大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

武士道

社員は家族だ 出光佐三

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2217.html
<転載開始>

出光佐三氏
出光佐三


百田尚樹さんの「海賊と呼ばれた男」がベストセラー殿堂入りしたそうです。
このお話は、出光興産の創業社長、出光佐三氏を題材としたものなのですが、実はねずブロでも、いまから4年前の2010年3月22日に、同氏のことを書いています。

小説よりも短いものですが、ある程度の人物像と経緯経過がわかり、たくさんの学びがあろうかと思います。
消費税増税がスタートし、なにかと不安のある今日この頃ですので、ちょっと元気の出るお話として、再掲したいと思います。

========

「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。
東京12チャンネルの番組です。
この放送は、昭和39(1964)年8月から続くご長寿番組で、当時、TBSとの専属契約を打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団の活動の場を与える意味で始まった番組です。

この番組は、番組途中でCMを入れない構成であることでも知られていて、現在もそれは守られています。
番組スポンサーは出光興産です。
一社だけの提供です。

番組途中でなぜCMが入らないかというと、番組スポンサーの出光興産元社長、出光佐三(いでみつさぞう)氏の「芸術に中断は無い」という考えに基づくのだそうです。
出光佐三氏は、出光興産の創業社長です。

その出光佐三氏に有名な言葉があります。
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「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国」(田中正造)

るいネットさんのサイトより

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=287855

「赤子の泣くのは俺の心が泣くのだ」

<転載開始>

月刊日本が、三年目にあたる2014年3月号で、特集を組んだ。主幹による「巻頭言」が公開されている。その紹介です。

【巻頭言】 再び言う!「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国」(本誌主幹・南丘喜八郎)
リンク

以下引用・・・・

三年前の三月十一日、東日本大震災が東北地方を襲った。大地震、沿岸地方を飲み込んだ巨大津波、加えて福島第一原発事故は東北地方沿岸部を壊滅させた。被災地の惨憺たる状況は三年後の今も変わらない。政権は民主党から自民党に代わったが、政治の無策は続く。復旧復興の展望は未だ見えず、被災者は厳寒の仮設住宅の中で凍え、呻吟している。明治時代、足尾鉱毒事件に全人生を賭して立ち向かった田中正造の言葉を想起する。

「亡国に至るを知らざれば、即ち亡国」

我が国はいま、田中正造の言う「亡国」の渕に立っている。一昨年以来、領土問題や歴史認識問題で中国と韓国と激しく対立、殊に中国とは尖閣諸島をめぐり一触即発の状況にある。だが、いま言う「亡国」の危機とは、中国など外国からの武力攻撃ではない。より重大な内的危機である。それは国民、就中国政に当る政治家が当事者意識を喪失、他人任せの無責任状況に陥っていることだ。これこそが、いま直面している「亡国」の本質なのだ。

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黄海海戦と武人伊東祐亨の物語

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2016.html#more
<転載開始>
伊東祐亨(いとうゆうこう)
201103240120348b9


最近ではかつての「聯合艦隊」のことを、「連合艦隊」と書くのが通例となっていますが、実はこの二つは意味が違います。
連合の「連」は、単に車が道に連なっているありさまをあらわす字です。
けれど「聯合」の「聯」は、糸が複雑に絡み合っている姿をあらわします。

つまり各船舶が、互いに有機的に結合して祖国防衛にあたる。だから「聯合」です。
ただ船が一列に並んでいるのとは、意味が違うのです。
その聯合艦隊は、日本海軍の総力を結集した大艦隊です。
ですから特に、天皇に直属する連合艦隊司令長官がこれを統括しました。

その聯合艦隊の、初代司令長官に就任したのが、今日お話しする、薩摩出身の伊東祐亨(いとうゆうこう)です。
伊東祐亨は、天保14(1843)年、鹿児島城下清水馬場町生まれの薩摩隼人です。
実に魅力的な、日本男児です。

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日本人の本能

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1305-07.html
<転載開始>
日本人の本能
歴史の「刷り込み」について
渡部昇一・著  PHP研究所  1997年刊
祖国への誇りから生じる品格
  さて、個人個人が自助の人であり、立派な人であれば、そのまま国家として見た場合にも「品格」があるといえるのかという疑問が一方で湧いてくる。やはり国家として見た場合には、個人とは別に、「ナショナル・キャラクター」(国民性)を特徴づける何かが存在するのではなかろうか。それでは、自助の精神に裏打ちされた個人個人は、いかにして国レベルでの品格をも備えることができるのだろうか。
  これを解く鍵として、私は再度スマイルズの『品性論』を繙(ひもと)いてみた。彼は次のような趣旨のことをいっている。
  「国としての品格は、自分たちは偉大なる民族に属するという感情から、その支持と力を得るものである。先祖の偉大さを受け継ぎ、先祖の遂げた光栄を永続させるべきだという風土がその国にできあがったときに、国家としての品格が高まる」(渡部訳)
  スマイルズのこの主張をもとにして、わが国日本という国家、日本人についての検討をしていくことにする。
  (中略)
  日本人としての新たなる指針を打ち出すためにも、黒船が来た辺りからの日本人に焦点をあてて、その特徴や特性を抽出していくことにしよう。すると、かつて日本人は案外と西洋人の尊敬を得ていたことに気がつくのである。

畏怖感を与えた日本の武士
  たとえば、19世紀頃のシナや朝鮮にいた西洋人というのは、シナ人や朝鮮人を軽蔑することしか知らなかった。なぜなら、李朝末期の朝鮮の汚さは、まさに言語に絶したものだったからである。このことについては西洋人による研究も数多くあり、それについては『日本の驕慢 韓国の傲慢』(渡部昇一・呉善花共著、徳間書店)にもいくつか引用している。一方、同時期の日本はといえば、全く軽蔑されることはなかった。というのは、目に見えるところでは清潔であったというのである。玉川上水などの上水道がいたるところで整備され、都市の庶民でも24時間きれいな水を飲むことができたのである。
  そして、西洋人をもっと驚かせたことは、日本人は決して卑しくなかったことである。日本に来た宣教師は、日本という国においては、お金は万能ではないのだということに気がつき、非常に感心している。日本には武士という人たちがいて、それは必ずしも金持ちではない。一方で、商人というのはたいそう金持ちである。にもかかわらず、金持ち必ずしも貧乏な武士に威張ることはできない。こうした富よりも強い道徳があるようなこの国は、なんとも神に近い存在であるという趣旨のことをいって褒め讃えている。
  また別のエピソードとして次のようなものがある。万延元年(1860年)の春、数名の大名が使節としてアメリカに送られた。その中の正使新見豊前守正興などの評判がすこぶる良いのである。生まれつきの大名というのは、子供のころから善意の人間しかいないところで育ってきているためか、ずるいなどという感覚を全く持っていない。それが異国の地にいる人々にも伝わるのである。
  評判がいいのは大名だけではない。彼に同行した武士についても同じである。武士というのは、辱められたらいつでも死ぬ覚悟ができている集団である。だからこそ、どこへ行っても決して辱められるようなことにはならなかったのである。
  さらに一層、西洋人が感心したというエピソードがある。幕末期、薩長と江戸が戦争を起こしたときであった。フランスは当時、鉄工所などを作る手助けをしていた縁で、幕府側すなわち江戸を助けたがった。一方、イギリスは薩長の方を助けたいと願い出た。
  さぞかし薩長も江戸も喜んだだろうと思いきや、両者とも「結構です」といってせっかくの申し出を断ったのである。けんかをするのに外国の助けはいらない、何がなんでも勝てばいいという問題ではない、下手に助けられでもしたら、その後どんな落とし前をつけさせられるか分からないと考えたからである。
  これを聞いて、英国公使ヘンリー・スミス・パークスはそれまでの態度を一変した。なんと立派な国民なのか、と。パークスは長い間シナ人を相手にしており、そこから得ていた教訓とは、シナ人には怒鳴らなければならないということであった。きっと同じ東洋人なのだから日本人だって怒鳴りさえすればいいだろうと思っていた。ところが日本人には利かなかった。下手に怒鳴ると逆に殺されかねない。無礼なことをすれば殺される。そして責任をとらせると、日本人は皆、堂々と腹を切る。事実、パークスは腹を切るところを見せられたのである。
  これを見れば日本人に畏怖を感じずにはいられない。これまで他のどの有色人種に対しても決して持ち得なかった畏れを初めて起こさせたのである。ここに、日本人の「品格」と呼ぶべきものを感じることはできないだろうか。

ひとくちコメント ―― ここに紹介されているような日本の「品格」は、いまやアメリカ(を裏から支配する勢力)によって完膚無きまでに打ち砕かれてしまいました。この本を読みますと、かつて西洋人を畏怖させた日本国民の品格の源流には、やはり「武士道」の精神があったことがわかります。今はもう国としてそのような日本人の品格を取り戻すことはできないと思われますが、私たちの偉大な祖先が築いてきた日本の品格を誇りに思うと同時に、自分の身近なところからでも、それを守っていく努力はしていきたいものです。(なわ・ふみひと)
<転載終了>

会津武士道

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1305-02.html
<転載開始>
会津武士道
「ならぬことはならぬ」の教え
星亮一・著  青春出版社  2006年刊
遊びの什
  会津藩の子供は6歳から勉強を始める。
  午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、1カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。1人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。
  仲間は10人1組を意味する「什(じゅう)」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。
  遊びの集会場は什の家が交替で務めた。
  1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。

 一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。
 一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
 一、虚言をいうてはなりませぬ。
 一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
 一、弱い者をいじめてはなりませぬ。
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
 一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
 そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。

  この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。
  遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。
  家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。
 年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。
 このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。

厳しい罰則
  その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。
  1、無念、軽い罰則は「無念」だった。
    「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」
    と、お辞儀をして詫びた。
  2、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の
    平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。
  3、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか
    武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か
    兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひど
    く重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供では
    なく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だっ
    たのだ。
  罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、10石2人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。
  「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。
  会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。
  なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。

もっと読んでみたい方はこちらをどうぞ → 会津武士道
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現代語で読む最高の名著 武士道

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1304-09.html
<転載開始>
現代語で読む最高の名著 武士道
なぜ「武士に二言はない」のか?
新渡戸稲造  奈良本辰也/訳・解説  三笠書房
武士道は損得勘定をとらない
  軍事教練において、当然あるべきものとされていながら武士道の訓育に欠けているものに算術がある。しかしこれは封建時代の戦闘は必ずしも科学的正確さを伴うものではなかった、という事実により一応は説明がつく。だがそのことのみならず、サムライの訓育全体から見て、数の観念を育てるということは都合が悪かったのである。
  武士道は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。武士道にあっては、ヴェンティディウスがいったように「武人の徳とされている功名心は汚れをまとった利益よりも、むしろ損失を選ぶ」とさえいう。
  ドン・キホーテは黄金や領地よりも、彼の錆びついた槍や骨と皮ばかりのロバに誇りをもっている。そしてわがサムライはこのラ・マンチャの誇大妄想にとりつかれた同志に満腔の敬意を払っている。彼は金銭そのものを忌み嫌う。金儲けや蓄財の術にたけることを嫌う。
  彼にとってはそれは紛れもない不正利得であった。
  時代の頽廃を述べるときの常套句は「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」というものであった。黄金を惜しみ、生命を失うことを恐れる風潮はそれらを無駄に費やすことと同じく、非難の的となった。
  よく知られている格言は、「なかんずく金銀の欲を思うべからず、富めるは智に害あり」といっている。したがって、武士の子弟は経済のことをまったく眼中に入れないように育てられた。
  経済のことを口にすることは、むしろはしたないこととされた。そしてさまざまな通貨の交換価値を知らないことが育ちのよさのあかしとさえされた。
  数の知識は、出陣や陣立や恩賞、知行の際に欠くことができなかった。だが金銭の計算は身分の低い者に任された。
  多くの藩で藩財政は小身の武士かあるいは僧侶に任されていた。もちろん思慮のある武士は誰でも軍資金の意義を認めていた。しかし金銭の価値を徳にまで引きあげることは考えもしなかった。武士道が節倹を説いたのは事実である。だがそれは理財のためではなく節制の訓練のためであった。
  奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威と考えられた。もっとも厳格かつ質素な生活が武士階級に要求された。多くの藩では倹約令が実行された。
  書物で知るところによると、古代ローマでは収税吏や財政をとり扱う官僚がしだいに武人の階級に昇進し、その結果、国家は彼らの職務や金銭そのものの重要さに対して重い配慮を払うようになった。このことからローマ人の贅沢と強欲が引きだされたと考えることもできよう。
  だが武士道にあってはそのようなことはありえなかった。わが武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的な職業とくらべて卑賤なものとみなしつづけてきた。
  このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。
  このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である。だが惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか。

武士道は無償、無報酬の実践のみを信じる
  頭脳の訓練は今日では主として数学の勉強によって助けられている。だが当時は文学の解釈や道義論的な議論をたたかわすことによってなされた。前に述べたように若人を教育する主たる目的は品性を高めることであった。したがって抽象的な命題が若者の心を悩ますことはほとんどなかった。単に博学であるだけで人の尊敬をかちうることはできなかった。
  ベーコンが説いた学問の三つの効用、すなわち快楽、装飾、および能力のうち、武士道は最後のものに決定的な優先権を与えた。その能力は「判断と実務の処理」のために用いられることを目的とした。公務の処理にせよ、自制心の訓練のためであるにせよ、実践的な目的をもってその教育が行なわれたのである。
  教える者が、知性ではなく品性を、頭脳ではなくその心性を働きかける素材として用いるとき、教師の職務はある程度まで聖職的な色彩を帯びる。
  「私を生んだのは父母である。私を人たらしめるのは教師である」この考えがいきわたるとともに、教師が受けた尊敬はきわめて高かった。そのような信頼や尊敬を若者にいだかせるような人は必ずすぐれた人格をもち、学識に恵まれていなければならなかった。その人たるや、父のない者たちの父であり、迷える小羊たちの助言者であった。
  「父母は天地の如く、師君は日月の如し」とも説かれている。
  どんな仕事に対してもその報酬を支払う現代のやり方は、武士道の信奉者の間ではひろまらなかった。武士道は無償、無報酬で行なわれる実践のみを信じた。
  精神的な価値にかかわる仕事は、僧侶、神官であろうと、教師であろうと、その報酬は金銀で支払われるべきものではない。それは無価値であるからではなく、価値がはかれないほど貴いものであるからだ。
  ここにおいて武士道の、算術で計算できない名誉を重んずるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人びとに教えたのである。
  賃金や俸給は、その仕事の結果が明確で、形があり、計数で測定できる場合にのみ支払われる。しかしながら、教育における最良の仕事、あえていうならば精神の高揚にかかわる仕事(この場合、神官、僧侶の仕事も含む)は明確でもなければ、有形のものでもなく、また計数で測定しうるものでもない。計数で測定できないものに対して、価値の外面的な計量方法である金銭を用いることはきわめて不適当である、というのである。
  もっとも1年のうちのある時季に、弟子たらが彼らの師になにがしかの金銭や品物を持参する慣習は認められていた。だがこの慣例は支払いではなく、感謝の意を表わす献上の金品であった。そして、じつのところは、それらの金品は贈られた側にも大いに喜ばれた。というのは、彼らは通常、厳格さと誇りある貧乏で知られており、さりとて、みずからの手を用いて働くにはあまりにも威厳がありすぎ、みずから人に物を乞うには自尊心が強すぎる人びとであったからだ。
  彼らは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。彼らはまた学問がめざすところのものの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。そしてその自制心はサムライにあまねく必要とされるものであった。

ひとくちコメント ―― 一般的に「大和魂」と呼ばれている価値観の根底に「武士道」の思想が流れていると見られます。その武士道は長年にわたってわが日本民族の精神を形づくってきましたが、幕末・維新と太平洋戦争(大東亜戦争)という2つの大きな破壊攻撃を受けて、今日では跡形もなく消滅しつつあります。昨今の世相を見ていますと、日本人はかつて美徳とされた「武士は食わねど高楊枝」という諺の意味さえ理解できない「拝金主義」の国民にされてしまったような気がします。それにしましても、ここまで徹底してこの国を堕落へと導いた世界支配層の分析力と戦略の巧みさには、怒りや恐怖を覚えるというより、むしろ「敵ながらあっぱれ」と舌を巻かざるを得ません。(なわ・ふみひと)
<転載終了>

人類は21世紀に滅亡する!?

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1005-1.html#10
<転載開始>
人類は21世紀に滅亡する!?
糸川英夫・著  徳間書店  1994年刊
乃木大将にみる日本人の資質
  1994年4月号で月間「文藝春秋」が一千号記念を出しています。
  そのなかで、唯一、感心したのは司馬遼太郎さんの論評でした。あの人は日本の最高の科学者です。つまり、ものの見方、考え方が合理的です。論じ方がサイエンスです。
  さて、司馬遼太郎氏の最高傑作の一つは、乃本希典を描いた『殉死』でしょう。そのなかのこんな話に、私はうたれました。
  乃本希典は、日露戦争において旅順攻撃で勝利をおさめ、ロシア側の将軍ステッセルに降伏調印のサインをさせました。ちっぽけな日本が大国ロシアに戦勝したということで、終戦の調印の瞬間を伝えるために、世界中のマスコミが殺到したのです。
  このサインする瞬間を撮影するためにカメラの場所どりでたいへんな騒ぎでした。東京政府に圧力をかけて、順番に撮影場所を決めるという取り決めができるほどでした。
  ところが乃本大将は、そうした要求にすべてノーといったんです。
  「武士たるもの負ける瞬間はたいへんな屈辱の瞬間だから、誰にも見せない」
  と部屋の中に誰も入れないでサインさせました。
  「終わったあとで、敵将に軍刀を返してから、表で軍刀を杖にして並んだ写真なら撮らせます」
  とつっぱねたのです。これに東京政府は逆上したそうです。
  つまり、当時の日本政府は外国から借金をして日露戦争を戦っていましたから、これでは債権国に悪いと思ったわけです。
  ところがこれが逆でした。
  当時のニュース通信社やマスコミは、
  「日本にはまだ騎士道(武士道)というものがある。ジェネラル乃木という人は、我々が忘れている騎士道というものを持っている」
  ということでたいへん感動したのです。
  彼は日本人を救ったたいへんな人物だったわけです。このころ日本人だけが武士道(騎士道)を保持していたことを世界に示したわけです。
  戦いに勝った人は普通は得意になって、なかなかそうした態度はとれないものです。第一次世界大戦中に戦勝に際しての日本の態度も横柄なものが多かったようですし、ミズリー号艦上での日本側代表に惨めな姿で敗戦受諾の調印をさせたアメリカの態度も、決して武士の礼を尽くしたとはいえませんでした。
  あれが当たり前の国にとって、乃木はそうでないというのは非常に衝撃だったのです。
  乃木大将が亡くなったとき、世界は最後の義人を失ったということで、世界中の政府と新聞社は半旗を掲げて死を悼んだといわれているのです。乃木大将は明治天皇が亡くなった翌日に殉死しました。モラルのエッセンスみたいな人でした。
  司馬さんはそのことを小説に書いているのです。私がこの本を読んだのはエルサレムでした。PLOについての調査で行ったときです。日本人の学生が集まる寮に偶然、司馬さんの本が置いてありました。乃本大将のことを書いてある珍しい本だったので、借りていって、一晩で読んだのです。司馬さんは考え方が日本人としてはずば抜けて科学的な人間です。
  日本人でこういう考え方をする人がたくさんいたら、日本の政治や経済は大丈夫だと思います。
  私は、この乃木大将やそれを理解する司馬遼太郎氏のような考え方をベースにして、人類が滅亡しないための日本発のメッセージをつくりたいと考えています。

ひとくちコメント ―― かつてはよく知られていた逸話ですが、いまでは話題にする人もいなくなってしまいました。教科書では、日露戦争そのものの記述も、当時の日本が好戦的であったがために起こした戦争であるかのような記述になっているようで、まさに自虐史観が植え付けられる仕組みになっています。そういう教育を受けた人たちが今度は教育者となり、悪意のないままにこの国の歴史をゆがめていくという“負”の拡大再生産が続きます。こうして真実はますます見えなくなって行きますが、1人でも多くの人がかつての日本人の素晴らしさを語り継ぐとともに、自らもそのような生き方を目指すことが大切だと考えています。
  ちなみに、乃木大将は本来であれば「大将」の上位の階級である「元帥」という呼称になるところでしたが、戦いで多くの部下を死なせてしまったことに責任を感じて、本人がそれを固辞したと伝えられています。(なわ・ふみひと)

<転載終了>

日本人の本能

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1005-1.html#07
<転載開始>
日本人の本能
歴史の「刷り込み」について
渡部昇一・著  PHP研究所  1997年刊
祖国への誇りから生じる品格
  さて、個人個人が自助の人であり、立派な人であれば、そのまま国家として見た場合にも「品格」があるといえるのかという疑問が一方で湧いてくる。やはり国家として見た場合には、個人とは別に、「ナショナル・キャラクター」(国民性)を特徴づける何かが存在するのではなかろうか。それでは、自助の精神に裏打ちされた個人個人は、いかにして国レベルでの品格をも備えることができるのだろうか。
  これを解く鍵として、私は再度スマイルズの『品性論』を繙(ひもと)いてみた。彼は次のような趣旨のことをいっている。
  「国としての品格は、自分たちは偉大なる民族に属するという感情から、その支持と力を得るものである。先祖の偉大さを受け継ぎ、先祖の遂げた光栄を永続させるべきだという風土がその国にできあがったときに、国家としての品格が高まる」(渡部訳)
  スマイルズのこの主張をもとにして、わが国日本という国家、日本人についての検討をしていくことにする。
  (中略)
  日本人としての新たなる指針を打ち出すためにも、黒船が来た辺りからの日本人に焦点をあてて、その特徴や特性を抽出していくことにしよう。すると、かつて日本人は案外と西洋人の尊敬を得ていたことに気がつくのである。

畏怖感を与えた日本の武士
  たとえば、19世紀頃のシナや朝鮮にいた西洋人というのは、シナ人や朝鮮人を軽蔑することしか知らなかった。なぜなら、李朝末期の朝鮮の汚さは、まさに言語に絶したものだったからである。このことについては西洋人による研究も数多くあり、それについては『日本の驕慢 韓国の傲慢』(渡部昇一・呉善花共著、徳間書店)にもいくつか引用している。一方、同時期の日本はといえば、全く軽蔑されることはなかった。というのは、目に見えるところでは清潔であったというのである。玉川上水などの上水道がいたるところで整備され、都市の庶民でも24時間きれいな水を飲むことができたのである。
  そして、西洋人をもっと驚かせたことは、日本人は決して卑しくなかったことである。日本に来た宣教師は、日本という国においては、お金は万能ではないのだということに気がつき、非常に感心している。日本には武士という人たちがいて、それは必ずしも金持ちではない。一方で、商人というのはたいそう金持ちである。にもかかわらず、金持ち必ずしも貧乏な武士に威張ることはできない。こうした富よりも強い道徳があるようなこの国は、なんとも神に近い存在であるという趣旨のことをいって褒め讃えている。
  また別のエピソードとして次のようなものがある。万延元年(1860年)の春、数名の大名が使節としてアメリカに送られた。その中の正使新見豊前守正興などの評判がすこぶる良いのである。生まれつきの大名というのは、子供のころから善意の人間しかいないところで育ってきているためか、ずるいなどという感覚を全く持っていない。それが異国の地にいる人々にも伝わるのである。
  評判がいいのは大名だけではない。彼に同行した武士についても同じである。武士というのは、辱められたらいつでも死ぬ覚悟ができている集団である。だからこそ、どこへ行っても決して辱められるようなことにはならなかったのである。
  さらに一層、西洋人が感心したというエピソードがある。幕末期、薩長と江戸が戦争を起こしたときであった。フランスは当時、鉄工所などを作る手助けをしていた縁で、幕府側すなわち江戸を助けたがった。一方、イギリスは薩長の方を助けたいと願い出た。
  さぞかし薩長も江戸も喜んだだろうと思いきや、両者とも「結構です」といってせっかくの申し出を断ったのである。けんかをするのに外国の助けはいらない、何がなんでも勝てばいいという問題ではない、下手に助けられでもしたら、その後どんな落とし前をつけさせられるか分からないと考えたからである。
  これを聞いて、英国公使ヘンリー・スミス・パークスはそれまでの態度を一変した。なんと立派な国民なのか、と。パークスは長い間シナ人を相手にしており、そこから得ていた教訓とは、シナ人には怒鳴らなければならないということであった。きっと同じ東洋人なのだから日本人だって怒鳴りさえすればいいだろうと思っていた。ところが日本人には利かなかった。下手に怒鳴ると逆に殺されかねない。無礼なことをすれば殺される。そして責任をとらせると、日本人は皆、堂々と腹を切る。事実、パークスは腹を切るところを見せられたのである。
  これを見れば日本人に畏怖を感じずにはいられない。これまで他のどの有色人種に対しても決して持ち得なかった畏れを初めて起こさせたのである。ここに、日本人の「品格」と呼ぶべきものを感じることはできないだろうか。

ひとくちコメント ―― ここに紹介されているような日本の「品格」は、いまやアメリカ(を裏から支配する勢力)によって完膚無きまでに打ち砕かれてしまいました。この本を読みますと、かつて西洋人を畏怖させた日本国民の品格の源流には、やはり「武士道」の精神があったことがわかります。今はもう国としてそのような日本人の品格を取り戻すことはできないと思われますが、私たちの偉大な祖先が築いてきた日本の品格を誇りに思うと同時に、自分の足下からでも守る努力をしていきたいものです。(なわ・ふみひと)
<転載終了>

新 歴史の真実

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1004-2.html#23
<転載開始>
新 歴史の真実
混迷する世界の救世主ニッポン
前野徹・著  講談社+α文庫  2005年刊
白人と日本人の脳の違い
  改めて十六世紀から二十世紀に至る西洋諸国の非白人地域の植民地分割の歴史をたどってみて、アジア人の一人として、私は沸々と湧いてくる怒りを禁じ得ません。
  人が人を支配する。21世紀に生きるみなさんには実感が湧かないでしょうが、これが世界の歴史の真実です。白人はごく当然のように何の罪もない非白人を征服、その富を次々と収奪し、尊い生命を奪ってきました。
  それでも白人は良心の呵責は微塵も感じなかった。彼らの心の中には根っから優勝劣敗、弱肉強食の法則が刻み込まれているからです。勝てば、負けた相手を焼いて食おうと煮て食おうと勝手。勝者はどんな卑怯な手を使っても、常に正しいと考えます。
  逆に言えば、負ければ、それがどんなに正義の戦いでも悪のレッテルが貼られます。したがって、何があっても勝たなければならない。日本のように「負けるが勝ち」「騙すより騙されろ」などという生ぬるい言葉は、国際社会では絶対に通用しません。
  食うか食われるか。人を見たら敵か盗賊と思え、という生活をしてきた白人には、もののあわれ、わび、さびといった日本人特有の美意識は逆立ちしても伝わりません。
  個人主義と言えば、言葉がきれいですが、西欧で育った個人主義の思想は端的に言えば、「人を押しのけても自分の利益を確保しろ。自分以外に信じるな」という他者不信の考え方です。究極の個人主義とは、生き延びるためには、相手に何をしてもかまわないということに他なりません。欧米流の個人主義で育った戦後生まれの日本人が、他人への迷惑を考えないエゴイストになり、思いやり、公共心、道徳心をなくしたのも、当然の帰結なのです。
  白人社会は義理人情、恩義、憐憫の情などといった日本の伝統とは対極の世界です。「相手の心情を斟酌して」などと言っていると、恩を仇で返されるのが欧米的価値観です。
  自然に恵まれ、山紫水明の国で暮らしてきた日本人と、痩せた土地で争奪を繰り返してきた欧米人とでは、脳の発達の仕方も違います。欧米人は理屈や計算を司る左脳の働きは活発でも、情感、感性を司る右脳は日本人のほうが発達しています。
  たとえば、虫の音。鈴虫、キリギリス、コオロギ……私たちはさまざまな虫の音を聞き分け、楽しみます。しかし、欧米人には虫の音はすべてガチャガチャとしか聞こえず、うるさいだけです。日本人なら情緒を感じる川のせせらぎにしても同様で、欧米の人々には街の喧噪と同じようにしか感じられません。
  日本人は非常にこまやかで情感あふれる脳を持っています。対して欧米人は計算ずく、理屈では優れています。日本が欧米に手玉にとられた原因も、そもそも脳の働きの違いにあったのかもしれません。
  唱歌「青葉の笛」にまつわる物語があります。
  源平の戦いで一の谷の合戦で敗れた平家は、海へと敗走しました。平家の若武者、平敦盛(たいらのあつもり)は船に乗り遅れ、ただ一騎、馬を泳がせ船を目指しました。そこに残党狩りを行なっていた源氏の武将、熊谷次郎直実が現れます。直実の「勝負しろ」との呼びかけに応えて、敦盛は馬を返し、波打ち際で直実に組み敷かれる。我が子ぐらいの年齢、若者と知った直実は助けてやりたいと思いますが、既に味方の軍勢が迫っていました。辱(はずかし)めを受けまいと敦盛は「早く首をはねろ」という。他の者の手にかかるよりはと、心で泣きながら、敦盛の首をはねます。
  手にかけた敦盛の腰には、錦の袋に入った名笛・青葉が。直実はその前日、戦場に響く美しい笛の音を聞き、感銘を受けていました。戦場でも情緒を忘れぬ平家の武士に。その幼き若武者の命を奪ったのだと悟って、直実は世の無常を感じ、出家してその生涯をかけて敦盛を弔いました。
  私たち日本人は、馬を返した敦盛の美学にも、直実の心情にも、心動かされる情感、感受性を持っていますが、やるかやられるかの欧米人から見ると、敦盛の行動も直実の出家も愚かな行為にしか映りません。これが優勝劣敗のトラウマが刻み込まれている白色人種と、もののあわれ、義理人情、人の心の機微、憐憫の情などを大事にする日本文化、伝統の魂を持つ私たち日本人との違いです。

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現代語で読む最高の名著 武士道

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1004-1.html#09
<転載開始>
現代語で読む最高の名著 武士道
なぜ「武士に二言はない」のか?
新渡戸稲造  奈良本辰也/訳・解説  三笠書房
武士道は損得勘定をとらない
  軍事教練において、当然あるべきものとされていながら武士道の訓育に欠けているものに算術がある。しかしこれは封建時代の戦闘は必ずしも科学的正確さを伴うものではなかった、という事実により一応は説明がつく。だがそのことのみならず、サムライの訓育全体から見て、数の観念を育てるということは都合が悪かったのである。
  武士道は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。武士道にあっては、ヴェンティディウスがいったように「武人の徳とされている功名心は汚れをまとった利益よりも、むしろ損失を選ぶ」とさえいう。
  ドン・キホーテは黄金や領地よりも、彼の錆びついた槍や骨と皮ばかりのロバに誇りをもっている。そしてわがサムライはこのラ・マンチャの誇大妄想にとりつかれた同志に満腔の敬意を払っている。彼は金銭そのものを忌み嫌う。金儲けや蓄財の術にたけることを嫌う。
  彼にとってはそれは紛れもない不正利得であった。
  時代の頽廃を述べるときの常套句は「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」というものであった。黄金を惜しみ、生命を失うことを恐れる風潮はそれらを無駄に費やすことと同じく、非難の的となった。
  よく知られている格言は、「なかんずく金銀の欲を思うべからず、富めるは智に害あり」といっている。したがって、武士の子弟は経済のことをまったく眼中に入れないように育てられた。
  経済のことを口にすることは、むしろはしたないこととされた。そしてさまざまな通貨の交換価値を知らないことが育ちのよさのあかしとさえされた。
  数の知識は、出陣や陣立や恩賞、知行の際に欠くことができなかった。だが金銭の計算は身分の低い者に任された。
  多くの藩で藩財政は小身の武士かあるいは僧侶に任されていた。もちろん思慮のある武士は誰でも軍資金の意義を認めていた。しかし金銭の価値を徳にまで引きあげることは考えもしなかった。武士道が節倹を説いたのは事実である。だがそれは理財のためではなく節制の訓練のためであった。
  奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威と考えられた。もっとも厳格かつ質素な生活が武士階級に要求された。多くの藩では倹約令が実行された。
  書物で知るところによると、古代ローマでは収税吏や財政をとり扱う官僚がしだいに武人の階級に昇進し、その結果、国家は彼らの職務や金銭そのものの重要さに対して重い配慮を払うようになった。このことからローマ人の贅沢と強欲が引きだされたと考えることもできよう。
  だが武士道にあってはそのようなことはありえなかった。わが武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的な職業とくらべて卑賤なものとみなしつづけてきた。
  このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。
  このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である。だが惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか。


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