In Deepさんのサイトより
https://indeep.jp/egregor-and-the-history-of-human-thought/
<転載開始>


indeep.jp

[※ 筆者注] 今回の記事は、何の考えもなく書き進めていましたら、本当に訳のわからないものとなってしまいました。何のためになる情報も含まれない記事であることを最初に記しておきます。 oka

思考や意志は人間が作り出しているものではない

最近、ヘザー・リン博士という方の(どなたか、よく知らないですが)風変わりな文章を読みました。

タイトルは、

「世界の指導者たちは悪魔に取り憑かれているのか? 悪魔転移の古代技術」

というもので、これだけ読むとオカルトかミステリーの世界の話と思われると思いますが、これが何とも難解で、よくわからない。それと共にインターネット上に 1ページで投稿する記事としては、論文並みに長く、小冊子 1冊くらいの文字量がある文章です。

そんなわけで、全体の要旨はよく理解できないままですが、以下の下りがわりと気になったのですね。

抜粋の割には長いですが、本文はこの何倍もあります。


『神が宿主を食らうとき』

ローマ皇帝カリグラは狂人として記憶されている。彼は自らをユピテル(ローマ神話の主神)の化身と宣言し、神と対話した。自分の宮殿とユピテル神殿の間に橋を架け、「兄弟」であるユピテルを訪ねた。

衝動的に市民を処刑し、ローマ人の感性さえも恐怖に陥れるような性的な振る舞いをし、生きた神として崇拝を要求した。

ネロも同じ道を辿った。彼の治世初期は有能で、称賛さえされた。その後、個人的アイデンティティが徐々に役割に溶け込んでいった。殺人。誇大妄想。統治に取って代わるパフォーマンス。ローマは炎上した。彼は歌った。

一般的な説明は狂気である。しかし、古代の説明はより具体的だった。

スイスの精神分析医カール・ユングは、これを「精神的膨張」と呼んだ。これは、自我が元型的なエネルギーと完全に同一化し、そのエネルギーを操るのではなく、自分がその力であると信じ込むときに起こる現象を説明する

彼らはその力の道具となる。自分の意志とその勢いを区別する能力を失う。人格は消耗する。残ったものは人間のように見え、役職に就き、演説をする。もはや操縦はしていない。

ユングは比喩的に言っていたのではない。彼は神々が擬人化された精神的力であると観察した。これは意識の構造に関する技術的な記述だ。

これらの力のいずれかが人を支配すると、症状はハリウッドが期待するように教えたものだけに限られない。頭がぐるぐる回ったり、エンドウ豆のスープを吐いたり、空中浮揚したりすることはない (※ これは、おそらく映画エクソシストのシーンを述べていて、悪魔に取り憑かれた一般的なイメージを記しているのだと思われます)

兆候はもっと微妙だ。一つの考えに強迫的に固執し、反対意見を聞き入れることができず、誇大妄想をビジョンと勘違いし、個人的な判断が徐々にイデオロギー的強迫観念に置き換えられていく

記者会見を見れば、症状がわかるだろう。

 

アイデアが人間を所有している

ギリシャ語の idea は「見る」という意味の idein に由来する。紀元前4世紀に執筆したアテネの哲学者プラトンの体系では、アイデア(イデア)は人間が生み出すものではない。それらは個々の精神とは独立して存在する自律的な現実だ。

人間がアイデアを生み出すのではなく、アイデアに参加するのだ。理念こそが根源的な現実であり、人間はその器なのだ

プラトンは憑依を哲学的な言葉で表現していた。

ユングも臨床観察を通して同じ結論に達した。彼は、人間がコンプレックスを持つのではなく、コンプレックスが人間を持つのだと書いた。

コンプレックスとは、個人を支配し、その個人を通して作用する自律的な精神的内容だ。人は自分の思考が自分自身のものだと信じ込んでいるが、実際にはコンプレックスが代わりに考えているのだ

オカルトの伝統では、このプロセスには名前が付けられている。

それは「エグレゴア」と呼ばれる。

集団の持続的な集中的注意によって生み出される集合的な思考形態。政治運動、企業、宗教団体などが、共通のシンボルやイデオロギーを中心に十分な感情的・知的エネルギーを集中させると、その集中によって自律的な存在のように機能する何かが生まれる。

それは信念を糧とし、強度が増すにつれて強くなる。そして、それを養う人々に反作用し始め、彼らの認識を形成し、思考を狭め、言語を均質化していく

The H Files


ここまでです。

わかりやすいとはいえないですが、プラトンの、

> アイデアは人間が生み出すものではない。それらは個々の精神とは独立して存在する自律的な現実だ。

とか、ユングの、

> 人間がコンプレックスを持つのではなく、コンプレックスが人間を持つ

というあたりに興味を持ちます。

そして、これはもちろん、「アイディア」や「コンプレックス」という存在がもともと自立して存在しているということではなく (独立して存在している可能性を後で知りますが)、

「集団の持続的な集中的注意によって生み出される集合的な思考形態」

の中に現れてくるのだろうということらしいですが、しかし、それはどこから生まれる? と興味を持った次第です。

それが、

「エグレゴア」

という概念なのだそうですが、初めて聞く言葉です。

日本には「社会の空気」というものが存在していることが昔から言われます。

それを先鋭的に述べていた著作のひとつとして、作家の山本七平さんの『「空気」の研究』 (1977年)などがありますが、その「空気」と神秘的概念の「エグレゴア」に共通する部分があるかどうかはわからないにしても、概念はともかく、

「人間は誰でも自分の意志や意識を自分で作り出している」

と考えているかもしれないですが、

「自分で作り出しているのではないかもしれない」

ということの話でもあるようです。

それにしても、この「エグレゴア」。本当に捉えどころがないほど曖昧で難解な概念で、辞書的にひとことでいえば、

エグレゴアとは、西洋の秘教における概念で、特定の個人の集団の集合的な思考や感情から生じる非物質的な存在または思考形態であるEgregore

となるのですが、これだけではよくわからない。

ちょっと書かれてあるところからピックアップしてみますね。

 

エグレゴアとは結局、何か

まず最初に、エグレゴアとは「聖書で記述される天使(監視者 / ウォッチャーという天使)」だという主張の紹介から始まります。

エチオピア正教会における旧約聖書の 1つである『エノク書』で語られる天使的存在だといういくつかの文学作品が示されます。

小説『サラゴサで発見された写本』(18世紀末)

ヤン・ポトツキの小説『サラゴサで発見された写本』では、エグレゴアを「堕天使の中で最も輝かしい存在」と呼んでいる。

この「監視者」という天使的存在は、『エノク書』によれば、人類を監視し導くために天から遣わされた天使たちのことで、しかし、彼らは人間の女性の美しさに魅了されて堕天し、禁断の知識を伝授したことで、神の怒りを買い地上に災厄をもたらす元凶となった存在とのこと。

しかし、この堕天使の話と、エグレゴアの概念である、

> 特定の個人の集団の集合的な思考や感情から生じる非物質的な存在または思考形態である。

と、何がどう関係するというのか。

他にも、数々の主張が英語版 Wikipedia には示されているのですが、むしろ読めば読むほどわからなくなりますので、「現代のオカルトや魔術思想において」というセクションまで飛ばしました。

まず、1980年に発表された『タロットについての瞑想』 (著者は匿名)というキリスト教の秘教書が紹介されます。そこでは以下のように見なされていると書かれてあります。

『タロットについての瞑想』では、反キリストを「集合的な下からの生成によって存在を負う人工的な存在であるエグレゴア」と表現している。また、本書ではエグレゴアを「国家の集合的な意志と想像力によって生み出された悪魔」と呼んでいる。

20世紀フランスのオカルティズム研究家ロベール・アンベランは、エグレゴアを「強力な霊的潮流によって生成され、宇宙の普遍的な生命と調和したリズム、あるいは共通の特性によって結びついた存在の結合に従って、一定の間隔で養われる力」と定義している。

『タロット瞑想』の著者は、アンベランのこの一節を「これ以上望むものはない定義」と評しているEgregore

…わからん。この人たちは何を言っているのだろう。

どうでもいいですが、この『タロットについての瞑想』という本は読んでみたいですね。私は十代の頃にタロットを少しやっていたことがあり、ただ、いろいろ怖くなって、やめて。

それ以来はカードにふれていませんが、こういう本もあるのですね。アマゾンを見ると、英語版はありましたけれど、オカルティズム書の英語版はほとんど単語がわかんないのだろうなあ…。

それはともかく、さらに、カオス魔術理論の創始者であるピーター・J・キャロルという人の著作から引用されます。

…ってか、「カオス魔術 」って何だ? とも思いましたが、ここで足止めをくらっている場合ではないので進めます。

ピーター・J・キャロルの著作『Liber Null & Psychonaut』より

宗教は、意識が有機生命に先行したという見解をとる。物質生命が発達する前に、神々、天使の力、巨人、悪魔が舞台を整えていたとされている。

科学は反対の見解をとり、意識現象が現れる前に多くの有機的進化が起こったと考えている。

意識そのものの質に重点を置く魔術は、別の見解をとり、有機的形態と精神的形態は同期して進化すると結論づけている。有機的発達が起こると、精神的場が生成され、それが有機的形態にフィードバックされる。

したがって、それぞれの生物種は独自の精神的形態または魔術的本質を持っている。これらのエグレゴアは、時折、存在として感じられたり、監視している種の形で垣間見られたりすることさえある。

なるほど。ようやく少しわかってきた。

エグレゴアの概念である「特定の個人の集団の集合的な思考や感情から生じる非物質的な存在または思考形態」というのは、

「物質的な人類の発達と平行して意識が進化してきた」

と。

宗教的には、物理的な人類が登場する以前より意識や思考は存在していたと。人間の集団的な思考形態は、人間がこの地球に誕生したから芽生えたのではなく、「それより以前に、神々、天使の力、悪魔などにより整えられていた」と。

それで、エノク書の「天使的存在」だったり、最初に引用したヘザー・リン博士との記事のタイトルに「悪魔」と出てきたりするわけか…と、漠然と思った次第でした。

このピーター・J・キャロルというカオス魔術理論の方の著作には、以下のような下りもあるのだそう。

人間のエグレゴアを認識した者は、通常それを神と表現する。魔術師は、この世界のすべての生命は、大母神、アニマ・ムンディ、大アルコン、悪魔、パン、バフォメットなどと様々に呼ばれてきた巨大な複合エグレゴアに貢献し、それに依存していると考えている。

「アニマ・ムンディって何だ?」と思いましたが、これは、

> ラテン語で「世界霊魂」「宇宙霊魂」を意味する哲学用語。「世界全体がひとつの生命体であり、すべての存在が魂で繋がっている」という考え方。 Anima Mundi

だそうデス。

さらに、フラテル・テネブリスという作家なのかどうかも不明ですが、その人の著作には以下のように、「エグレゴアはユングの言う元型と似たエネルギーの流れ」と書かれているそう。

フラテル・テネブリス『The Philosophy of Dark Paganism』 (2022年)では、エグレゴアを「元型論」の文脈で言及している。この見解では、「さまざまな神々」を「カール・ユングの元型に似た心理構造、あるいは擬人化された宇宙に存在する神秘的なエネルギーのさまざまな流れ」と理解している。「一部の元型論者は、神々を何世代にもわたる信者による崇拝と祈りから創造された思考形態とみなしている」と指摘した。

「神々という存在は、人々の元型から生まれた思考形態」

と述べていますね。

神は人間の思考形態であると。

エグレゴアが、物理的な人間が地球に登場する以前から存在していたエネルギーだとしても、そうでなかったとしても、人間が登場してからは、今度は、時間の経過と共に、人類の思考形態として、新たなエグレゴアが新たなエネルギーの流れとなる、ということになるのでしょうかね。

神がエグレゴアを作り、その後、人間がエグレゴアから神々を作り出すというような?

ちなみに、「元型」という単語が何度か出てきますが、元型は辞書的には以下のようなものです。

> 集合的無意識の領域にあって、神話・伝説・夢などに、時代や地域を超えて繰り返し類似する像・象徴などを表出する心的構造。

ユングの言う元型については、以前、何度か記事で取りあげたことがあります。

比較的最近のものは以下のような記事です。

「憎しみや恐怖は完全な幻想」だという元型心理学者の主張を読んで
In Deep 2024年12月17日

 

完全には理解していないままに、エグレゴアを調べていましたけれど、今回知ったことは、まあ、ちょっと違うのかもしれないですが、

「人間はいかなる時代、いかなる状況でも、エグレゴアと呼ばれるような一種の「空気」に支配されている」

のであり、

「自分は自主的に考えているというのは思い込みに過ぎない」

ということ「かもしれない」ということでした。

時代時代に応じて、人はその時代の感情の流れに見事に飲み込まれやすいですし、私たちは、最近では 2020年のパンデミックに、それを実感しています。

これから世の中が厳しくなっていくとするならば、私たちの中には、さまざまな意志や思考形態が次々と生じていくのでしょうけれど、先ほど引用したいくつかのオカルティストたちが言うように、

「その思考形態は悪魔が導いているものかもしれないし、天使的存在が導いているものかもしれない」

というようなことを考えて自覚するのは、興味深い生き方のようにも思えます。

私自身は、比較的「周囲に流されない人間だろう」などと高飛車に考えることがありましたけれど、「何らかの事態」が終わってみれば、集団的な思考からまったく離れられていなかったことを常に理解します。思考の流れは同じなんです。そこに抗うか抗わないかというだけの違いです。

元型的なエネルギーの流れから逃れるのは、人間には難しいのかもしれません。

それにしても、昨年連載していたボー・イン・ラー師の『あの世についての書』(全8回)では、「死後も意志は永遠に続く」というようなことを彼は述べていたのですけれど、

「思考も続くのかもしれないな」

と思ったりもしました。

死後も生きている時と同じように意志を持ち、同じように思考するという意味では、特に何も変わらないのかもしれません。

何だかよくわからない記事となってしまいました。


<転載終了>