マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-bd8497.html
<転載開始>
フィル・バトラー
2026年7月6日
New Eastern Outlook

 政策によって支配する国もあれば、見せかけによって支配する国もあるが、いずれ自らの神話に囚われてしまう国もある。



 2026年の夏までに、失敗の原因が、拙劣な判断、誤った前提、あるいは単純な人的ミスでない世界を築こうとトランプ政権は益々固く決意しているように見えた。あらゆる失望には敵が必要で、あらゆる恥辱には陰謀が求められ、あらゆる失敗には必ずどこか別のところを指し示す説明が伴った。政敵、妨害する官僚、敵対的裁判官、不忠な役人、外国勢力、活動家ネットワークや影の敵は、責任は常に外部にあり、説明責任が永遠に手の届かない物語の世界で繰り返し登場する登場人物になった。

 国家は多くのことで自らを納得させられる。批判は反逆行為だ、反対者は破壊工作員だ、あるいはあらゆる挫折は自らの手の及ばないところから生じているのだと自らに納得させられる。だが、化学に、その法則を停止させるよう説得することはできない。

 このような世界観の危険性は、単に政治的なものではなく、存亡に関わるものだ。国家は過ちを乗り越えられる。無能な指導者、失敗したプロジェクト、誤った政策にも耐えられる。だが現実そのものを徐々に放棄していくことには耐えられない。組織が無能と妨害行為、誤りと迫害を区別する能力を失うと、学習し、適応し、軌道修正するための仕組み自体を放棄してしまうのだ。

 だからこそ、リンカーン記念堂の反射池を巡る論争は、奇妙なほど多くのことを物語っているのだ。一見すると、藻の大量発生、ペンキの剥がれ、ワシントンの高額な改修工事といった些細な出来事に見える。だが実際には、現代アメリカの政治支配を特徴づける、より広範な政治的習慣をほぼ完璧に縮図化した事例と言える。化学、工学と維持管理によって解決されるごく普通の問題に直面した政治指導者たちは、本能的に悪役が登場する物語に飛びついたのだ。だが証拠は、遙かに劇的でなく、遙かに教訓的なものを示している。公共事業が物理世界の頑固な現実と衝突した、まさにその出来事だ。
 池とペンキと藻

 論争は、改修されたばかりの反射池が一般公開されて間もなく始まった。記念堂の視覚的美しさを高めるため鮮やかな青色塗料を塗布したこのプロジェクトは、早速、藻の異常繁殖という予期せぬ問題に直面した。水面に緑色の変色が現れ、保守チームが派遣され、当局は池の外観を回復させる方法を模索し始めた。

 第一級浄水処理作業者の資格を持つ者として、その後の議論の多くが、水管理の基本原則からかけ離れているように感じた。藻の発生は政治的現象ではなく、生物学的現象だ。日光、栄養分、高温と、不十分な循環が重なると、藻は自然が意図したとおりに増殖する。この論争で最も驚くべき点は、藻が発生したことではなく、当局者が藻の発生に驚いたように見えたことだ。

 改修工事に関する報告によると、以前の操業で使用されていたろ過装置が、設計変更の際、撤去または大幅に変更されたとのことだ。この決定だけが今回の感染症発生の原因だったかどうかは技術者が判断すべき問題だが、根本的原則は明白だ。十分な循環やろ過が行われていない浅く日当たりの良い水域は、自然に対して優位な立場から立ち向かっているのではなく、自然に支配されるようにしているに過ぎない。

 水処理の上で、藻類が藻類らしく振る舞うのを藻類のせいにするのは、落石を重力のせいにするのと同じようなものだ。破壊活動家や施設破壊者や隠れた敵を探す前に、システム設計の基本を検証するのが賢明だ。水は弱い部分を露呈させる性質があり、生物学は更に容赦がない。藻類の生育条件が整えば藻類は生育する。政治的言説や広報活動や、施設管理責任者の評判など藻類は気にしない。

 国立公園局は、過酸化水素処理や生物の増殖を抑制するオゾン装置など、一連の藻類抑制対策で対応した。こうした処理は水管理で珍しいものではない。過酸化水素は強力な酸化剤で、有機物を分解して最終的に水と酸素に分解するため、藻類の大量発生対策によく使われる。理論的には、益々目立つようになってきた問題に対する単純な解決策になるはずだった。だが実際には、事態は遙かに複雑なものになった。

 処理開始後まもなく、新たに塗布されたコーティングの一部が壁面から剥がれ始めた。表面仕上げの著しい劣化を指摘する報告が相次ぎ、コーティングの塗布方法が不適切だったのか、環境条件が十分に考慮されていなかったのか、あるいは化学処理によってシステム内部に既に存在していた弱点が悪化したのかといった疑問が生じた。技術者や保守専門家は、考えられる原因をいくつも挙げたが、その多くはごくありふれたもので、世界中の建設プロジェクトでよく見られる問題と一致するものだった。

 だが、ありふれた説明がニュースになることはめったにない。間もなく、議論は保守作業の実態から、破壊行為や妨害行為の疑惑に移った。正体不明の人物がプールを損傷させたり、有害な化学物質を投入したり、改修作業を意図的に妨害したりしたと公式声明で示唆された。物語は、技術的失敗から、悪意ある妨害へと進展し、技術問題が政治ドラマに変貌した。

 この件最大の皮肉は、池の劣化を引き起こした力が政治的発言に全く無関係なことだ。過酸化水素は党派を区別しない。藻の大量発生は世論調査データを参考にしない。水質化学は選挙スローガンや、記者会見、ソーシャルメディア言説に感銘しない。物理世界は、交渉も妥協もしない原理に基づいて機能する。コーティングは、しっかり付着するか、剥がれるかだ。水は微細な隙間に浸透するか浸透しないかだ。誰が大統領執務室にいようと化学反応は起きる。

 何世代にもわたり、アメリカ人は工学、科学と実践的な問題解決に根ざす文化の恩恵を受けてきた。橋は立つているか崩れるか、飛行機は飛ぶか墜落するかのどちらかだ。こうした結果を左右する法則は、説得したり、脅迫したり、政治で改名したりできない。同じ原則が反射池にも当てはまる。そこで何が起きたにせよ、イデオロギーではなく、政治家が説明しようとするずっと以前から存在していた一連の物理的原因と結果により最終的に決定されたのだ。

 技術的失敗から政治的神話へ

 この事件が特に重要なのは、それがアメリカ政治文化における、より広範な傾向を如実に反映している点にある。責任を外部に転嫁する衝動は、現代の政治支配を特徴づける要素になっている。政治的立場を問わず、政策、計画、あるいは実行上の欠陥ではなく、敵の行動で失敗を説明する傾向が強まっている。政権の政策は深刻な批判を免れるものだと想定されているため、根底に、アメリカのライバルに責任があるはずだという暗黙の了解が存在するのだ。このような考え方は、政治議論を道徳劇へ変貌させ、責任の所在を問うことより、決定を問うことの方が困難になってしまう。

 この習慣をドナルド・トランプが発明したわけではない。彼はそれを支配の手段に昇華させたに過ぎない。経済的失望は陰謀の結果とされ、行政上の失敗は妨害工作の証拠とされ、政策の挫折は隠れた勢力が国家に敵対している証拠とされる。責任転嫁の対象を探すことに比べて、決定自体に欠陥があった可能性は、しばしば軽視される。この構図は、宗教的狂信者さえ引き込んで、政権に反対するのは全能の神への冒涜だと宣言させる。欧米世界の指導者は、聖人であるだけでなく、アインシュタイン級の天才、ナポレオンに匹敵する征服者、そしてG7メンバーに宣言した通り、単に「ボス」として描かれる。

 イラクを見れば明らかだ。大量破壊兵器に関する誤った前提に基づき、組織的自己検証ではなく、長年にわたる物語の再構築が行われた。アフガニスタンでも同様パターンが見られ、20年にわたる戦略の迷走は、作戦設計の根本的欠陥ではなく、現地関係者や地域の複雑な事情のせいにされることが多かった。更に最近では、ウクライナと中国を巡る議論でも同様傾向が見られる。複雑な地政学的現実が道徳劇に矮小化され、失敗の原因は、誤算や過信や非現実的な期待ではなく、敵にあるとされてしまう。敵の存在は疑いようもないが、自らの過ちを認識する能力を失った国家は次第にそれを正す能力も失っていく。

 軍事介入が目的を達成できなかった場合、説明は戦略的前提よりも、敵に焦点が当てられることが多い。外交努力が失敗に終わると、議論は、非現実的な期待ではなく、外部干渉へ向かう。ライバル国が影響力を増すと、アメリカの政策自体が競争相手に機会を与えた可能性よりも、策略による操作が好まれる説明になる。そして事態が収束すると、政権に忠誠な連中は直截な力を戦略と勘違いして「我々は爆弾で交渉する」と叫ぶ。

 確かに、ロシアや中国のような国々は国益を積極的に追求している。大国は常にそうしてきた。だが競争を認識することと、あらゆる挫折を競争のせいにすることの間には大きな違いがある。健全な社会は、外部からの本物の脅威と、自ら招いた傷を区別できる。不健全な社会は、次第に区別ができなくなり、あらゆる批判、あらゆる失敗、あらゆる失望を迫害の証拠として扱うようになる。この影響は政治の枠を遙かに超えて及ぶ。

 藻類の帝国

 文明が自己修正能力を発揮できるかどうかは、不都合な現実と向き合う意思にかかっている。エンジニアは失敗を研究して設計を改良し、科学者は矛盾を検証して理論を洗練させ、企業は過ちが大惨事になる前に、過ちを特定して適応する。政府も例外ではない。組織が自らが問題の一因となっている可能性を問う能力を失った瞬間、有意義な改革はほぼ不可能になる。

 だからこそ、反射池をめぐる論争は、単なる建設プロジェクトの枠を超えて大きな反響を呼んでいるのだ。藻の大量発生は地政学的危機ではなかった。塗膜の剥がれも国家安全保障を脅かすものではなかった。費用は、連邦政府の莫大な支出に比べれば微々たるものだ。しかし、この一件は、公共生活を益々支配しつつある、ある種の思考様式を驚くほど鮮明に映し出している。ごくありふれた問題に直面した指導者連中は、非凡な説明を探し求めた。化学的問題に直面した彼らは、物語を好んだ。維持管理上の問題に圧倒された彼らは神話を好んだ。そして、過失の可能性について、敵に責任を押し付けた。

 反射池を巡る論争の本当の意義は、費やされた金額や除去された藻、夏の太陽の下で剥がれ落ちた塗料にあるのではない。その重要性は、ありきたりな説明に益々不快感を覚える社会の姿を明らかにしている点にある。健全な文明は、困難ではあっても、不可欠な能力を備えている。現実が自らの前提と矛盾しているのを認められる能力だ。あらゆる批判を攻撃と捉え、あらゆる挫折を妨害工作の証拠と見なすことなく、過ちを認められるのだ。そのような社会は、学ぶために必要な謙虚さを持ち続けているからこそ、自己修正能力を維持できるのだ。

 不健全な社会は違う道を辿る。彼らは物語中毒になる。あらゆる失敗は敵のせいにされ、あらゆる失望は陰謀に変えられ、土台のあらゆる亀裂は構造自体の弱点ではなく、敵のせいにされる。時が経つにつれ本当の脅威と自ら招いた傷の区別は曖昧になっていく。

 リンカーン記念堂の反射池は、そうした習慣がいかに危険なものになり得るかを、一見単純な形で思い起こさせてくれる。国家は多くのことを自分に言い聞かせることができる。批判は反逆行為だ、反対する者は破壊工作員だ、あるいは、あらゆる挫折は自らの力ではどうにもならないところから生じているのだと自らに言い聞かせることができる。だが、国家は、化学の法則を一時停止させることはできない。

 現実は忍耐強い。現実は、票を要求せず、注目を集めようとせず、どんな選挙にも参加しない。静かに、容赦なく、支払期限が来るのを待つだけだ。

 フィル・バトラーは政策研究者、評論家、政治学者、東ヨーロッパ専門家で、最近のベストセラー、Putin’s Praetorians(プーチンの近衛兵)」などの著書がある。

記事原文のurl:https://journal-neo.su/2026/07/06/the-reflecting-pool-and-the-politics-of-algae/

----------

 読む方が恥ずかしくなる厚顔無恥

 インド訪問時発言。

 さきほどワタクシのことを美しい妹と呼んでくださいました。

 いけ図々しい発言にもかかわらず、モディは乱視ではなかった。

 東京新聞 朝刊 二面 総合 下部の小さな記事
 
「美しい妹」と呼んでいなかった。

 高市首相へのモディ発言

 実際は「私の妹である高市総理」と発言していたという。

<転載終了>