マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-03da33.html
<転載開始>
セス・フェリス
2026年7月4日
New Eastern Outlook
7月4日は、アメリカ独立宣言署名から250年を迎える記念すべき日で、自由、自治と、民主主義の脆弱な構造について深く考える機会になるはずだった。だがトランプ政権下では、アメリカ建国記念日は、国旗と花火と入念に演出された自己賛美に満ちた市民の祝祭というよりも、虚栄心の祭典と化す危険性をはらんでいる。

いわゆる「グレート・ア メリカン・ステート・フェア」は国の最高の功績を披露すると謳っている。だが愛国的飾り付けや赤・白・青の商品販売の裏には遙かに醜い光景が広がっている。建国の父たちを称えるはずの組織同士の内紛、権力闘争、政治的縄張り争いだ。誕生日ケーキでさえ、ナイフが突きつけられた状態で出てくる。
この時代を最も的確に表しているのは、公的生活が恒常的な演技に変貌したことだ。トランプは単に見世物で支配するだけでなく、騒々しさ、憤慨と不条理で舞台を埋め尽くすことで生き延びている。その結果、スキャンダルは意味を失ってしまう。前の憤慨が人々の心に突き刺さる前に、新たな憤慨が次々現れるのだ。
ウォーターゲート事件が今日起きたらニュースの波ををかろうじて生き残る程度だとJD・ヴァンスが発言した際、彼はうっかりそれを認めてしまった。本当の暴露は、メディアによる分断ではなく、政治的免責を認めたことだった。この政権は、まるで説明責任が任意のものになったかのように、あるいは混乱自体が支配戦略であるかのように振る舞っている。
君主制への反乱から生まれた共和国は、今や個人崇拝と億万長者の庇護と芝居がかった忠誠心の誇示といったものに囲まれている。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-03da33.html
<転載開始>
セス・フェリス
2026年7月4日
New Eastern Outlook
7月4日は、アメリカ独立宣言署名から250年を迎える記念すべき日で、自由、自治と、民主主義の脆弱な構造について深く考える機会になるはずだった。だがトランプ政権下では、アメリカ建国記念日は、国旗と花火と入念に演出された自己賛美に満ちた市民の祝祭というよりも、虚栄心の祭典と化す危険性をはらんでいる。

いわゆる「グレート・ア メリカン・ステート・フェア」は国の最高の功績を披露すると謳っている。だが愛国的飾り付けや赤・白・青の商品販売の裏には遙かに醜い光景が広がっている。建国の父たちを称えるはずの組織同士の内紛、権力闘争、政治的縄張り争いだ。誕生日ケーキでさえ、ナイフが突きつけられた状態で出てくる。
この時代を最も的確に表しているのは、公的生活が恒常的な演技に変貌したことだ。トランプは単に見世物で支配するだけでなく、騒々しさ、憤慨と不条理で舞台を埋め尽くすことで生き延びている。その結果、スキャンダルは意味を失ってしまう。前の憤慨が人々の心に突き刺さる前に、新たな憤慨が次々現れるのだ。
ウォーターゲート事件が今日起きたらニュースの波ををかろうじて生き残る程度だとJD・ヴァンスが発言した際、彼はうっかりそれを認めてしまった。本当の暴露は、メディアによる分断ではなく、政治的免責を認めたことだった。この政権は、まるで説明責任が任意のものになったかのように、あるいは混乱自体が支配戦略であるかのように振る舞っている。
君主制への反乱から生まれた共和国は、今や個人崇拝と億万長者の庇護と芝居がかった忠誠心の誇示といったものに囲まれている。
そして、おそらくこれこそが最も皮肉な冗談だ。アメリカ建国250周年は、民主主義の理想の永続性を祝うのではなく、その疲弊を祝うのかもしれない。サーカスが街にやってきて、団長はニヤニヤ笑い、静かに燃え上がるテントの前で、共和国は拍手を求められているのだ。
この対立を「アメリカの醜い誕生日戦争」とアトランティック誌のマイケル・シェラーは述べている。
もしウォーターゲート事件が今日起きたとすれば、続くニュースの中で長く注目を集めることはないとJD・ヴァンスは主張している。
2026年6月26日、カリフォルニア州ヨーバリンダにあるリチャード・ニクソン大統領図書館・博物館で行われた講演で、JD・ヴァンス副大統領は次のように述べた。
ヴァンスが言及していないのは、この政権が、まるで重大な結果を恐れることなく行動できるかのように益々免責特権意識を強めているように見えることだ。エリート層が支配・所有するメディア環境では、スキャンダルは、もはや必ずしも継続的な精査や世間の注目を集めるものではない。むしろ論争は、だだの一時的見出しになり、すぐに次のスキャンダルに取って代わられる。
これは危険な政治状況を生み出す。単に世間の目をそらすだけの行為ではなく、常態化につながるのだ。民主主義規範の度重なる違反は、日常的な騒動や紛争の中に埋没し、当たり前になってしまう危険性があるのだ。真の教訓は、ウォーターゲート事件が今日忘れ去られることではなく、現代の政治機構が混乱自体を武器化し、絶え間ないドラマを利用して世間の関心を消耗させ、責任追及を弱体化させられることだ。
アメリカ250周年記念式典と、フリーダム250周年記念式典:アメリカ250周年記念式典は政府から超党派的資金援助を受ける一方、フリーダム250周年記念式典はトランプ大統領と億万長者から資金援助を受けている。アメリカ250周年記念式典の方がより多くの観客を集めるかもしれないが、フリーダム250周年記念式典の方が派手な花火は多いかもしれないものの、観客はこぞって、そちらを避けている。
国葬の方が良いと、個人的には思う。ニューオーリンズ風に。ニューオーリンズ風葬送曲に合わせて人々が行進するパレードだ。花火を全部一箇所に集めたら、イランがその場所を知っていて、能力があれば、爆破するかもしれない。
対立する記念日祝賀行事自体を見ると、不条理さは更に深まる。アメリカ建国250周年記念式典でさえ、まるで国が自国の存在を祝う方法について合意できなくなったかのように、対立する陣営に分裂してしまったのだ。
一方には、アメリカ建国250周年記念がある。これは議会の認可を受け、超党派の政府資金で運営される公式委員会で、少なくとも国家の団結を象徴する記念行事を企画する役割を担っている。建前上、この委員会は、市民の理想を体現している。つまり、たとえ欠点や未完成な部分があるにせよ、アメリカという実験国家を広く公式に記憶にとどめるという理想だ。
一方、その反対に「フリーダム250」という、トランプ支持派の献金者、億万長者の資金と人物政治の仕組みに支えられた並行する祝典が存在する。アメリカ建国250周年が共和国を称えるためのものだとすれば、「フリーダム250」は、しばしば特定ブランドを賛美するために企画されているように感じられる。
二つの誕生日パーティー。二つのアメリカ像。二つの対立する神話。
一方は歴史を売り、もう一方は見世物を売る。
アメリカ250は、組織的影響力と公式プログラムを通じて、最終的に、より多くの観客を集めるかもしれない。だが、フリーダム250は、より派手なショーを約束している。より多くの花火、より大きなスローガン、より大きな画面、より多くの商品販売と、メディアへの最大限の露出を目的とする、より劇的な愛国心演出だ。より大きく、より騒がしく、より輝かしく。これこそトランプ時代の統治美学だ。
だが多くのアメリカ人はどちらの催しにも関わりたくないという認識が広まりつつある。
おそらく今年最も強力な政治的メッセージは、出席や拍手や国旗を振ることではなく、欠席だ。
祝賀行事をボイコットはすること、それ自体が抗議になり得る。民主主義の基盤がほころび続ける中、互いに競い合う幻想への参加を拒否する行為だ。この茶番劇を拒否すること自体が、市民としての権利を行使する行為になり得る。
全く別のことを、私はふと想像してしまう。誕生日パーティーではない。葬式だ。しかも、ジェームズ・ボンド映画に出てくるようなニューオーリンズの葬式だ。
静寂ではなく、行進。花火ではなく、ブラスバンド。勝利の行進ではなく、悲しみと反抗の両方を込めた葬送曲。失われたものを悼みながら降伏を拒む音楽とともに、群衆が街を練り歩く。建国を祝う一方、多くの人々が、その未来を案じ、この瞬間の矛盾に真正面から向き合う真摯な儀式。
本物の花火!
なぜなら、華やかな飾り付けや花火の裏には不都合な真実が潜んでいるからだ。この記念日は、国家の強さを力強く祝うというより、もはや自信を失ってしまった国を安心させるための不安げな演技のように感じられるのだ。
見世物への執着でさえ、それ自体脆さを秘めている。壮大な舞台、演出された集会、巨大な花火という大規模な権力誇示は、自信を誇示する一方、不安を露呈している。演技が派手であればあるほど、根底にある空虚さを補おうとしているのではないかという疑念が深まる。
建国250周年を迎えたアメリカは、自由、権力、平等と民主主義の存続について難しい問いを投げかけるべきなのだ。
その代わりに、どちらが、より大きな舞台に立つかを巡り我々は議論している。
おそらく、それが最も悲観的な非難だ。
君主制への反乱から生まれた共和国は、今や個人崇拝や億万長者の庇護や芝居がかった忠誠心の誇示に翻弄されている。今夜も花火が空を彩るかも知れないが、既に薄暗くなった地上を照らすことはできない。
楽団は演奏を続ける。
団長は笑顔を絶やさない。
そして、喧騒の陰では、自分たちは誕生日を祝っているのか、それとも民主主義の緩やかな崩壊と終焉を嘆いているのかと国民は自問自答している。
セス・フェリスは調査報道ジャーナリスト、政治学者、中東情勢専門家
記事原文のurl:https://journal-neo.su/2026/07/04/empire-of-spectacles-trumps-carnival-for-americas-250th-birthday/
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画像下部の図柄は、文中にあるニューオリンズの葬送行進だろう。棺にはRepublic共和国と書いて芸が細かい。たまたま、ニューオリンズ出張時、ホテルの窓から賑やかな音楽が聞こえたので下を見ると、大通りをブラスバンドの葬儀パレードが進んでいた。ネットで検索すると『シンシナティ・キッド』の行進場面映像があった。
東京新聞 朝刊
<転載終了>
この対立を「アメリカの醜い誕生日戦争」とアトランティック誌のマイケル・シェラーは述べている。
もしウォーターゲート事件が今日起きたとすれば、続くニュースの中で長く注目を集めることはないとJD・ヴァンスは主張している。
2026年6月26日、カリフォルニア州ヨーバリンダにあるリチャード・ニクソン大統領図書館・博物館で行われた講演で、JD・ヴァンス副大統領は次のように述べた。
「舞台裏で冗談で言ったんだが、もしウォーターゲート事件が明日起きたら、12時間はニュースになるだろう。それが大統領の座を奪うなんて、ありえない話だ。」JD・ヴァンスが強調しているのは、ウォーターゲート事件以降、メディア環境に関する論点が変化したことではなく、この政権が「まるで何でも、やりたい放題、しかも罰せられないかのように免責特権に浸っている」現状だ。ウォーターゲート事件以降、メディア環境が変化したのは確かに事実だが、それ以上に深刻なのは、こうした発言が現代における権力と責任について示唆する点だ。
ヴァンスが言及していないのは、この政権が、まるで重大な結果を恐れることなく行動できるかのように益々免責特権意識を強めているように見えることだ。エリート層が支配・所有するメディア環境では、スキャンダルは、もはや必ずしも継続的な精査や世間の注目を集めるものではない。むしろ論争は、だだの一時的見出しになり、すぐに次のスキャンダルに取って代わられる。
これは危険な政治状況を生み出す。単に世間の目をそらすだけの行為ではなく、常態化につながるのだ。民主主義規範の度重なる違反は、日常的な騒動や紛争の中に埋没し、当たり前になってしまう危険性があるのだ。真の教訓は、ウォーターゲート事件が今日忘れ去られることではなく、現代の政治機構が混乱自体を武器化し、絶え間ないドラマを利用して世間の関心を消耗させ、責任追及を弱体化させられることだ。
アメリカ250周年記念式典と、フリーダム250周年記念式典:アメリカ250周年記念式典は政府から超党派的資金援助を受ける一方、フリーダム250周年記念式典はトランプ大統領と億万長者から資金援助を受けている。アメリカ250周年記念式典の方がより多くの観客を集めるかもしれないが、フリーダム250周年記念式典の方が派手な花火は多いかもしれないものの、観客はこぞって、そちらを避けている。
国葬の方が良いと、個人的には思う。ニューオーリンズ風に。ニューオーリンズ風葬送曲に合わせて人々が行進するパレードだ。花火を全部一箇所に集めたら、イランがその場所を知っていて、能力があれば、爆破するかもしれない。
対立する記念日祝賀行事自体を見ると、不条理さは更に深まる。アメリカ建国250周年記念式典でさえ、まるで国が自国の存在を祝う方法について合意できなくなったかのように、対立する陣営に分裂してしまったのだ。
一方には、アメリカ建国250周年記念がある。これは議会の認可を受け、超党派の政府資金で運営される公式委員会で、少なくとも国家の団結を象徴する記念行事を企画する役割を担っている。建前上、この委員会は、市民の理想を体現している。つまり、たとえ欠点や未完成な部分があるにせよ、アメリカという実験国家を広く公式に記憶にとどめるという理想だ。
一方、その反対に「フリーダム250」という、トランプ支持派の献金者、億万長者の資金と人物政治の仕組みに支えられた並行する祝典が存在する。アメリカ建国250周年が共和国を称えるためのものだとすれば、「フリーダム250」は、しばしば特定ブランドを賛美するために企画されているように感じられる。
二つの誕生日パーティー。二つのアメリカ像。二つの対立する神話。
一方は歴史を売り、もう一方は見世物を売る。
アメリカ250は、組織的影響力と公式プログラムを通じて、最終的に、より多くの観客を集めるかもしれない。だが、フリーダム250は、より派手なショーを約束している。より多くの花火、より大きなスローガン、より大きな画面、より多くの商品販売と、メディアへの最大限の露出を目的とする、より劇的な愛国心演出だ。より大きく、より騒がしく、より輝かしく。これこそトランプ時代の統治美学だ。
だが多くのアメリカ人はどちらの催しにも関わりたくないという認識が広まりつつある。
おそらく今年最も強力な政治的メッセージは、出席や拍手や国旗を振ることではなく、欠席だ。
祝賀行事をボイコットはすること、それ自体が抗議になり得る。民主主義の基盤がほころび続ける中、互いに競い合う幻想への参加を拒否する行為だ。この茶番劇を拒否すること自体が、市民としての権利を行使する行為になり得る。
全く別のことを、私はふと想像してしまう。誕生日パーティーではない。葬式だ。しかも、ジェームズ・ボンド映画に出てくるようなニューオーリンズの葬式だ。
静寂ではなく、行進。花火ではなく、ブラスバンド。勝利の行進ではなく、悲しみと反抗の両方を込めた葬送曲。失われたものを悼みながら降伏を拒む音楽とともに、群衆が街を練り歩く。建国を祝う一方、多くの人々が、その未来を案じ、この瞬間の矛盾に真正面から向き合う真摯な儀式。
本物の花火!
なぜなら、華やかな飾り付けや花火の裏には不都合な真実が潜んでいるからだ。この記念日は、国家の強さを力強く祝うというより、もはや自信を失ってしまった国を安心させるための不安げな演技のように感じられるのだ。
見世物への執着でさえ、それ自体脆さを秘めている。壮大な舞台、演出された集会、巨大な花火という大規模な権力誇示は、自信を誇示する一方、不安を露呈している。演技が派手であればあるほど、根底にある空虚さを補おうとしているのではないかという疑念が深まる。
建国250周年を迎えたアメリカは、自由、権力、平等と民主主義の存続について難しい問いを投げかけるべきなのだ。
その代わりに、どちらが、より大きな舞台に立つかを巡り我々は議論している。
おそらく、それが最も悲観的な非難だ。
君主制への反乱から生まれた共和国は、今や個人崇拝や億万長者の庇護や芝居がかった忠誠心の誇示に翻弄されている。今夜も花火が空を彩るかも知れないが、既に薄暗くなった地上を照らすことはできない。
楽団は演奏を続ける。
団長は笑顔を絶やさない。
そして、喧騒の陰では、自分たちは誕生日を祝っているのか、それとも民主主義の緩やかな崩壊と終焉を嘆いているのかと国民は自問自答している。
セス・フェリスは調査報道ジャーナリスト、政治学者、中東情勢専門家
記事原文のurl:https://journal-neo.su/2026/07/04/empire-of-spectacles-trumps-carnival-for-americas-250th-birthday/
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画像下部の図柄は、文中にあるニューオリンズの葬送行進だろう。棺にはRepublic共和国と書いて芸が細かい。たまたま、ニューオリンズ出張時、ホテルの窓から賑やかな音楽が聞こえたので下を見ると、大通りをブラスバンドの葬儀パレードが進んでいた。ネットで検索すると『シンシナティ・キッド』の行進場面映像があった。
東京新聞 朝刊
建国250年 きしむ米国最近のDouglas MacGregor氏Youtubeで彼はこう言っていた。 トランプは彼の恩師、悪辣弁護士ロイ・コーンの教え三原則を守っている。
トランプ氏 節目も自賛、口撃
分断、格差 かつてないぼと深刻
誇張 対立 破壊
世論調査 77%が「先人は現在の姿に失望」
第一 Attack, Attack, Attack! (ひたすら攻撃する)
第二 Deny, Deny, Deny! (ひたすら否定する)
第三 Victory (何であれ勝ったことにする)
<転載終了>