大摩邇(おおまに)

日常の気になる記事を転載させていただきます。

ひふみ神示考察関係

ミタマ磨き

大西さんより
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1534008.html#comments
<転載開始>
ミタマ磨き について掲載されていました。

かなり興味を引くと思いますよ。
以下のアドレスです。

  http://blogs.yahoo.co.jp/martingood0323/36630127.html

<リンク先より>
まず日月神示に書かれた、ある一文をご覧頂きたい。
『外国人には細かく説かねば分らんが、神の臣民には説かいでも分る身魂授けてあるぞ、それで身魂みがいてくれと申してあるのぞ。』

何か分かったようで分からない文章である。

神の臣民には説かいでも分る身魂授けてあるのに、『それで身魂みがいてくれ』とは、どう言うことだろうか?

この一文を理解するには身魂の正体を知らない限りは無理だろう。
では「ミタマ」の正体とは、どのようなモノなのだろうか?

このブログのメインテーマは『良心』である。
私はこのブログで『良心』と『心』は別モノであると定義した。
またこの定義を分かりやすく、多くの人が知っているもので説明した。

『良心』を一言で表現すれば全国津々浦々に存在する『神社』のようなモノではないかと。
そして神社を囲む木々の全てが『心』であると説明した。

これを端的に表現するなら、心の中心には良心が存在すると言うことである。
どうだろうか、これで「ミタマ」の正体が見えてこないだろうか?

つまり、先程の一文を解釈するなら、
日本人には、外国人にはない『良心』を授けてあるのだから、
その『良心』で『心』を磨いてくれと、言っているのではないだろうか。

『良心』と『心』の関係については、このブログで詳しく説明しているので省くが、
ただ一つ重要なことは、心が曇っていては良心は機能しないと言うことである。

ちょと簡単に説明する。
よく、『もう一人の自分が心の中に居る。』、こんな経験をされた方はいるだろう。
つまり自分で考えた結果に対して、まったく反対の声がするのだ。

声と言っても耳で聞こえる声ではなく、自分の頭に閃くのである。
その声こそが、『良心』の声なのである。

だが、もし心が完全に曇っていたなら、もはや良心の声は聞こえない。
聞こえてくるのは、悪神の甘い誘惑の声だけである。

だから日月神示の文中で、何度も何度も『身魂みがいて呉れ』と言っているのである。
神が日本人に与えた良心(お守り)をどうか大切して頂きたい。


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十方的想念

煩悩くん フルスロットルさんのサイトより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2345.html
<転載開始>
日月神示は「十の世界」とか「十方的想念」「十方的肉体」について述べています。これは「成十(なると)」の仕組み発動後の世界のことだと思っていますが、これはいったいどういうものでしょうか?

八の世界から十の世界になるのであるから、
今迄の八方的な考へ方、
八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、
十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。

(至恩の巻 第13帖 960)


八方的地上から十方的地上となるのであるから、
総ての位置が転ずるのであるから、
物質も念も総てが変るのであるぞ。
これが元の元の元の大神の御神策ぞ、
今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、
いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。
百年も前からそら洗濯ぢゃ、
掃除ぢゃと申してありたが、
今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。
今迄の岩戸ひらきと同様でない、
末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。

(至恩の巻 第14帖 961)


「岩戸開き」とは、この魅惑の「十の世界」へ至る通過点(特異点?)というわけです。

世間には「四方八方」という言葉がありますが、この場合、八方とは東西南北にその間の東北、東南、西南、北西の合計八方向をいい、「八紘一宇」はこの八方向を指した言葉です。ただし、これでは平面世界に過ぎない。この立体世界を指し示す言葉としてはどうも弱いし、日月神示では「十方的」と出てくるので、この八方向のことは指してはいないと思われる。

では、この八方(八方向)とは何なのか?

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10,「逆立ち」とはイロの間違いによってなったノアの洪水時、陸地は逆立ちになった

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage11.html
<転載開始>

はらひため 千城百国 精治万歳。 五十黙示録 第一巻 扶桑の巻 第六帖

 「精を治めたら千の城も百の国も万の歳まで」ということですが神様を求めるのに一番コントロールしなければならないのが性欲みたいです。私は二十数年前に日月神示に出会って神示を実践すればクンダリーニを覚醒しチャクラを開けると確信し実践してきました。しかし神示に出会う前に読んだヨーガや密教では、実習でクンダリーニを覚醒しチャクラを開くために瞑想し呼吸法を実践します。この期間のみ性欲をコントロールするよう書いてありましたのでこの時のみ性欲をコントロールすればいいと思っていました。ただし最低限のことですが、妻以外の女性との関係は厳禁と天理教で教わりました。これは守れています。そして天理教ではイロの間違いをすると10年間宗教的運命の芽が出ないと教わりました。最近日月神示をじっくりと何回も読み直し、さらにチャクラやクンダリーニの本を読み直してこれは大きな間違いであると気が付きました。神示に「逆立ち」という言葉が出てきますが、これは「人間が神を見下ろす」という解釈のみと思っていたのですが、もう一つ「性欲のコントロールをしろ」という神様の指示の解釈もできるのです。

ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。 ひふみ神示 第二巻 下つ巻 第三十七帖
 
 「逆立ち」の解釈は性欲のコントロールというのを説明していきます。次の引用文はヨガナンダ著の「ヨガ行者の一生 ヨガナンダの自叙伝」からですが、この引用は二十年前の岡本三典先生主催の勉強会で私が発表するときに発表の助けに出席された方にこのコピーを配らせて頂いたものです。その時から気に入っていた文ですがその時より深く解釈できるようになりました。ヨガナンダが師匠のスリ・ユクテスワァに聖書のアダムとイブの物語を質問したときのくだりです。

「なぜ神様は罪を犯した夫婦ばかりでなく、まだ生まれぬ罪のない子孫にまで罰を加えられたのですか」
 先生は私の質問の無邪気さよりも、むしろその態度の猛烈さにおかしさを感じたらしい。「創世記は非常に抽象的だ。それ故、文字の解釈をしただけでは意味をはっきり掴むことは出来ない」彼は説明した。
 「あそこに出て来る生命の木というのは人間の体のことだ。脊髄はその木を逆さにしたようなものだ。つまり頭髪は木の根にあたる。そして運動神経と知覚神経が枝だ。神経系統の木には、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚という美味しい果実が実る。人間はこれらの果実を享受する権利を持っている。だが彼は性の経験―つまり肉体の花園の中央にある林檎を食べること―だけは禁じられていた。」
 蛇は性神経を刺激するところのとぐろを巻いた脊髄エネルギーの象徴である。そしてアダムは理性を、イブは感情を現している。人間の感情、即ちイブが性的衝動に征服されると、理性、即ちアダムも敗北してしまう。
 「神は己の意志力を通じて男と女を物質化することによって、人間という種族を創造した。神はこの新しい種族に神と同じ様な、汚れない方法によって子供を創る能力を賦与した。個性的霊魂における神の顕現は、従来、本能に束縛され、充分な理性に欠けている動物に限られていたがために、神は最初の人間を創り、これをアダムとイブと名づけたのである。そして彼らの上昇的進化を容易にすべく霊魂、即ち神性を与えた。アダム、即ち男性においては理性が勝り、イブ、即ち女性においては感情が優位を占めている。現象界の底にある二元性ないし両極性はかくの如く表現されているのである。理性と感情は、人間の心が獣性をおびた性エネルギーに欺瞞されぬ限り、つねにともども歓びの世界に浸っているのである。
 それ故、人間は下等動物の進化したものとは全然異なり、神の特別の創造意志によって造られたものである。動物の身体は神経を充分に現すには、あまりに粗末である。だが人間には鋭く目覚めた脊髄中枢とともに脳随中の一千の花弁を持つ蓮とよばれている素晴らしい精神能力が特に与えられている。
 最初に創造された男と女の中にある神、即ち聖なる意識は、彼らにすべての官能の享受を許したが、ただ触覚の官能に耽溺すろことだけは固く戒めた。これが禁止されたのは性器の発達をさけるためであった。つまり人類をして下等動物と同様の生殖法に陥らしめないためだったのである。ところが、潜在意識的に持っているこの獣的記憶を甦らせぬようにという神の警告はアダムとイブによって破られてしまった。彼らは野獣的生殖法を再び採用することによって、完全な原人に生まれながらそなえられている天上の歓びから、追放されてしまったのである。

「ヨガ行者の一生」 147ページ 昭和57年3月30日 修正版第14版発行 著者パラマンダ・ヨガナンダ 発行者 森北肇 発行元 関書院新社  

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9、実践編 夫婦の借銭祓い理にかなった夫婦とは

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage8.html
<転載開始>

あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。 ひふみ神示 第十一巻 松の巻 第十一帖

世界の説教をよく聞きてくれよ、天の教、地の導き、よく耳すまして聞きとれよ、神の心 段々に判りて来るぞ。 ひふみ神示 第二十二巻 青葉の巻 第十八帖

                女の道

 女の通る日々の心づかいはなあ難しいものや 女は常に嫁に行く時の心をもってその心を忘れずに日々通らせてもらえばいいのやで 言うことによく注意して刺の立たぬよう優しく言わにゃいかん。女という者はつい邪見なものの言い方をするものや 男が聞いたらあれでも女かいなあと思われる様な事やったでは女ではないで 女の人は物の見方でも半分しか見えないものや 物は両面見なけりゃいかんのや 女は男と違い愚痴が多いものや 心で申し訳ないと思っているうちはいいけれど、それが口に出るようになってしまうと愚痴になるのやで 不足の心持つのも男より女のほうが多い 夫婦の中で妻が不足の心持って通っているとその理が男に移って行くで 女は常に優しい心であることが夫を助けていくのや ここのところよう思案しなけりゃ女はいかんで 男女の隔てないといっても男は男、女は女やで 隔てないというのは神様のご守護に男も女も隔てないということやで 神様のご守護ということ忘れたらいかんで 男も女も同じだからといって男が女のようになり女が男のようになってしもうたら道がのうなってしまう なんというても男は天や、女は地はで 天と地では大分違う ここのところよう思案しなけりゃいかん 夫婦が仲よう通らしてもらうにはなあ 女は地やから夫を立てて通らしてもらうのやで

 むごいこころをうちわすれ やさしきこころになりてこい (五下り目六ツ)

夫を立てて通らしてもらわにゃ地の理はなくなってしまう 地はどこまでいっても天には届かんもの こんなこと分っているやろう 女が天に手を届かそうとするから怪我するのやで 女は台やで、女は台やで 台は大きいなけりゃいかん 台が小さいと引っくり返るで 女の通る日々の心づかいは男より難しいで。ものの言い方、聞き方、する事なす事一つ一つ男と違う 男は男の通る道、女は女の通る道があるで 女には随分無理をいうようだが決して無理をいうているのやないで 女の心一つで家も国も滅びてしまうような事になるのやから女は心して通らしてもらうのやで 妻は夫に逆らわぬ様なんでもハイ、ハイと言うて夫に従い低い心で通らしてもらえば後は神様が連れて通って下さるで 何も心配はいらん ハイ、ハイと言うて通るのが損をする様な考えを持っていたらあかんのやで 女は男に対してよく口答えをするものや その口答えがいかんのやで それを言わずに心に治めて通ってくれにゃ女とはいわれん ここのところよう心に治めておきなはれや 日々心に治めて通らしてもらえばこそ女として徳が積めるのや 女としての徳というものはなあ、うちうち丸く治まるという理になるのやで 女の心の使い方が治まる理にも治まらぬ理にもなるのや 治めて通してもらうのが女としての第一の道や 無理を言っているのやないで 女の通る道は難しいものやから用心して日々を通ってくれにゃいかんで 男の人にはなあ神様のお話を聞いてもらわにゃならん 女の道をよう心に治めてもらわにゃならん 女の道というのは一口で言えば真実の道やで 真実とは低い優しい素直な心をいうのやで 低い優しい素直な心とは女の人の為にあるような言葉や 男には低い心、親には素直な心、子供には優しい心になって日々を通らしてもらうのやで 女の人はする事においても自分ですると人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思っても何にもならん 人がさして頂かなけりゃ、と思う心になるようにやってくれ この道は人にさせる道やないで めいめい一人ひとりが自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うのやないで 

天理教教祖 中山みき様のお言葉です。

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7、民主、自由主義の理屈 あなたは霊界の何階から産まれてきましたか?

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage6.html
<転載開始>
 今の世の中の仕組みの自由主義、民主主義が理にかなっていないのは、なにかを説明します。

  宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあ るものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。 ひふみ神示 第三十巻 冬の巻 第一帖

  人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもってい るぞ、 五十黙示録 第六巻 至恩之巻 第五帖

  神の申す言葉が判らぬならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、納得の行く ように致して見せてあるでないか。 五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第八帖
 
  世界中 皆この神の肉体ぞ、 五十黙示録 第五巻 極め之巻 第七帖
  
 
  日本の国は世界の雛形であるぞ、 ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第十七帖


  神は理屈ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。 ひふみ神示 第二十六巻 黒鉄の巻 第二十六帖

  そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。 ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第二十帖

  理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ 。判りたか。 ひふみ神示 補巻 月光の巻 第四十三帖

 大宇宙である日本列島と世界の陸地にあるものは皆小宇宙である人間にあり、人間にあるものは日本列島と世界の陸地にあるという理です。さらに性まで同じように出来ているのです。ゆえに政治、経済、法律、軍事等の人間が組織で生きていくこの世の仕組みも、小宇宙である人体の仕組みと同じなのが理にかなっているということなのです。人体の仕組みと異なる人間が考え作った仕組みは、理屈といい摂理に全くかなってないのです。

  神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。腹にチャンと神鎮まって居れば何 事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか 、ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流 れる水のやり方ぞ。 ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第十八帖

  今の学では判らんことばかり。善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方 。 五十黙示録 第五巻 極め之巻 第四帖

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6、人類最後の日とはこの岩戸開き 分子構造が変わり全てが崩壊する

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage5.html
<転載開始>

次に、今回の岩戸開きで神様が一番強調しているのが分子の構造を変えてしまうという事です。これは岡本天明氏が書いた「古事記数霊解序説」新日本研究所発行を基に説明していきます。この本は私は何となくしか理解できていません。皆様も岡本天明氏のこの本を読んで下さい。簡単な本ではないです。この本からは教えをいっぱい頂いたのですが、もっとかみ砕いて書いて下さっていればと思います。天明氏が存命だったら直接お会いして教えを請いたいです。

図-1

この図―1は占いで九星占星術(一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星)や四柱推命等で使用され、誕生日から個人の誕生星を割り出しその星がどの座に入るかによってその年の運勢をだします。毎年年末になれば各団体から出された運勢の本が本屋さんに並んでいます。ちなみに、誕生星が図ー1の1の座に入った年回りの人は厄年になります。その年の個人の運勢だけでなく世の中の運勢もこれから導きだせます。仏教の密教の曼荼羅図は表中の数字を仏様に入れ替えた図です。今の八方世界は人の運勢等が割り出せる等のことからも、この定盤の理、法則に影響されているのです。この図―1は如何にしてできたのでしょうか。

図-2

 人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。 五十黙示録 第六巻 至恩之巻 第五帖

この上の引用文までは図ー2の通りだったのですがこれでは法則性がないので2と8を入れ替えた(一ヒネリ)のです。
図-3

 岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生 んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、 天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ 五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第十帖
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5,人間の岩戸開き神示にチャクラ、クンダリーニがあった

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage4.html
<転載開始>

 人間の岩戸開きとはなにかを説明します。
淡路、神戸地図

 神の実言(命)聞く耳 早う掃除一番ぞ。
 掃除智座(ソージチクラ)、秘継ぐ数字(スジ)大神(加実)
 絶対開く元神は独楽(コマ)の理
  ひふみ神示 第十六巻

  こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲 くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心  の富士にも咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことな い ぞ。まことの神かかりぞ。 ひふみ神示 第十五巻 岩の巻 第二帖

 
 二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。 ひふみ神示 第十三巻 雨の巻 第十一帖  
   
 これはチャクラの事を表現しています。チャクラは仏教では光輪といい蓮の花に喩えられています。蓮の花を側面から見ると富士山と同じ形です。人間がチャクラを開くには会陰にあるムーラダーラチャクラに眠っているクンダリーニを覚醒しなければなりません。クンダリーニとは宗教では龍に喩えられています。日月神示では竜宮の乙姫様(龍九の音秘目様)のことです。木花さくや媛様とはチャクラのことで光花咲耶秘目様と書けばと私が考えました。

  海(生み)の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海(生み)の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり  呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海(生み)の戦は、けりつかんぞ。 ひふみ神示 第十一巻 松の巻 第八帖

 
人間にとっての生みとはクンダリーニを覚醒することです。竜宮の乙姫様のご守護を頂けばクンダリーニを覚醒して頂けるのです。木花さくや媛様をまつればチャクラが開けるのです。

  海にはどんな宝でも竜宮の音秘(オトヒメ)殿 持ちなされてゐるのざぞ、この世の宝 皆この方つくりたのざぞ  ひふみ神示 第十四巻 風の巻 第八帖

  竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも判るまいがな。 ひふみ神示 第十五巻 岩の巻 第十帖


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4、地球の陸地の姿について

新開智の福原さんのサイトより
http://www.justmystage.com/home/hituki/newpage3.html
<転載開始>
地球の陸地の姿について説明します。

 宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。 人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。ひふみ神示 第三十巻 冬の巻 第一帖

  人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性を  もっているぞ、五十黙示録 第六巻 至恩之巻 第五帖

  神の申す言葉が判らぬならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、納  得の行くように致して見せてあるでないか。五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第八帖

  理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄  ぞ。喜びぞ。判りたか。 ひふみ神示 補巻 月光の巻 第四十三帖


  理屈は一方的のものぞ。どんな理屈も成り立つが、理屈程 頼りないもの、力にならんものないぞ。理(リ)が  (カミ)の御能(オンハタラキ)ぞ、 ひふみ神示 第二十六巻 黒鉄の巻 第三帖

  神は理屈ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。 ひふみ神示 第二十六巻   黒鉄の巻 第二十六帖

  そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。 ひふみ神示 第 一巻  上つ巻 第二十帖


 人は天地(自然)と人間の仕組み(人体)には、それぞれに敬意を払っているのですが、この二つが同じ型、同じ性質であることを気づいている人は少ないのではないのでしょうか。これが神示を解くには重要なのです。人間に有るものは必ず大宇宙である天地にあり、天地に有るものは必ず小宇宙の人間に有るのです。ある天地のことわりは必ず人間のことわりの何かに相当するというのです。この反対に、ある人間のことわりは天地の何かのことわりに相当するのです。具体的には人間の髪の毛は天地の何かにあたり、目、脳、鼻、耳、口、細胞、五臓六腑、筋肉、骨、爪、生殖器、肛門、等これらは天地の何かに相当するということなのです。反対に天地の日、月は人間の何かに相当し雨、川、植物、生物、人間、てんし様、電波、道路、家、等も人間の何かに相当すると言うことなのです。これらの要素を一つ一つ解明していけば良いのです。人間、天地の法則を理といい、逆に人間の仕組み、天地の法則のどちらかに照らし合わせて仕組み、法則が無いのを理屈や屁理屈と言うのです。

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旧九月八日の仕組(四) : 神懸かり

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_6
<転載開始>

 日月神示では立替えに際して起きる外国との戦争において、日本が一方的に負けることが伝えられています。しかし、最後は“神の力”によって勝利することも力強く断言されています。そのための“逆転の秘策”であり、“立替え立直しの方法論”として用意されている仕組が【(かみ)()かり】です。

 なお、立替えの方法論的な側面は次項で考察しますので、本項では神の力に焦点を当てて論じます。

 前々項の最後で引用した(マツリ)の記述をよく読んで頂くと判ることですが、(たと)えられているのは神国と外国だけではなく、“神”(しん)(みん)も含まれています。

 臣民とは「天皇を(ほう)(たい)する民」という意味であり、戦前までは一般的に使用されていました。日月神示での臣民には非常に深い“神経綸上の(みつ)()が込められているようですが、それは この第三章の総論で論じますので、本項では神霊に対する“人間”及び“肉体”としての側面を取り上げています。

 そして、日月神示は()()()()の段階において、“元の神”である天之日津久神様が『因縁の五十九の身魂』と称される人々を筆頭とする()(たま)の磨けた人間”に神懸かり、立替え立直しや岩戸開きが遂行されることを明かしています。

「元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ」 『上つ巻』 第十三帖 [13]

「イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ 〔中略〕 カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな」 『磐戸の巻』 第一帖 [237]

「此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

 次に「神が()かる」「神が取り()かる」の二重の意味が込められていると思われる記述を引用します。

「いづれは(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は(はげ)しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、よくとことん掃除せねば御かかり難しいぞ」 『地つ巻』 第三十六帖 [173]

「いよいよ あめの日津久の神様おんかかりなされるぞ」 『水の巻』 第十四帖 [288]

「愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]

 

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旧九月八日の仕組(三) : とどめの戦

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_5
<転載開始>

 前項で引用した(マツリ)の記述に見受けられるように、(たと)えられているのは日本と外国だけではありません。詳細は次項で解説しますが、旧九月八日の仕組とは基本的にする仕組」のことであり、そこから派生する多くの出来事を包括する意味を有しているのです。そして、そういった旧九月八日に関わる出来事の総称的な位置付けにある言葉が【とどめの(いくさ)】です。

 これは別に難しいことではなく、要するに、

 (とどめ)(いくさ)とは外国との戦争()()を指しているわけではないのです。

 (いくさ)と言うと戦争の印象(イメージ)が強く、日月神示でも日本と外国の戦争に関する記述が多いので、戦争が三千世界の大立替えの最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)に感じられる場合があるかもしれません。しかし、そのように受け止められるのは天之日津久神様の本意ではないことが多くの記述から判ります。

 まずは、こういった「戦争や天災は立替え立直しや岩戸開きの本質ではない」という点について考察することによって、とどめの戦を論じる上での前提にしたいと思います。

「今度の戦で何もかも(らち)ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも()うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ」 『下つ巻』 第二十五帖 [67]

「臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦すむと思うてゐるのか」 『下つ巻』 第三十四帖 [76]

「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や(わざわい)は見当とれまいがな、()()()第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても()()らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ」 『磐戸の巻』 第七帖 [243]

「人の殺し合ひばかりではケリつかんのざぞ、今度の負け勝ちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの(ところ)まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから()()迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ」 『磐戸の巻』 第十二帖 [248]

「今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界(すみ)(ずみ)まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、(つら)い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。魂は鉄砲では殺せんのざぞ。魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが」 『風の巻』 第十三帖 [364]

「今迄になかったこと今度はするのぢゃから合点出来んも道理ぢゃ道理ぢゃ、始めは(たたかい)で、(いくさ)で世の建替する(つも)りであったが、あまりに曇りひどいから、イクサばかりでは、すみずみまでは掃除出来んから、世界の家々の隅まで掃除するのぢゃから、その掃除中々ぢゃから、(イクサ)ばかりでないぞ」 『梅の巻』 第十八帖 [445]

「この神示よく読んでくれたら何を申さんでも、何を聞かんでも、よいことになるのであるぞ、戦や天災では人の心は直らんと申してあろが、今迄のどんなやり方でも人の心は直らんぞ、心得なされよ」 『海の巻』 第六帖 [498]

「戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ」 『黄金の巻』 第七十五帖 [586]

 

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