だった。3]

 発光年代測定法は、砂に蓄えられた自然発生放射線を測定するための技術だ。

 この方法論を通じて収集されたデータによると、1万3000年前のアラビア半島は比較的温暖で、降雨量が多くなり、豊かな居住可能な土地の連続へ変わってしまった。この期間中、南紅海の水位は低下し、幅は僅か4キロだった。これにより、人類が簡単に海を渡り、ジェベル・パヤのような対等な地域へと半島を横断できる時間が短かった。アフリカの気候変動から逃れてきた初期移民たちは、良好な気候条件でアラビアを横断しながら、紅海を越えてイエメンとオマーンへと渡った。3] アラブ首長国連邦の紅海とジェベル・パヤの間には、2000キロの無人砂漠がある。しかし、約1万3000年前、世界は氷河期の終わりを迎えていた。紅海は徒歩や小さないかだで渡れるほど浅く、アラビア半島は砂漠から緑の土地へ変化していた。

 旧石器時代の石が、ペルシャ湾、南部および中部オマーンの出口にあるホルムズ海峡に近いアラブ首長国連邦の洞窟で発見された。[4][[5] 12万5000年前の石器時代は、同じ時期にアフリカの人々のそれに似ている。

 イスラム教への改宗

 オマーンはムハンマド存命中、630年代にイスラム教に触れ、第632回リダ戦争で統一された。

 751世紀に、カワリ派の穏健派イバディ・ムスリムがオマーンにイマーンを設立した。動揺していたにもかかわらず、イバディ・イマメテは20世紀半ばまで生き延びた。6]

20世紀以降

 1954年にイマームの土地で石油が発見され、その際、スルタンによりシーヴ条約が破られたことで、紛争は再び激化した。新たなイマーム(ガリブ・ビン・アリ)は、スルタンからの攻撃に直面して5年間にわたり反乱を続けてきた。スルタンは、植民地時代のイギリス人およびイランのシャーから支援を受けていた。1960年代初頭にサウジアラビアに亡命したイマームは、指導者や他のアラブ諸国政府から支持を得ていたが、この支援は1980年代に終了した。イマームの事件は国連でも議論されたが、重要な措置は講じられなかった。

 ザンジバルは1964年初頭の独立まで、毎年マスカットとオマーンを支援した。

<転載終了>