大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

歴史&古代史

昭和日本のおバカなテロと戦争 その4

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/b01d4f9f4ef8ac01100a89df3ea7aeaf
<転載開始>

日本人の敵は「日本人」だ

 

●南京事件(昭和12年12月13日)
   奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。
   杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥
  で獰猛な軍人のなせるわざであった。米内海相、広田外相の
  外交上の苦労は推して知るべしであろう。(なお外相広田
  弘毅は和平に熱心ではなかったという説もある。最近の文献
  では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)
 
  ※ 11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のま
   まで、宣戦布告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
   第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)
   は、その上司多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京
   其ノ他ヲ攻撃セシムルコトヲモ考慮シテ居リマス」という
   説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷く紊乱していた。
   当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けない軍
   にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして
   最後の倫理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵
   されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、暗然とせ
   ざるをえない事態であった。
   南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途
   がまったく立たなくなるということさえ予見できない無知
   無能連中が参謀本部を支配していた。

続きを読む

昭和日本のおバカなテロと戦争 その5

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/6a6026a6fefb1c1723d3aae088d40341
<転載開始>

日本人の敵は「日本人」だ

<希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)>
  帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
  此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出
  来ない。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後に
  は政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後に
  は国民も亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程
  強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。尚
  其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば
  江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きもの
  ではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全
  国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。
  然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何を
  なしたか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を
  擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦
  うの意気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六
  十年の歴史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先き
  にと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類
  例を見ざる醜態である。

続きを読む

昭和日本のおバカなテロと戦争 その6

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/db8afaecc22597dacf9e0452620a2454
<転載開始>
 ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦
  課長、辻政信班長(この3人の徹底した対米開戦派に牛耳
  られていた)。
   ○特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。
   ○服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか
   敗戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて
   再軍備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世
   も存在するものだ。
   ○このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げて
   おこう。
   荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、
   福栄真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、
   牟田口廉也
  ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣
   「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
   この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、
  憤慨しつつ獄中で亡くなった。東郷外相は、外務省によっ
  て戦犯にされたという疑いが濃厚なのである。
 
  ★[無残な結果]
  真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
  南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
  ●「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12)
  完璧な言論統制
  ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
   司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。
  シンガポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、
  日本軍は住民から言葉を奪った。
   山下奉文:「これから、お前らを天皇陛下の赤子にして
      やる。ありがたいと思え。・・・」
  ●比島攻略戦開始(S16.12)
   フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦
  までの3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
続きを読む

昭和日本のおバカなテロと戦争 その7

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/1132a4658071e43dbc6a47b0a06cdcb9
<転載開始>

日本人の敵は「日本人」だ

大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただち
  に参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握
  り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大
  本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の
  悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていた
  のだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
  ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22~)
   比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000
  人はレイテ島の攻防戦で死亡した。
   首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活
    動した)
  ●レイテ湾奇襲作戦 (S19.10.24~25)
   小沢囮艦隊の快挙あるも、栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。
   西村艦隊壊滅。
   戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.24 07:35)。
   日本の空母全滅。
   特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。
  ●「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進
   和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2
  個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しか
  もいずれはこれにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという
  愚劣で卑劣極まる作戦。(もちろんコスト・ビニフィットは最悪
  だった)
  ●東南海大地震(S19.12.7)
    1944年12月7日の東南海地震の震源は紀伊半島沖の海底深さ約
   40kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大
   津波が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れ
   と津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は
   1223名にのぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあっ
   たためにあまり詳しい記録は残っていない。
   (http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e
     /bec8cef008010403e54c26f14a432c4a より。H18.4.12)

続きを読む

昭和日本のおバカなテロと戦争 その8

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/9fb356a3f870ca3d5336ae163d36d847
<転載開始>
  ●陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
    全軍将兵に告ぐ
    ソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す
    名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望
     歴然たり
    事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ
     抜かんのみ
    仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦
     ふところ死中自ら活あるを信ず
    是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救
     国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て
     醜敵を撃滅せる闘魂なり
    全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而し
     て又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
       昭和二十年八月十日  陸軍大臣
    「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で
   指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではな
   いだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではな
   い。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自ら
   の無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍
   部が国をこの破滅に陥れたのである。(高見順氏著『敗戦日記』
   中公文庫、pp.294-295)
  ●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
   ●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
    敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、
   国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。

  ●731石井細菌部隊の残虐性、神風特攻隊、人間魚雷、
   竹槍訓練・・・等々。
   ●敗戦後の特務団の山西省残留
   9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。
   しかし蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍
   司令官澄田懶四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国
   民党に協力させ八路軍(中国共産党)と戦わせようと図っ
   た。
    結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年
   間共産軍(毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著
   『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)
  ●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
   スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日
  本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処
  理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリン
  の思いつきから生まれた公算が大きい。
    (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)続きを読む

昭和日本のおバカなテロと戦争 完

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/bbfefd7c1c6282d052140345709f6a51
<転載開始>

ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽
  象的な言葉ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の
  友人の多くを戦争で失っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は
  多くの日本の青年を殺し、私の貴重な友人を殺した。私自身が生
  きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は自然の災害ではなく、
  政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私は、彼らと
  彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。
   こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の
  自由意志を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る
  原因だと批判したのである。
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p134)


 
  ●前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を
  大本営(現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯
  言をもってごまかし続けた。(この戦争の中に、現在の日本の姿
  が全て凝縮されていると感じているのは筆者だけだろうか?)
 
   はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直
  属隷下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍
  の隷下に移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らな
  かった。師団の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、そ
  の上に南方総軍があり、そのまた上に大本営があるといったぐら
  いのことは知っていたが、自分の部隊が十五軍の下であろうが三
  十三軍の下であろうが、どうでもよかった。奥州町の萩原稔は、
  上の者がちっとばかり異常であったり馬鹿であったりしたら、そ
  れだけでたちまち何千何方の者が殺されるのが戦争だと言う。大
  東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐらいでやれるものではな
  く、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令官だの師団長だのが、
  自分にできることで、ほんのちょっとでも異常や馬鹿から脱すれ
  ば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。その良いほう
  の見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たとえば第十
  五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。
   (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫) p.140)

続きを読む

なぜ日本は戦わねばならなかったのか

達人さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/f31fc65f3fb79d40b0084d99db4a5e7f
<転載開始>

http://web.archive.org/web/20170502094315/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/325.html

「なぜ日本は戦わねばならなったのか」 
 
ENTEE MEMO

伝統数秘学批判

課題が見いだされる庭園

ブログの作者

「何人も孤島ではない。何人も独りで完全ではない。人はみな大いなる陸のかけら──そのかけらが波によって奪われ欧州の土が無くなるのは、さながら岬が失せるようだ。あなたの友人やあなた自身が喪しなわれてしまうようだ。誰が逝くも、これに似て自らが死に往くに等しい。何故かならば、我もまた人類の一部であるが故に。だから訊かないで呉れ給えよ、誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、と。それはあなたの為に鳴らされるのだから。」 それにしても「人類は孤島ではない」という言葉ほど、われわれ人類の「一蓮托生」性を表し、共感を誘う言葉はない。そのフレーズは様々なところで引用され、場合によってはジョン・ダンの意図から離れた意味で使われていることもあったに違いない。そしてこの宣言文自体がその範疇から免れぬ可能性がある。 Archivelago主催はこう言う。「人類は絶海の孤島ではない。全体の一部である。すべての人間は、列島を成す島の一つ。すなわち海面下に存在する主要な山脈の一部なのだ」と。 「大いなる陸のかけら」と人類を視た我がジョン・ダンは、流れ行く時間軸というもう一つの捉えられざる次元を勘案することこそはなかったが、現在の、あるいは当時の、ある特定の歴史的瞬間の断面に現れた人類という大陸と、大洋に浮かぶ孤島の群れとしての個人や民族を、そしてそれ自体を成す大陸や岬を、視たのだった。そして、それが一つの大いなる塊(かたまり)であり、魂(たましい)であることをおそらく語ったのである。 だが、Archivelagoはこの類い希なる名言を吐いたジョン・ダンに大いに崇敬の意を払いつつ、このように続ける。 人類とその歴史を、すなわち高さや奥行きをもった瞬間的存在である平面を、平面の垂直方向、すなわち時間軸上に連続的に無限に配置したものであり、三次元的な厚みをもったモデルであると視る。(ジョン・ダンが視たものは、すなわちこのモデルの切断面である。) そして、その時間軸上に伸びて長さをもった人類史の実体は、大陸のような実体としての核があり、その表面の大部分を満々たる水が覆っている。つまり、実体の大部分は海底に横たわるものとして存在する。標高高く大洋の表面から陸地が飛び出せば、われわれの意識の網膜に刻まれ認知できる現象として記録・記憶される。多くの場合は、その行為の意味を問わない職人たちの絶え間ない努力によって、そして時として宗教的な霊感や霊視として通念上受け入れられてきた千里眼的な能力、さらに、近代以降は「天才」と現代人がしばしば呼んでいる人物らの新たな表現手段の発見や工夫などからも多いに触発を受けながら、帰属する民族、社会の通念、信仰の相違を容易に突破する超人的な洞察の内容を伝えてきた。 そして、その記憶がわれわれの歴史(history of art)として認識されているものである。そして、おそらく海面上に現れないものは、かつて人類が「無意識」と名付けた大いなるものである。つまり、そこにありながらわれわれには意識されないために、不当にもそのように名付けられた実存体がその長さをもった本体として通底するのである。 すなわちArchivelagoは、いくつかの島々が孤立して、ひとつひとつ時間的な隔たりを経て、海面上に現れた飛び石のように一見ランダムに配置されているのを視る。だが、海面上に突き出ているそれら絶海の孤島のように見えるひとつひとつの島々は、その海面下では一つの厚みのある長い山脈として繋がっているのである。そして、その島々は時間軸上に辿って行くと、視覚的には距離のあるものとして、時間的には隔てられたものであるように見えながら、無関係ではあり得ない。 誤解を恐れずに換言すれば、この山脈の名前こそが、伝統的な動作、言葉、文字、色、形などの「表現」や「創作物」を介して過去から現在まで、絶えることなく脈々と伝えられてきた大いなる徴のことである。 この僅かに芸術の名で呼ばれるにふさわしいもの(ふさわしいと信じられているもの)は、実は大いなる芸術的本体(the body of Art)の、「五感に触れる部分」に他ならないことを肝に銘じつつ、それを自覚的に未来に伝えて行くという役割を担う運動として、ここにArchivelagoの礎が置かれるのである。 すなわちArchivelagoは、過去より伝えられてきた特定の意味を持った「目に見え耳に聞こえる表象」が「目に見えず耳に聞こえぬ水面下」において根源的につながっていることを表す造語である。Archiveは、あらゆる保管・記録された「作品群・書庫・文書」を表し、Archipelagoは「諸島・列島・群島・多島海」を表す。Archivelagoとは、表現創作物群(archives)をつなぐ、1万年を超える時間軸上に連なる「群島」の別の謂いであり、前掲の理念自体を象徴している。「保管庫列島」「コトノハ群島群書島」。 そして、Archivelagoは、表現ジャンルを問わず、その具現化の下では繋がって共通の聖なるものの顕現(ヒエロファニー)として機能する作品群の総称である。(ブログの作者より)
続きを読む

ロシアとウクライナの起源

ロシアとウクライナの起源
https://www.youtube.com/watch?v=GaYvWP0Vn1U

ジオヒストリー

続きを読む

ロシア革命の活動資金を誰が支援し、レーニンら革命政府の指導者は最初に何を実行したのか

名無しさんより情報を頂きました。

なぜロシア人とハザール人(偽ユダヤ)が対立してるのか、ここを読めば理解できる。

元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb500.html


ちなみにロシア革命はユダヤが金と人を出して、ロシア人を虐殺した。
ここ面白い。
https://shibayan1954.com/history/russian/lenin-1/


続きを読む

三島由紀夫が目にしていた日本の戦前と戦後

eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)さんのサイトより
https://ameblo.jp/ymhkobayasis/entry-12778671213.html
<転載開始>

三島由紀夫という方は、作品とその生き方そのもので、日本人にとって忘れることのできない人物です。

 

 

彼の作品の凄さ、見事さや哲学において、彼に比肩する作家は日本にはいまだ現れていないのではないのでしょうか。

 

 

■三島由紀夫の幼少期から青年時代までの日本

三島由紀夫は1925年(大正14年)1月14日生まれ。

 

幼少期から青年期にかけて、昭和恐慌(1929年)、五・一五事件(1932年5月15日)、二・二六事件(1936年2月26日)、日中戦争(1937年~1945年)太平洋戦争(1941年~1945年)など、日本の最も暗い時代を過ごした。

 

終戦の年がちょうど20歳のときです。

 

 

■三島由紀夫が目にした戦前の日本

 

宮崎駿監督がジブリ作品として最後に描いた「風立ちぬ」をご覧になった方も多いかと思いますが、時代背景としてちょうどこの時代が描かれていましたね。

 

「1920年代の日本は不景気と貧乏、病気、そして大震災とまことに生きるのに辛い時代であった」とあります。

 

 

大正末期から昭和にかけ、日本では3つの「恐慌」が続けて起こっていました。

 

「恐慌」とは、「大量生産や過剰な設備投資により生産と消費のバランスが崩れ、景気が大きく後退し、株価暴落や企業倒産、失業が大規模に発生し、経済に深刻なダメージを与える」などの現象と説明されています。

 

1929年、世界恐慌が起こった後に日本では金解禁が断行され、正貨が大量に流出し、企業の倒産、賃金の引き下げが起こり、深刻な恐慌を招いたとされ、「昭和恐慌」と呼ばれている。

 

「昭和恐慌」以前に、第一次世界大戦終結で日本経済不況へと連絡した「戦後恐慌」(1920年~)や1923年の関東大震災発生によって起こった「震災恐慌」(1923年~)では第二次山本権兵衛内閣はモラトリアムを発令し、さらに政府は日本銀行に特別融資を行わせ、恐慌の鎮静化を図ったものの決済が不可能となった手形(震災手形)が発生し、不況は慢性化していた。

続きを読む
記事検索
情報拡散のため1回ポチッとクリックお願いします。
人気ブログランキングへ
読者登録
LINE読者登録QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新記事
最新コメント
カテゴリ別アーカイブ