大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

2012年の黙示録より

再掲載 エドガー・ケイシー日本人への最後の警告  

2013年02月07日19:32

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library516.html
<転載開始>
エドガー・ケイシー日本人への最後の警告  
誰も正視できないこの国の終末
五十嵐康彦・著  廣済堂  1990年刊


  リーディングで明らかにされた転生の法則

  「カルマ」とは仏教でいう「業」にほかならない。長く仏教的な考え方をベースにして生活してきた私たち日本人の多くは、日常的に意識しているかいないかの違いはあるにせよ、この“業(カルマ)”を信じている。
  霊魂の転生――つまり「生まれ変わり」は、この業=カルマと密接に関連しており、このことは著名な丹波哲郎氏の霊界にまつわる話で、もはや私たち日本人の間では常識化しつつある。一方、キリスト教を信じる西洋人にとっては、「生まれ変わり」は異端の考え方なのだ。
  ところで、エドガー・ケイシーの場合はどうか……。
  1923年8月10日の午後、オハイオ州デイトンのホテルの一室でエドガー・ケイシーのリーディングが行なわれた。いつもと同じように、催眠状態に入った彼が妻ガートルードの質問に答え、秘書のグラディス・デービスが速記をした。その形には何の変化もなかった。しかしその内容は、目覚めた彼自身が大きなショックを受けるものであった。
  いつものように、グラディス・デービスが速記録を読み返すのを聞きながら、彼はしばし呆然とし、それが過ぎると強い恐怖感に襲われた。
  敬虔なプロテスタントで、年に一度は聖書を読み通すほど神を至上のものと信じてきた彼は、自分が気がつかないうちに悪魔の手先にされてしまったのではないかと疑ったのである。
  催眠中の彼は、至って冷静に、当然のことであるかのように「生まれ変わり」の事実を語っている。人間が地球上に生まれる前に“別の生”を持っていたこと、地球上に生を得てからも、人間は何度も生まれ変わりながら現在に至っていること――そんな荒唐無稽なことを考える人間は、当時のキリスト教徒には異端者としか考えられなかったはずだ。
  クリスチャンなら誰でも、父なる神が人の住むべき家を用意してくれるというキリストの約束を信じている。もちろんケイシーも、それを固く信じてきたのである。その自分が無意識の中で語っていることは、神に背き、悪魔に魂を売り渡したとしか言いようのないことだった。
  彼の混乱をよそに、このリーディングを依頼したアーサー・ラマーズは喜びで興奮していた。アーサーは印刷業を営む傍ら、心霊現象とか東洋の宗教を熱心に研究していた人物である。このリーディングをするために、わざわざケイシーをアラバマ州セルマから呼び寄せたのだ。
  自分の考えが間違っていなかったことを保証してくれたこのリーディングに、ついはしゃぎたくなる気持ちもわかろうというものだった。
  エドガー・ケイシーは、この時、生涯で最も大きな転回点にいたと言ってよいだろう。彼は何よりも、この場に背を向けて帰ってしまいたいという気持ちでいっぱいになったが、自分の知らないことは一切受け入れないというほど頑迷ではなかった。
  そんなことを言えば、そもそもフィジカル・リーディングでさえ、彼の確認しようのない分野のことであった。リーディングができるようになったのは“神の意志”によると考える以上、それぞれの時点ではどんなに“常識”に反するように感じられたとしても、謙虚な気持ちで受け止めるべきであるという結論を、彼は出していたのであった。
  このエドガー・ケイシーの大決心によって、われわれは、人類誕生の謎も、現代の人類が抱える危機をも知ることができたわけである。
  ところで、自分の前世を知ると何の役に立つのだろうか? 前世がどんなに良いものにせよ、逆にどんなに悪いものにせよ、もはや手の付けようがない以上、今さら知っても意味がないと思われて当然である。にもかかわらず2,500人以上の人々がリーディングを依頼し、ほとんどの人がそこから何ものかを得、その後の人生をより良いものにしようとしたのであった。
  リーディングによれば、すべての人間は、利己的な心を捨て、自分より不幸な人を助けたいという気持ちを持ち続けることによってのみ、自分の可能性をフルに開花させることかできるというのである。

続きを読む

天理教「おふでさき」の超解釈

「おふでさき」について

  この本(=『おふでさき通訳』)によりますと、天理教の「おふでさき」は明治2年から同15年の間に、教祖(おやさま)・中山みきに降ろされたものとされています。天理教の神さま(親神=天理王命)は、教祖に「おふでさき」以外の一切の文字記録の執筆も閲覧も禁じたと言われています。教祖が筆を執ると、暗闇でもひとりでに筆が動いて、言葉がお歌となって紙に記されたとか。一般的に“自動書記”と言われている現象です。従いまして、ここにご紹介している「おふでさき」の語り手は天理教の親神さまということになります。                   (なわ・ふみひと)

  『大本神諭』天の巻の冒頭に次のような神示があります。

 ‥‥天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮(うしとら)の金神が現れて、世の立て替えをいたすぞよ。世の立て替えのあるということは、どの神柱にも判りておれど、どうしたら立て替えができるということは、判りておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝腎のことは判りておらんぞよ。(明治25年)

  この神示によりますと、天理教は世の立て替えを告げる神示の草分けということになります。“一厘”の肝腎のことはわかっていないとありますが、残りの九分九厘は知らしてあるということですから、天理教の教祖(おやさま)に降ろされた神示の内容は『大本神諭』と一致しているものと思われます。
  ということは、2つの神示の一致する部分こそが、世の立て替えに関する重要な教えであると見ることができます。ということで、その「一致する部分」が何であるかを確かめてみたいと思います。
                       ☆ ★ ☆
  神示の解釈は芹澤茂氏の解説を参考にしましたが、私の独自の解釈を加えていますので、天理教の教団での解釈とは異なっている部分があることをお断りしておきます。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ神のゆう事うたこふて なにもうそやとゆうていたなり
 このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし
 だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる


【なわ・ふみひとの解釈】
  今までは、神の言うことを疑って、何でも「嘘だ」と言ってきたが、この世を始めた神の言うことだから、千に一つも違うことはないのだ。これからだんだんと現象が現れてくるから得心せよ。心で思ったことはみな現象として現れるのだ。


★ おふでさき ★
 よろづよのせかいぢふうをみハたせバ みちのしだいもいろいろにある
 このさきハみちにたとえてはなしする どこの事ともさらにゆハんで
 やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら
 まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり
 ほそみちをだんだんこせばをふみちや これがたしかなほんみちである
 このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれがわが事


【なわ・ふみひとの解釈】
  霊界・現界を含めたすべての世界(三千世界)を見渡すと、(これから人類が進む)道の状況もいろいろ違うようだ。これから先は道に例えて話をしよう。どこの地域のことと限定しているわけではない。
  これからは山があり坂道があり、茨の道に崖道もある。剣(「戦争」の暗喩)の中を通り抜けたら、火(火災=火山の噴火、核戦争)の中もあり、淵中(洪水、津波)もあり、それを乗り越えたら道が細くなっている。だから、簡単に通ることはできない。細い道(=終末の大峠)を越せば大きな道に出る。これが本道(=神の世)である。
  この話は関係ないことではない。神の一条の大事な話なのだ。自分に関することと思っておきなさい。


★ おふでさき ★
 これからハをうくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで
 上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた
 ちゃつんであとかりとりてしもたなら あといでるのハよふきづとめや
 このつとめとこからくるとをもうかな 上たるところいさみくるぞや
 たんたんと神のしゆごふというものハ めつらし事をみなしかけるで
 にちにちに 神の心のせきこみを みないちれつハなんとをもてる
 なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや
 せきこみもなにゆへなるとゆうならば つとめにんぢうほしい事から
 このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを
 このたすけいまばかりとハをもうなよ これまつたいのこふきなるぞや


【 なわ・ふみひとの解釈 】
  これからはあの世(神霊界)とこの世(物質界)を行き来できる「往還道」をつくっていく。この世の人間の心を改心させるためである。守護神が改心するに従って、いつ大峠が来てもおかしくない時節となったのだ。
  お茶の葉を摘んであとを刈り取ってしまったら、そのあとに出てくるのは新しい木(ようき=幼木)である。このように、人が改心すること(ようきづとめ)が大切なのである。この改心はどこから始めると思うだろうか。それは守護神からまず改心するのである。
  これからは神の守護によってだんだんと珍しいことを見せていく。神が一日も早くと急いでいるのに、人民はなんと思っているのか。何があっても病気や苦痛というものはなくなる。神の急ぐ気持ちを伝える手伝いをしてほしいのだ。
  なぜこんなに急いでいるのかというと、改心した(ようきづとめの)人間がたくさん必要だからである。では、何のために「ようきづとめ」をするのかと思っているだろう。それはすべての守護神と人民を助ける段取りをするためだ。助けると言っても今だけのことではなく、万古末代のきまり(古記)となるのである。


続きを読む

心のほこり(埃)を取るのが身魂磨き

20:05
に掲載した記事です。
先ほど天理教の方が初めて訪問されました。(資料をどうぞという事でさっさと帰られましたが)
そんなわけで思い出してのコピーを再掲載します。
他にも

おふでさき

「恐怖心」と「怒り」が人生を不幸へと導く

天災が忘れたころにやってくる理由

大難は小難にすることができる

天理教「おふでさき」の超解釈

日本の国のカルマの清算が始まっている



なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki20120806.html
<転載開始>
 天理教が示す八つの「心の埃」

   これから終末の大峠までに必ず清算を迫られる善くないカルマ(心の癖)とはどういうものか整理していきます。まず江戸時代に中山みき(のちの天理教の教祖)に下ろされた神示(おふでさき)を見てみましょう。そこには善くない心の癖が「ほこり(埃)」として8つが挙げられています。

 中山みきが神様から教えられたとされる「人の心の中の埃」とは「①をしい」「②ほしい」「③にくい」「④かわい」「⑤うらみ」「⑥はらだち」「⑦よく」「⑧ごうまん」の8つです。この中の「③にくい」「⑤うらみ」「⑥はらだち」については既に取り上げてきました。「憎む」「恨む」「怒る」という心の使い方です。

 最初に出てくる「①をしい」は「惜しい」すなわち「出し惜しむ」という心の働きです。お金や労力を惜しみ、自分が損をしないように、そしてできるだけ楽をしたいと考える気持ちは、いわゆる「我善し(自己中心主義)」の心であり、善くないカルマを貯めてしまいます。

 「②ほしい」は、後の方で出てくる「⑦よく」と似ています。天理教の教本を読んでもその区別がわかりません。「②ほしい」は「いま持っていないものを欲しがること」、「⑦よく」は「既に持っているのに、それをさらに増やそうと欲を出すこと」と理解したいと思います。いずれも心の埃となるのです。

 モノやお金を欲しがることがなぜいけないのでしょうか。これはカルマの法則から考える必要があります。つまり「ほしい」という気持ちが心の癖となってしまった場合を考えてみてください。ほしいモノが手に入っても、心の癖はまた次のモノを欲しがることになるのです。

 「欲しがる」心の癖ができますと、次々と新しい対象を求めるようになります。欲望にブレーキが効かなくなるのです。新しいモノを欲しがる気持ちは、今持っているものでは満足していないということを表しています。現状を不満に思う気持ちが心の癖となり、マイナスのカルマとなるのです。

 「③にくい」は「憎む」気持ちということで、それが心の癖になりますと、ますます憎く思う状況を引き寄せることになります。また「自分が他の人から憎まれる」という環境を作り出します。カルマの持つ「作用・反作用の法則」です。「人を憎めば人から憎まれる」ということです。

続きを読む

人類が星の記憶を取り戻す時

2012年の黙示録さんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/daiyogen24.html
<転載開始>
光の黙示録  [TOP]

  世界には、この世の終わりや未来に起きるかも知れない大災害に関する予言が、宗教がらみで数多く伝えられている。
  かなり以前になるが、一時「ファティマの予言」が話題に上り、日本でもセンセーショナルを巻き起こしたことがあった。
  これに次いで、世界各地で聖母マリアの出現の報道がされ、幻視者なる人々の存在が取り沙汰されたこともあった。その結果、キリスト教に基づく神の審判の日が近づいているという風聞に、信者であるか否かを問わず、多く人がこの話題に揺さぶられたようだ。
  聖母マリアや、そのビジョンを幻視する人々が伝えたメッセージは、主としてローマ・カトリックの信仰体系に入り込む悪魔の目論見を暴き、正統なキリスト教体系への回帰を促すものだったが、その中には、このままの意識状態で人類が時を過ごして行くならば、「恐ろしい天罰が下され、多くの人が地獄に落ちるであろう」という、一種脅迫めいた内容も盛り込まれていた。
  そんな内容を、今でも記憶している方が、きっとおられるのではないかと思う。
  当時、伝えられた聖母のメッセージや、また幻視者の伝えるメッセージには、眉唾ものと思われる内容も多く混入していたため、真実と虚偽の見極めが困難になり、結局すべてが、再び闇に葬られる恰好になってしまったようだ。
  しかしながら、現在そのメッセージに盛り込まれていた内容の一部分が、まったく新しい形で世に登場している。
  これが何であるかを語る前に、まず、その背景から紹介しよう。
続きを読む

再々掲載です。 もとはこちら

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1311-12.html
<転載開始>
もとはこちら
   
平井謙次・著  致知出版社
  もと こちら
  そのまま ぜんぶ
  あたりまえ
  ただ ありがたく
  すみません

  以上五行の言葉は「あるがまま そのまま ぜんぶ もとはこちら あるがまま そのまま ぜんぶ あたりまえ ただ ありがたく ただ すみません」の略です。
  この「もと」とは原因という意味で「こちら」とは自分という意味です。ですから「もとこちら」とは、「原因は自分にある」という意味です。すべての現象は、原因と縁によって生じ、また滅します。その生滅し、見え隠れする現象の姿のことを「結果」というのです。これは因果律をわかりやすく表したものです。すべては因縁によってのみ生じ、因縁によってのみ滅する、という意味です。
  自分の身の上、または身の周りや運命上に現れてきたこと(結果)は、自分自身が内在に持っていた原因となるものに、縁が重なって出てきたことばかりです。この摂理、すなわち因果の法則によらない結果は絶対に起こってきません。そしてどのような縁でどのような結果を出したかということで、もともと自分が内在に持っていた内容(原因)を、おぼろげながらにも垣間見ることができます。
  ところで、自分が体験したその結果は、好むことであろうが好まざることであろうが、また予測できることであろうが不測のことであろうが、そういうことには一切関係なく、因果の法則から見れば、すべては当然のことばかりのはずです。どれもがみなあたりまえのことのはずです。一つの例外もなく「そのまま全部あたりまえ」なのです。

 受動的、他動的な事も「もとはこちら」

  自分が能動的にしたことであっても、反対に他からされた受動的なことであっても、それらも全部自分自身が招いたことです。
  受動的、他動的にされたことまで「自分がした」とは考えにくいでしょうが、これもよく考えれば「されたことをした」のであり、また「されるようなことを自分がした」と考えればおわかりいただけると思います。自分から意識して能動的にした場合は、原因者は自分であるということを納得しやすいのに比べ、無意識的、受動的なケースではなかなか納得しにくいものですが、本当はそういうものこそ、すなわち予測もできず、また無意識のうちに起きてきて体験した事ほど、その因縁の根も意味も深いと解釈せざるを得ないわけです。
  要は、意識的であろうがなかろうが、自分が体験したこと(結果)は、もともと自分の内在にあった原因となるものに縁が重なり、現れてきたことばかりです。原因は自分自身にあるのです。自分に何の原因も理由もない無関係のことの結果だけを、自分が受け取るなどということは決してありません。結果を受け取るのは必ず原因者なのです。自分が種をまき、それを自分が育て、自分が刈り取るのです。
  結局のところ、自分の人生の主人公、支配者、そして自分の人生の創造主は、他ならぬこの自分自身です。ですから、この地球上を選んだのも、「今」という時代を選んだのも、父母を両親として選んだのも、またその両親からその子供として選ばれるようなことをしたのも、わが子を選んだのも、またその子から親として選ばれたのも、兄弟姉妹や配偶者を選び選ばれたのも、また今の職業や社会的地位等、とにかく今の人生のすべてを選び選ばれたのは、この自分に他なりません。そして将来的に死ぬ時期を選び選ばれるのも、何もかもが結局は自分のすることなのです。
  そしてまた、それらの結果を招くような縁を呼んだのも、結局は自分です。それらはすべて自分の内在智の働きであり、内在智のなす技です。内在智とは、潜在的自分、または自分と直結する神仏、と広義の意味で解釈することができます。
  ともかく、もとはすべてこちらなのです。私は私の人生の主人公です。だれかのせいで、あるいは何かのせいでこうなった、ということは絶対にないのです。


こちらも参考になります → 原因と結果の法則(蝶になる日)
<転載終了>続きを読む

反日国家・日本

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1305-04.html
<転載開始>
反日国家・日本
   
名越二荒之助・著  山手書房  1985年刊
 アメリカで使われている教科書『近代日本の形成』(パイル教授著)

  読者に、日・米の教科書を比較判断して頂くために、アメリカで使われている教科書を紹介したいと思います。紹介するのは、カリフォルニア大学で使われている『The Making of Modern Japan近代日本の形成』という教科書(著者はワシントン大学パイル教授K.B.Pyle)です。この中では、東郷平八郎を大きく写真入りで紹介(縦13センチ、横10センチ)しており、写真の説明文は、「Naval hero of the Russo‐Japanese War日露戦争の海軍の英雄」(323頁)となっております。この教科書は青山学院大学の佐藤和男教授の教え子が留学し、これを使って学んだものです。長文ですが、佐藤教授の直訳を紹介してみましょう。

  日清戦争

  1894~5年の日清戦争は、国際関係史において絶大な重要性を持つが、それはこの戦争が清国の弱体ぶりを余すところなく暴露し、東アジアの資源と市場の支配を求めて帝国主義列強間に激烈な競争を展開せしめることになったからである。日本は不可避的にこの渦中に捲き込まれ、自国権益の保護と拡張を最優先関心事とせざるを得なかった。
  19世紀から20世紀への転換期に、日本には欧米列強との平等を望む願望があり、東アジアの原材料と市場──日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、日本はそこから閉め出されることになる──への接近の維持という経済的動機もあったが、日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、固陋(ころう)で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。
  山縣有朋と軍首脳部は、東アジアは帝国主義列強間の激烈な競争の舞台になるであろうと結論した。支那大陸における力の真空がこの事態を招いたのである。ロシアのシベリア横断鉄道建設の決定は、山縣らの懸念の正しさを示した。新鉄道は、朝鮮または南満州に不凍港たる終点を必要としたからである。
 日本列島の安全保障は朝鮮が第三国の支配下に陥るのを防止することにかかっているというのが、日本外交政策の基本的原則となった。さらに参謀本部は、朝鮮の独立は、隣接する旅順港と遼東半島の支配によってのみ確保されると結論した。以上の戦略的目標を胸に秘めて、明治政府は陸海軍の増強を着実に進めた。朝鮮内部の陰謀と政治的混迷は、朝鮮への影響力を競い合う清国と日本の関係を緊張させ、ついに日清戦争が起こり、日本軍の勝利の結果、1895年4月17日の下関条約で清国は澎湖(ほうこ)諸島・台湾・遼東半島を日本に割譲し、朝鮮の独立を認めた。この時福沢諭吉は、王政復古以来の日本の文明開化事業の足跡を回顧しつつ、「われわれ洋学者の一人といえども3、40年前に予想しえなかったことは、一大戦争において、日本帝国の威信を宣揚できるということであり、……わが国の絶大なる幸運を思うとき、ただ夢のごとく、喜びの涙にくれるばかりである」と書いた。だが、4月23日の三国(独露仏)干渉の結果、日本は遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、日本は外交的孤立の感を深め、安全保障面の不安が増大した。朝鮮に対するロシアの利害関係と日本の願望が対立することが明らかとなり、日本政府は軍備の拡張に着手し、山縣は友人への書簡(1895年)中に「日本は、間もなく遼東半島南部を押えるであろうロシアを相手に、10年以内に戦争することを覚悟しなければならない」と洩らした。朝鮮半島の日本の経済的権益は急速に増大しており、日本は、食糧輸入の見返りに絹製品を輸出し、さらに野心的な鉄道建設計画を推進していた。

続きを読む

もとはこちら

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1311-12.html
<転載開始>
もとはこちら
   
平井謙次・著  致知出版社
  もと こちら
  そのまま ぜんぶ
  あたりまえ
  ただ ありがたく
  すみません

  以上五行の言葉は「あるがまま そのまま ぜんぶ もとはこちら あるがまま そのまま ぜんぶ あたりまえ ただ ありがたく ただ すみません」の略です。
  この「もと」とは原因という意味で「こちら」とは自分という意味です。ですから「もとこちら」とは、「原因は自分にある」という意味です。すべての現象は、原因と縁によって生じ、また滅します。その生滅し、見え隠れする現象の姿のことを「結果」というのです。これは因果律をわかりやすく表したものです。すべては因縁によってのみ生じ、因縁によってのみ滅する、という意味です。
  自分の身の上、または身の周りや運命上に現れてきたこと(結果)は、自分自身が内在に持っていた原因となるものに、縁が重なって出てきたことばかりです。この摂理、すなわち因果の法則によらない結果は絶対に起こってきません。そしてどのような縁でどのような結果を出したかということで、もともと自分が内在に持っていた内容(原因)を、おぼろげながらにも垣間見ることができます。
  ところで、自分が体験したその結果は、好むことであろうが好まざることであろうが、また予測できることであろうが不測のことであろうが、そういうことには一切関係なく、因果の法則から見れば、すべては当然のことばかりのはずです。どれもがみなあたりまえのことのはずです。一つの例外もなく「そのまま全部あたりまえ」なのです。

 受動的、他動的な事も「もとはこちら」

  自分が能動的にしたことであっても、反対に他からされた受動的なことであっても、それらも全部自分自身が招いたことです。
  受動的、他動的にされたことまで「自分がした」とは考えにくいでしょうが、これもよく考えれば「されたことをした」のであり、また「されるようなことを自分がした」と考えればおわかりいただけると思います。自分から意識して能動的にした場合は、原因者は自分であるということを納得しやすいのに比べ、無意識的、受動的なケースではなかなか納得しにくいものですが、本当はそういうものこそ、すなわち予測もできず、また無意識のうちに起きてきて体験した事ほど、その因縁の根も意味も深いと解釈せざるを得ないわけです。
  要は、意識的であろうがなかろうが、自分が体験したこと(結果)は、もともと自分の内在にあった原因となるものに縁が重なり、現れてきたことばかりです。原因は自分自身にあるのです。自分に何の原因も理由もない無関係のことの結果だけを、自分が受け取るなどということは決してありません。結果を受け取るのは必ず原因者なのです。自分が種をまき、それを自分が育て、自分が刈り取るのです。
  結局のところ、自分の人生の主人公、支配者、そして自分の人生の創造主は、他ならぬこの自分自身です。ですから、この地球上を選んだのも、「今」という時代を選んだのも、父母を両親として選んだのも、またその両親からその子供として選ばれるようなことをしたのも、わが子を選んだのも、またその子から親として選ばれたのも、兄弟姉妹や配偶者を選び選ばれたのも、また今の職業や社会的地位等、とにかく今の人生のすべてを選び選ばれたのは、この自分に他なりません。そして将来的に死ぬ時期を選び選ばれるのも、何もかもが結局は自分のすることなのです。
  そしてまた、それらの結果を招くような縁を呼んだのも、結局は自分です。それらはすべて自分の内在智の働きであり、内在智のなす技です。内在智とは、潜在的自分、または自分と直結する神仏、と広義の意味で解釈することができます。
  ともかく、もとはすべてこちらなのです。私は私の人生の主人公です。だれかのせいで、あるいは何かのせいでこうなった、ということは絶対にないのです。


こちらも参考になります → 原因と結果の法則(蝶になる日)
<転載終了>

超人ピタゴラスの音楽魔術

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1311-14.html
<転載開始>
超人ピタゴラスの音楽魔術
   
斉藤啓一・著  学研
 音楽は魂を調律し、覚醒させる!

  音楽には、人の心を操るような、非常に強い力が宿っている。それはしばしば人格さえも変えてしまう力である。しかしこのことは、もし使い方を誤るなら、とんでもないことにもなるということだ。たとえば、ヒトラーが軍隊や民衆を扇動するために、ワーグナーの序曲を用いていたことは周知のとおりだ。ヒトラーはオカルトの研究家でもあり、音楽や色彩がいかに人の心を操るかをよく把握していたのだ。もしもワーグナーの音楽の力がなかったら、ヒトラーの野望もあそこまで拡大しなかったかもしれない。
  ピタゴラスの影響を受けたプラトンなどは、こうした音楽の力に早くから気づいており、理想国家の建設にとって、音楽は厳重に統制されねばならないと語っていた。「音楽が誤って扱われると、知らぬ間に人々の心に忍び込み、ついには国家を滅ぼすことになるだろう」と、彼は強く警告している。
  このように考えてくると、音楽はある種の“催眠術”であるといえそうだ。ヒトラーはワーグナーの音楽で大衆を催眠術にかけたのだ。その暗示効果は、1~2回聴いてもすぐに現れるが、何回も繰り返し聴くことで、性格や運命を支配するほど深くて永続的なものとなるのだろう。
  こうした音楽の特性について、ピタゴラスも「音楽は魂を調律する」と言っている。いったいどういう意味だろうか。
  調律とは、狂った楽器の音程を本来の状態に戻すことだ。だから「魂の調律」とは、魂を本来の状態に戻すことである。つまりピタゴラスは、「音楽は魂を本来の姿に戻す」と言っているわけだ。
  ピタゴラス教団の目的は“肉体という牢獄”から解放されることであった。ピタゴラスは「人間の本当の姿は、永遠の至福と自由に満ちた“魂”である」と考えたのである。魂は調和であり、魂の故郷である霊的世界も調和そのものであると。
  ところが、肉体という牢獄に閉じ込められてしまった魂は、その事実を忘れ、輪廻転生を繰り返し、地上の苦悩を味わいつづけているというわけだ。それは宮殿で暮らしていた王様が記憶喪失となり、自分自身がだれであるかを忘れ、スラム街でみすぼらしく生活しているのと同じである。われわれは“場違いなところ”にいるのだ。
  そこでピタゴラスは、本当の自分の姿が魂であることに目覚め、肉体から解放されて、故郷である調和の世界へ“帰還”しようと、弟子たちを導いたのである。もちろん、これは単純に自殺してしまえばいいということではなく、魂が自らの調和に目覚めれば、肉体や地上にまつわる出来事に煩わされなくなるという意味である。これがピタゴラスのいう“肉体からの解放”なのだ。
  では、いかにしたら魂の調和を覚醒させられるのか?
  それには「調和を本性とするものに接すればいい」というのがピタゴラスの考えだ。すなわちそれが音楽なのである。われわれは稀なことではあるが、非常に美しい音楽を聴いたとき、心が洗われる思いがし、懐かしさに胸が高鳴り、すべての人を愛せるかのような、そんな愛と調和の経験をすることがある。そのときは、死ぬことさえあまり恐ろしいとは思わない。むしろ、愛する人のためなら喜んで死んでもいいという気さえ起きる。求めるものなど何もなく、ただ生きていること自体が喜びとなっている。
  音楽による魂の調律とは、まさにこういうことだ。そしてピタゴラスが求めていたのは、そんな音楽だったのである。
  このように、魂を調律させるような音楽を「調律音楽」と呼ぶことにする。これは、一種の共鳴現象である。同じ振動数を持つ音叉同士が共鳴し合うように、また似たような考えや信条を持つ者同士が共鳴し合うように、魂は調和に接することで共鳴し、それによって自分自身も同じ調和であることに目覚めるのである。これは「共鳴の原則」である。共鳴の原則とは、共鳴し合うもの同士はお互いに似ているということ、そして自分と似たものに接することで、自分自身の本当の姿に目覚めるということだ。

関連してこちらもどうぞ → 朱に交われば赤くなる
続きを読む

魂をめぐる物語

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1311-11.html
<転載開始>
魂をめぐる物語
   
ゲーリー・ズーカフ・著  坂本貢一・訳  サンマーク出版
 信頼すること

  「創造主に、自分がほしいと思うものを与えてくれるよう、お願いしなさい……」両親は娘に言いました。「創造主は、必ずそれにこたえてくれるから」
  彼らは、娘がまだ赤ちゃんのころから、そう言いつづけていました。そしていまや、娘は7歳になっていました。
  「私、創造主にお願いしたの」ある朝、娘は言いました。
  「何をお願いしたの?」両親は尋ねました。
  「私の誕生日に、雪を降らせてくださいって」
  そう言って彼女は、クスクスと笑いました。両親は「これは困った」という表情で見つめ合いました。娘の誕生日は7月で、彼らは砂漠に住んでいました。砂漠の7月は、言うまでもなく、寒くはありません。
  2週間後、誕生日に友だちがたくさんやってきて、楽しい時間を過ごし、帰っていきましたが、雪は降りませんでした。しかし、少女はちっとも悲しそうではありませんでした。
  「創造主がこたえてくれなくて、がっかりした?」両親は彼女に、やさしく尋ねました。
  「彼はこたえてくれたわ……」彼女は言いました。「彼は言ったの。そんなことはできないって」
  ある人たちは、創造主を宇宙と呼び、それがどのように機能するかを知っている、と考えています。この少女の両親のようにです。そして、2人同様、いつも落胆しています。
  「人生とは、どうしてこうも、うまくいかないものなのだろう?」彼らがとても得意とする自分への問いかけです。
  「宇宙は私に、何でこんなことをしてくるの?………」彼らは言います。「こんなの不公平じゃない!」
  そのような人たちと、先ほどの少女の違いは、「信頼」にあります。彼女は、宇宙からのあらゆるこたえに満足しています。でも、彼らは違います。彼らは、宇宙とはかくあるべきだという、勝手な考えをもっています。そして、その考えから外れたことが起こると、心を乱します。

 宇宙は心強いパートナー

  インドの伝説のなかで、インドラは天を治める神です。ある日、彼は地を訪ねることに決めました。そして彼は地を訪れたのですが、いつになっても天に戻りませんでした。ほかの神々は心配になり、使者たちを地に送り、彼を捜させました。
  やがて、使者の一人が彼を見つけました。インドラは豚になっていました。
  「インドラ!」その使者は叫びました。「戻ってきてください! 天がバラバラになってしまいます!」
  「戻る?」インドラは驚いて言いました。「そんなこと、できるわけないじゃないか! 私には、面倒を見なくちゃならない雌豚と子豚たちがいるんだから」
  インドラは、自分が誰なのかを忘れていました。その使者は、どうにかして、彼にそれを思い出させなくてはなりませんでした。
  あなたにとって、宇宙は心強いパートナーです。それは、あなた自身にとっていちばん大切なことをあなたが思い出すように、親身になって手助けしてくれます。そのことを信じることが「信頼」です。
  あなたは、自分にとって何が最善であるかを知っている、と考えているかもしれません。でも、宇宙は、あなたが知らないことも知っています。インドラは、自分を豚だと言い張りました。あなたは自分を何だと言い張るのでしょうか?
  宇宙は、あなたに、恐れることや怒ること、悲しむことなどを指南したりは決してしません。それは、インドラを捜しにきた天からの使者のように、常にあなたを、可能な最高の生き方ができるように導こうとしています。「信頼」とは、それを知っていることなのです。


関連してこちらもどうぞ → 欲望を手放し、宇宙を信頼すること
続きを読む

運命を拓く――天風瞑想録

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1310-05.html
<転載開始>
運命を拓く――天風瞑想録
   
中村天風・著  講談社
恐怖への戒め

  今日は、人生、人として生きていくときに、何をおいても一番戒めなければならない重大なことを語ることにしよう。それは“恐怖”ということである。
  恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。ところが、今までのあなた方は、ちょっとでも体が悪いとすぐ戦(おのの)き、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それがとてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。
  このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。因果律の法則で、どうしても、そうなるように宇宙真理が出来ているのである。
  ベーコンという哲学者がいった言葉に、「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」というのがある。これは正に、このコンペンセーション(報償)の法則が必然的のものであるという信念で人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。
  宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中して注がれると、咄嵯にそれを「現実のすがた」に表現しようとする自然作用があるのである。
  瞬間的でも、観念が集中されたとすると、宇宙霊の力を受け入れる“鋳型”が用意されたことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。感情というものは、その種類がいかなるものであろうと、我々の肉体や人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
  だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持ってくる。中でも、この恐怖というものは、一番の印象力をもっているのであるから、早晩、その怖れている事柄が現実になって、形象化されるのが当然である。
  嘘でない証拠に、回復のはかばかしくない病人をジッと見ていると、誰でも、思ったり考えたりしている事柄がすべて消極的である。わずかなことにもビクビクして、ちょうど水の上を、重い荷物を持って歩いているような気持ちで生きている。「到底一生、健康なんかになれるはずがない。一生こうして苦しめられ続けて死んでしまうんだ」というように、人生を極めて消極的に独り決めし、何事に対しても、少しも安心していない。因果律の法則は、そういう考え方をしている人に、不健康や、不運命を、最も“苦い”形で作り上げてしまうのである。
  反対に、一切の雑念妄念を統制し、自分の人生を積極的に断定して生きる人は、よしや健康を損じたときでも、不運に直面しても、そのことを恐怖で考えない。だから、因果律の法則によって、より良い事柄が現実に姿を現わしてくれる。
  結局、やたらと物事を恐怖観念で考えるのは、「宇宙霊と人間との関係を強く信ずる」という信念が欠けているからである。だから、人間を弱い方面からのみ考えずに、もっともっと強い方面から考え直すことである。つまり「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、自分と共に在るんだ!」というようにだ。
  ちょっと何か恐怖的に物を考えるような観念が出たら、積極的言葉で吹き消してしまいなさい。「自分の尊い生命を守ってくれる心の王座には、恐怖というような悪魔は入れないのだ!」と。


同じ本からこちらもどうぞ → 『運命を拓く』
続きを読む
記事検索
情報拡散のため1回ポチッとクリックお願いします。
人気ブログランキングへ
RevolverMaps
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新記事
最新コメント
カテゴリ別アーカイブ