マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-4711f1.html
<転載開始>

ジョージ・オースターフィールド
2026年8月6日
Strattgic Culture Foundation
学校が崩壊し、職業訓練が不足する一方、ドイツは国防費に資金を振り向けているが、兵器を製造する技術者が不足している。
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でご参加願いたい。
お問い合わせ: info@strategic-culture.su
人類の「始まり」について(かなり大まかだが)少々推測してみると、基本的に人類は二つの集団に分けられるはずだ。臆病な者と、そうでない者。あるいは、自信がある者と、そうではない者。これは遺伝的なもので、ある種の「モデル」に特有のものと言える。北半球に暮らす「モデル」は、南半球に暮らす「モデル」とは違っていた。東半球と西半球でも違っていた。いずれにせよ、違う人類「モデル」は概して移動性が高く互いに混じり合っていた。
この分類は現代社会にも見られる。実際、異文化交流は決して時代遅れになったことはなく、その程度は、移動手段や容易さや、言語能力や、学習意欲や能力に左右される。メディアやソーシャル・メディアが、自宅にいながらにして外国や異文化に関する情報や印象を得る一種の遠隔学習を可能にした。
原点に立ち返ると、小規模社会集団では、現代の複雑な社会構造より、相互扶助の意識がより強く存在していたと考えられる。より広い視点で見れば、臆病で自信のない人々は、より勇敢な仲間に助けや保護を求めていたはずだ。多様な才能が、このような関係性を可能にし、全ての人にとって有益だった。
内気な親たちは、自分自身の欠点だと感じている部分を克服すべく、子どもを成長させようと努力したが、どういうわけか、それは自信のある親たちにも当てはまった。こうして、集団間の差異は維持された。それぞれの範疇の人数はほぼ一定に保たれ、親たちは皆、自分の子どもをできる限り成長させようと努めた。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-4711f1.html
<転載開始>

ジョージ・オースターフィールド
2026年8月6日
Strattgic Culture Foundation
学校が崩壊し、職業訓練が不足する一方、ドイツは国防費に資金を振り向けているが、兵器を製造する技術者が不足している。
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お問い合わせ: info@strategic-culture.su
人類の「始まり」について(かなり大まかだが)少々推測してみると、基本的に人類は二つの集団に分けられるはずだ。臆病な者と、そうでない者。あるいは、自信がある者と、そうではない者。これは遺伝的なもので、ある種の「モデル」に特有のものと言える。北半球に暮らす「モデル」は、南半球に暮らす「モデル」とは違っていた。東半球と西半球でも違っていた。いずれにせよ、違う人類「モデル」は概して移動性が高く互いに混じり合っていた。
この分類は現代社会にも見られる。実際、異文化交流は決して時代遅れになったことはなく、その程度は、移動手段や容易さや、言語能力や、学習意欲や能力に左右される。メディアやソーシャル・メディアが、自宅にいながらにして外国や異文化に関する情報や印象を得る一種の遠隔学習を可能にした。
原点に立ち返ると、小規模社会集団では、現代の複雑な社会構造より、相互扶助の意識がより強く存在していたと考えられる。より広い視点で見れば、臆病で自信のない人々は、より勇敢な仲間に助けや保護を求めていたはずだ。多様な才能が、このような関係性を可能にし、全ての人にとって有益だった。
内気な親たちは、自分自身の欠点だと感じている部分を克服すべく、子どもを成長させようと努力したが、どういうわけか、それは自信のある親たちにも当てはまった。こうして、集団間の差異は維持された。それぞれの範疇の人数はほぼ一定に保たれ、親たちは皆、自分の子どもをできる限り成長させようと努めた。
家畜飼育や耕作が定着した瞬間、集団構造は劇的に変化した。狩猟に長けた者は、家畜を飼育し土地を耕作できる者に次ぐ第二の地位に就いた。これは必ずしも狩猟者に価値がなかったことを意味するのではなく、単に優先順位が変わっただけだ。より勇敢な狩猟者は新たな職業分野を見つけなければならず、必要に応じて集団を守るために立ち上がったことから一種の軍隊に発展していった。防衛の必要性は必ずしも戦争を意味するものではなく、主に動物や自然の力に対するものだった。
各集団は最も熟練した優秀な狩人に従うようになる。理由は明白だが、報酬が不明だったため、敬意が正当な報酬形態になった可能性もある。社会が部族へ変化すると、他の部族員より遙かに高い特権を享受する指導者層が生まれた。彼らが秘教的・宗教的活動に深く関わるほど、権力は増大した。一度権力を握ると、これら特権を次世代に引き継ぐ傾向が強まり、指導者の地位は世襲制になり、支配階級が形成された。
当初の二つの集団(前述通り、これは非常に大まかな分類だ)は、より裕福な指導者と、そうでない部下へ徐々に分かれていった。より現代的な言い方をすれば、富裕層と貧困層、つまり持てる者と持たざる者という構図だ。この単純化された分類は、あらゆる社会モデルにおける紛争の主な原因の一つを示す例と見なせる。従って、社会が機能するためには、持てる者と持たざる者の間の格差をできる限り小さく保つことが不可欠だ。
均質な社会とは、全員平等で、全員同じ機会を与えられ、生活水準を向上させる機会も平等だという考え方等を意味する。もしこの均質性が社会の全ての構成員に当てはまるなら、何らかの形の「共産主義」の必要性が示唆される。こうして、持てる者と持たざる者の問題は解決される。
過去100年間に出現した様々な形態の「共産主義」を見てみると、それらを特徴づける上で二点が際立つ。一つ目は「共産主義」体制は機能しない事実だ。
これが「共産主義」という言葉を私が引用符で囲んだ理由の一つだ。もう一つの理由は、様々な国の哲学者たちとの議論に基づけば、普遍的な共産主義社会形態は存在しないというのが私の見解だからだ。ソ連の人々さえ、自らの社会を共産主義とは考えていなかった。むしろ、社会主義から共産主義への移行期であり、共産主義は全てがうまくいった場合に達成されるべき国家形態だと考えていたのだ。だから、持つ者と持たざる者の問題は、おそらく消えることはないだろう。
二つ目の顕著な特徴は教育に対する重視の程度だ。この点、いわゆる共産圏諸国は傑出していた。ドイツで講師、教育者として働いていた時、これを身をもって私は体験した。ロシアからの移民は、ドイツ人とは全く違う学習態度だった。前者は知識を欲しがっていたのに対し、後者は基本的に試験に合格するために必要なこと以外は興味がなかった。ソ連の学校で得られる知識の水準は、ドイツの学生の水準を遙かに上回っていた。もちろん制度や、その意図を公平に比較するのは困難だが、結果の違いは否定できない。持てる者と持たざる者の問題も、結局、解決可能なようだ。教育=能力=持てる。
欧米社会、特に未来に対し、軍国主義的姿勢を提唱する社会を見ると、教育分野における欠点が否応なく目に付く。ドイツに暮らし、働いていると、事態は深刻化している。経済のあらゆる分野が、文字通り熟練労働者を切実に求めている(「大声で叫んでいた」のは過去の話だ)。
第二次世界大戦直後、復興に必要な肉体労働のために膨大な労働力が必要とされたのは確実に事実だ。だが国が発展するにつれ、多様な労働者の需要が生まれ、焦点は事務職へ移っていった。事務職は、一方では、拡大し続ける官僚機構や事務処理部門を支え、他方では、広告、販売、経営部門を支えるために必要とされた。これにより、職人の育成から、ホワイトカラー労働者向けの、より高度な教育に重点が移った。このような変化は、活力に満ちた絶えず変化し続ける全ての社会に共通する現象だと言える。
歴代政権は、子どもと、その教育こそ国の資本で、未来を保証するものだと繰り返し述べてきた。だが、それが必ず自動的に改善や変化をもたらすとは限らない。教育への資金供給は、もはや失われた技術になりつつある。資金が増加しているとすれば、それは試験的プロジェクトや、学術研究に限られる。
金が絡むと、伝統的教育における初等・中等教育はほとんど無視される。職業教育は後回しにされ、学校は文字通り崩壊寸前だ。生徒だけでなく教師にとっても学校の雰囲気や学習環境は悲惨で、教師たちは目標達成のため、まるで勝ち目のない戦いを強いられているかのようだ。授業は教師不足、あるいは多くの場合、教材不足のため中止される。
益々デジタル化が進む世界では、残念ながら、学生が適切に対応できるように教育するための資金が不足している。学校が、STEM、Science(科学)・Technology(技術)・Engineering(工学)・Mathematics(数学)分野の能力を備えた学生を育成できないため、工学分野は衰退の一途を辿っている。STEM科目を軽視し、その魅力を低下させ、「ジェンダー研究」などの「人文科学」に修士課程を設けて資金投入しても、国の産業基盤や競争力や生産性が停滞している現状では何の助けにもならない。社会は「贅沢な研究」に資金を投入できる余裕を持たなければならないが、少なくともドイツは今のところそれができない状況にある。
こうした事柄に加えて、既に過重な負担を抱えている制度に、見えない人種差別に基づく計算違いの杜撰な移民政策が、更なる重圧を与えている。傲慢さから移民の資格を認めなかった結果、シリアやイラク出身の看護師や医師が清掃員として働く以外に、医療分野で働く機会がない事態が生じている。
均質で機能的な社会を望むことと、それを構築して維持するのは全く別問題だ。教育資金を捻出し、必要な能力を持つ人材が不足している分野に資金を振り向けるのは、まさにその資金の振り向け方が原因で、持続可能な政策とは言えない。特に、ここ数ヶ月、ドイツ政府が繰り返し表明してきたような目標を掲げる場合なおさらだ。政府が重要視する軍事計画を遂行するために、ドイツは技術者を必要としているが、技術者育成用必要資金を、教育省から、技術者を必要な国防省へと振り向ける計画に着手できない状況にある。
上記状況の肯定的側面は(歴史的に見て、均質な社会だけが繁栄する傾向がある事実を無視すれば)確実に平和維持策であることだ。「ジェンダー研究」修士号を取得したからといってミサイルやドローンが作れるわけではない。ささやかな恩恵に感謝すべきだ。
記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2026/08/06/have-and-have-nots/
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耕助のブログ
<転載終了>
各集団は最も熟練した優秀な狩人に従うようになる。理由は明白だが、報酬が不明だったため、敬意が正当な報酬形態になった可能性もある。社会が部族へ変化すると、他の部族員より遙かに高い特権を享受する指導者層が生まれた。彼らが秘教的・宗教的活動に深く関わるほど、権力は増大した。一度権力を握ると、これら特権を次世代に引き継ぐ傾向が強まり、指導者の地位は世襲制になり、支配階級が形成された。
当初の二つの集団(前述通り、これは非常に大まかな分類だ)は、より裕福な指導者と、そうでない部下へ徐々に分かれていった。より現代的な言い方をすれば、富裕層と貧困層、つまり持てる者と持たざる者という構図だ。この単純化された分類は、あらゆる社会モデルにおける紛争の主な原因の一つを示す例と見なせる。従って、社会が機能するためには、持てる者と持たざる者の間の格差をできる限り小さく保つことが不可欠だ。
均質な社会とは、全員平等で、全員同じ機会を与えられ、生活水準を向上させる機会も平等だという考え方等を意味する。もしこの均質性が社会の全ての構成員に当てはまるなら、何らかの形の「共産主義」の必要性が示唆される。こうして、持てる者と持たざる者の問題は解決される。
過去100年間に出現した様々な形態の「共産主義」を見てみると、それらを特徴づける上で二点が際立つ。一つ目は「共産主義」体制は機能しない事実だ。
これが「共産主義」という言葉を私が引用符で囲んだ理由の一つだ。もう一つの理由は、様々な国の哲学者たちとの議論に基づけば、普遍的な共産主義社会形態は存在しないというのが私の見解だからだ。ソ連の人々さえ、自らの社会を共産主義とは考えていなかった。むしろ、社会主義から共産主義への移行期であり、共産主義は全てがうまくいった場合に達成されるべき国家形態だと考えていたのだ。だから、持つ者と持たざる者の問題は、おそらく消えることはないだろう。
二つ目の顕著な特徴は教育に対する重視の程度だ。この点、いわゆる共産圏諸国は傑出していた。ドイツで講師、教育者として働いていた時、これを身をもって私は体験した。ロシアからの移民は、ドイツ人とは全く違う学習態度だった。前者は知識を欲しがっていたのに対し、後者は基本的に試験に合格するために必要なこと以外は興味がなかった。ソ連の学校で得られる知識の水準は、ドイツの学生の水準を遙かに上回っていた。もちろん制度や、その意図を公平に比較するのは困難だが、結果の違いは否定できない。持てる者と持たざる者の問題も、結局、解決可能なようだ。教育=能力=持てる。
欧米社会、特に未来に対し、軍国主義的姿勢を提唱する社会を見ると、教育分野における欠点が否応なく目に付く。ドイツに暮らし、働いていると、事態は深刻化している。経済のあらゆる分野が、文字通り熟練労働者を切実に求めている(「大声で叫んでいた」のは過去の話だ)。
第二次世界大戦直後、復興に必要な肉体労働のために膨大な労働力が必要とされたのは確実に事実だ。だが国が発展するにつれ、多様な労働者の需要が生まれ、焦点は事務職へ移っていった。事務職は、一方では、拡大し続ける官僚機構や事務処理部門を支え、他方では、広告、販売、経営部門を支えるために必要とされた。これにより、職人の育成から、ホワイトカラー労働者向けの、より高度な教育に重点が移った。このような変化は、活力に満ちた絶えず変化し続ける全ての社会に共通する現象だと言える。
歴代政権は、子どもと、その教育こそ国の資本で、未来を保証するものだと繰り返し述べてきた。だが、それが必ず自動的に改善や変化をもたらすとは限らない。教育への資金供給は、もはや失われた技術になりつつある。資金が増加しているとすれば、それは試験的プロジェクトや、学術研究に限られる。
金が絡むと、伝統的教育における初等・中等教育はほとんど無視される。職業教育は後回しにされ、学校は文字通り崩壊寸前だ。生徒だけでなく教師にとっても学校の雰囲気や学習環境は悲惨で、教師たちは目標達成のため、まるで勝ち目のない戦いを強いられているかのようだ。授業は教師不足、あるいは多くの場合、教材不足のため中止される。
益々デジタル化が進む世界では、残念ながら、学生が適切に対応できるように教育するための資金が不足している。学校が、STEM、Science(科学)・Technology(技術)・Engineering(工学)・Mathematics(数学)分野の能力を備えた学生を育成できないため、工学分野は衰退の一途を辿っている。STEM科目を軽視し、その魅力を低下させ、「ジェンダー研究」などの「人文科学」に修士課程を設けて資金投入しても、国の産業基盤や競争力や生産性が停滞している現状では何の助けにもならない。社会は「贅沢な研究」に資金を投入できる余裕を持たなければならないが、少なくともドイツは今のところそれができない状況にある。
こうした事柄に加えて、既に過重な負担を抱えている制度に、見えない人種差別に基づく計算違いの杜撰な移民政策が、更なる重圧を与えている。傲慢さから移民の資格を認めなかった結果、シリアやイラク出身の看護師や医師が清掃員として働く以外に、医療分野で働く機会がない事態が生じている。
均質で機能的な社会を望むことと、それを構築して維持するのは全く別問題だ。教育資金を捻出し、必要な能力を持つ人材が不足している分野に資金を振り向けるのは、まさにその資金の振り向け方が原因で、持続可能な政策とは言えない。特に、ここ数ヶ月、ドイツ政府が繰り返し表明してきたような目標を掲げる場合なおさらだ。政府が重要視する軍事計画を遂行するために、ドイツは技術者を必要としているが、技術者育成用必要資金を、教育省から、技術者を必要な国防省へと振り向ける計画に着手できない状況にある。
上記状況の肯定的側面は(歴史的に見て、均質な社会だけが繁栄する傾向がある事実を無視すれば)確実に平和維持策であることだ。「ジェンダー研究」修士号を取得したからといってミサイルやドローンが作れるわけではない。ささやかな恩恵に感謝すべきだ。
記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2026/08/06/have-and-have-nots/
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耕助のブログ
No. 2992 なぜトランプはグリーンランドが欲しいのか
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