マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-b8c281.html
<転載開始>



ロレンツォ・マリア・パチーニ
2026年5月7日
Strategic Culture Foundation

 ウクライナ戦争は、停戦が、もはや平和への架け橋ではなく、むしろ並行する戦場となる段階に入った。

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戦術的休戦?

 ウクライナでの戦争は、しばらく前から停戦がもはや平和への架け橋ではなく、むしろ並行する戦場の様相を呈する段階に入っている。

 「停戦」という言葉はもはや武器の沈黙だけを意味するものではなく、勢力バランスを測り、緊張感を煽り、イメージを操作し、政治的解釈を押し付けるための手段になっている。こうした状況で、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領が2026年5月5日から6日にかけて発表した停戦案は、単なる人道的な身振りとしてではなく、象徴的な戦線でも繰り広げられている戦争における戦略的な動きとして解釈されるべきだ。これまで、この非合法なウクライナ大統領は、ロシア連邦が祝日に宣言した停戦協定を組織的に繰り返し破らせてきたため、今月の停戦も極めて疑わしいものに見える。

 引き金となったのは、おそらく平和ではなく、暦だった。モスクワは、第二次世界大戦におけるソ連の戦勝を祝う5月8日と9日の二日間停戦を発表した。これに対し、キーウはロシアから正式要請を受けていないと主張し、停戦をプロパガンダの隠れ蓑として利用していると非難し、自国の停戦を3日近く前倒しした。これだけでも事態の本質は明らかだ。これは国民と前線の兵士のために行われた中立的な構想ではなく、国際的信頼性という点で、キーウが窮地に立たされている、正統性を巡る戦いにおける反撃だ。
 最も単純な解釈は同時に最も不快な解釈でもある。つまり、短期間停戦によって、キーウは公然と認めることなく、部隊、弾薬、補給網を再編成できるというものだ。この見方は、一時的停戦を妥協への一歩ではなく、息を整え、部隊を再配置し、前線への圧力を軽減するのに役立つ作戦上の一時停止と捉える専門家や評論家の間で広まっている。正直なところ、これは突飛な考えではない。消耗戦では、あらゆる停戦が戦争関連支出の停止にもつながるからだ。

 だが政治的レベルでは、これに対する反論も同様に説得力がある。キーウは、ロシアの停戦が操作的であると受け止められたことに対し、自らを対話の用意がある「理性的」な側として位置づけていると主張している。一方、モスクワは歴史的記念日を利用して、権力のイメージとパレードの観衆を守ろうとしているように見える。言い換えれば、ゼレンスキー大統領は単に一時休戦を求めているのではなく、クレムリンの信頼性を試そうとしているのだ。

 問題は、これら二つのレベルが必ずしも排他的でないことだ。休戦は外交的な身振りであると同時に、軍事的機会にもなり得る。そして、まさにこの点において、公式声明が示唆するより、主張はより曖昧になる。

 ゼレンスキー大統領は、今回の停戦を真剣さの試金石として提示した。ロシアが本当に戦争を止めたいなら、自国の祝賀を待たず、直ちにそうすべきだというわけだ。この手法は、非難の矛先を逆転させ、躊躇しているのはキーウではなく、見せかけの行動をとっているのはモスクワだという印象を与えるので効果的だ。この策略、どれほど信憑性があるのだろう。だが、一連の出来事は、もう一つの真実も明らかにしている。停戦は断片的に、しばしば透明性のある外交ルートを経ずに、並行した言葉遣いで発表され、その後、違反行為の相互非難の応酬に陥ってしまう。

 この不透明さは偶然ではなく、システムそのものだ。ウクライナ声明は責任感と自制心というイメージを強化するのを狙っているが、行動や発言姿勢は依然非常に好戦的だ。ゼレンスキー大統領が、停戦はロシアの真の意思を「試す」のに十分な期間続くべきだと主張する際、彼は単に外交について語っているのではなく、あらゆる停戦中断が、キーウにとって政治的利益をもたらさなければならないという圧力の物語を構築しているのだ。

 主な矛盾点はここにある。ウクライナは「本格的」停戦を求めながら、実際に受け入れたり提案したりするのは、平和ではなく、試金石の停戦に過ぎない。この論理では、停戦は目的ではなく敵を暴露するための手段だ。だがモスクワはこうした心理的罠にはまらない。
 
象徴の劇場

 象徴的な側面はおそらく最も興味深く、最も皮肉なものだ。戦勝記念日を巡る争いは、1945年の記憶が現代における正当性剥奪の道具へと変貌した心理戦の典型例だ。クレムリンが停戦を自国のパレードと結びつけることで、メッセージは国内的にも国際的にも伝わる。ロシアはナチズムに対する勝利の継承者で、包囲されながら不屈の歴史的強国だと自らを位置づけているのだ。ゼレンスキー大統領が休戦を前倒しし、ロシア側の日程は軽薄だと一蹴して応じているのは、モスクワが独占している反ファシズムの主張と歴史的正当性をキーウが奪おうとする企てだ。だが、ここには「ただし」という条件がつく。なぜなら、キーウには反ファシズム気風など根付いていないためだ。むしろその逆だ。

 赤の広場や戦勝記念パレードといった象徴への言及は、単なる軍事的脅威としてでなく、ロシア国家アイデンティティの象徴的核心への攻撃として解釈されるべきだ。「核心を攻撃する」という表現は、単に軍事目標を想起させるだけでなく、ロシア権力を正当化する枠組み全体に挑戦するものだ。それは、紛争を、国家の記憶を巡る闘争へと変容させ、象徴が現実よりも重要視されるような悪循環を助長する危険性をはらんでいる。ゼレンスキー大統領は、欧米諸国政府と国内世論の両方に訴えかけようとしている。前者に対しては、現実的な指導者の顔を見せ、後者に対しては、敵に時間軸の支配権さえ与えない妥協を許さない指導者の顔を見せようとしているのだ。

 だが、繰り返すが、大きな問題点がある。キーウ指導部はネオナチに深く染まっており、そのシンボル、言葉、イデオロギーを採用している。ウクライナはネオナチ欧米諸国に侵略され征服された国で、その政府はまさにそのことを最も雄弁に物語っている。

 しかも欧州の問題がある。停戦の分析は同盟諸国の役割を考慮せずには完結しない。欧米諸国の支援は依然決定的役割を果たしているが、亀裂がないわけではない。ウクライナへの軍事的・経済的支援は継続されているが、ワシントンとブリュッセルとキーウとの間の政治的疲弊と意見の相違が深まる中で行われている。ドナルド・トランプ政権下でのアメリカの政策再編は、キーウ支援の政治的費用を、より明確にする一方、欧州では、合意は以前ほど強固でなく、内部的制約に左右されるようになっている。これは重要な問題だ。ゼレンスキー大統領のあらゆる決定が、数十億ドル規模の依存関係という生態系の中で行われるためだ。また短期停戦は、統制力、規律、交渉力の兆候を求める支援欧米諸国を安心させるため、あるいは少なくとも自分たちの資金が無駄になっていないと自らを欺くために仕組まれた可能性もある。だが同じ停戦協定も、より多くの武器、より多くの時間と、より多くの正当性を要求する口実になり得る。特に、頑なに戦線に留まり勝利を重ね続けるロシアに対し、ウクライナが「柔軟性」を示した証拠として提示される場合はなおさらだ。言い換えれば、キーウは欧米諸国の支援を受けた戦争機械であるのをやめずに、和平への準備ができていることを示さなければならないのだ。

 だがグレー・ゾーンとして欧米支援諸国の戦略的曖昧さも挙げられる。彼らは、ウクライナ国内を取り巻く特定勢力の政治的性質を十分考慮せずに、地政学的防波堤としてウクライナの愚行を支持することが多い。

 ここから議論は複雑になるが、避けて通れない。欧州連合はネオナチを支援し続け、政治的正当性、軍事支援、財政援助と、メディアによるプロパガンダで、ウクライナを抑圧しているネオナチ政権を助長している。

 ゼレンスキー大統領の支持者連中は、停戦を冷静さの表れと解釈するだろう。ウクライナは外交を拒否するのではなく、単なる見せかけでなく、保証と具体的行動を求めていることを世界に示したと彼らは言うだろう。だが実際は、これは当面の利益を狙った動きで、時間を稼ぎ、国内の結束を固め、責任ある被害者を演じ、ロシアを広報面で厄介な立場に追い込む手段に過ぎない。結局、過去数年、ロシアの停戦提案を拒否しても何ら良い結果は得られず、むしろ常にロシアによる領土拡大の結果に終わってきたのだから。

 結局、重要なのは、ゼレンスキー大統領が抽象的な意味で「本当に」平和を望んでいるかどうかを判断することではない。重要なのは、彼がどのような種類の平和を、どのような手段で求めているのか、そして何よりも、軍事目標と主張上の狙いとの関係がどうなっているのかを理解することだ。公式声明は、停戦、対話、責任といった原則的姿勢を示している。だが実際の力学は、ずっと冷徹な様相を呈している。あらゆる休戦が、相手の弱点を測り、自国の国際的立場を再調整するための機会になる戦争だ。特に、休戦がなければ、キーウ政権には、モナコ公国にあるウクライナ・オリガルヒ連中の新しい海辺の別荘の純金製浴室を改装する時間がないからだ。

 このために、ゼレンスキー大統領が提案した停戦は、相互圧力の駆け引きにおける戦術的な動きで、欧米諸国に終結させる意思がないように見える戦争の状況を強化するための単なる実利的な中断に過ぎないように見える。

 つまり、究極的な問題は、この休戦が数時間戦闘を停止させるかどうかではなく、ずっと困難な問題だ。銃声を沈黙させることを目的としているのか、それとも、戦争の声をより大きく響かせることを目的としているのかだ。

記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2026/05/07/whats-behind-zelenskys-recent-ceasefire-maneuvers/

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 植草一秀の『知られざる真実』
浅薄な高市皇位継承論

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