大摩邇(おおまに)

日常の気になる記事を転載させていただきます。

ひふみ神示考察関係

旧九月八日の仕組(二) : 終わりの始まり

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_4
<転載開始>

 第一項でも少し触れましたが、日月神示の源流の一つである伊都能売神諭には、ミロクの世という言葉が理想世界のみを意味しておらず、立替え立直しの序盤を含むことが述べられています。そして、日月神示の“天子様の年齢”におけるミロクの世とは【旧九月八日の仕組】の開始を告げており、これらと全く同じ意味で使われているのが【終わりの始まり】という表現です。

 第二章の第七節の第七項『岩戸開き/岩戸明け』でも考察しましたが、旧九月八日から始まる神経綸九の期間は、八方的世界が十方的世界に(せん)()する“正念場”であり、人体に(たと)えるなら絶え間ない陣痛に襲われる“生みの苦しみの期間”です。

「死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の(ことごと)くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ」 『至恩の巻』 第十三帖 [960]

 立替え立直しの真っ最中であり、“最大の難所”を意味する(おお)(とうげ)と呼ぶのに最も相応(ふさわ)しいであろう期間をミロクの世に含む見方は、伊都能売神諭に“ミロクの世の定義”として書かれています。

「世の(しま)いの世の(はじま)りがミロクの世であるぞよ」 『伊都能売神諭』 大正七年十二月二十三日

 基本的に旧九月八日で八方的世界は終わります。しかし、神経綸九の期間は個別的な区分では十方的世界になっていません。故に、あくまでも“終わりの始まり”なのであり、新しき世界が()()()()()()()()()と言えます。それは十方的世界として結実する直前の“前なるもの”としての段階です。

 そして、「終わりの始まり」という表現は日月神示にも出て来ます。

()()に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始めの神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ」 『風の巻』 第七帖 [358]

 この記述からは『日月神示』の意味が判ります。何故なら、終わりの始めとは日の大神と月の大神が結ばれることであり(ミロク)の世の始まり”を意味しているからです。だからこそ(ミロク)の実現のために活動する存在”として『日月神』と名乗っている側面もあるのでしょう。

 また、第一章の第六節でも述べたように、日月神示の予言は旧九月八日の前後と神経綸九の期間に集中しているのですが、これは“終わりの始めの()()として当然のことなのかもしれません。

 その上で前項までの日月(ミロク)論や数霊論にも目を通して頂ければ、日月神示の「終りの始め」や伊都能売神諭の「世の終いの世の初り」という言葉が、神経綸九の“八方的世界から十方的世界への移行期間”としての在り方を表す、()()()()()()()()()であることが判ると思います。

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旧九月八日の仕組(一) : 元神の神策

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_3
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 そこで、ここからは【旧九月八日の仕組】について先に述べたいと思います。これは旧九月八日から起こる出来事が“ミロクの仕組”の具体的な内容を論じるための予備知識として必要だからです。

 そして、旧九月八日の仕組の内容は一つではなく、幾つかの出来事が複合的に折り重なって起こり、その全てに相関関係があります。それらの中でも神経綸の意味や理由と呼び得る【元神の神策】の核心部分を、()()()()(のかみ)()()()()(のかみ)“神話”及び“数霊”として明かしているのが以下の記述です。これらを「一神」や「一人」や「一方」という言葉に注目して読んでみて下さい。

「岩戸閉めの始めは()() ()()の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。(おっと)(がみ)(つま)(がみ)、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉(よもつ)(おお)(かみ)となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、()(びき)の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を(とも)にひらかんと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ」 『至恩の巻』 第八帖 [955] コトドは古事記では「事戸」であり、日本書紀では「絶妻之誓」ですが、日月神示では「九と十」としての意味が第一義であるはずです)

()(びき)(いわ)をとざすに際して 〔中略〕 その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七(ない)()八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956] 対訳形式である昭和三十七年版の原文では「十千十火」であり、訳文では「十方十全」と書かれています。原文を基準にすれば「十全十方」と書くのが正しいと思われます)

「父のみ(おろが)みたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神を(おろが)まねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ」 『星座の巻』 第十三帖 [896] 第一仮訳)

「何事もはらい清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違ふもの同士 和すのがマコトの和であるぞ。8迄と9 10とは(さが)が違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは(まっと)う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

()()読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局(りんどまり)ぞ。(われ)(われ)ががとれたら判って来るぞ。慢心おそろしいぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

 

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次の世 / 月の世

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_2
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 日と月とミロクの関係を更に詳しく解説するために、時節の要にして鍵にして基点であり、旧九月八日がミロクの世の始まりであることが明かされている“天子様の年齢”を再び引用します。

「五十二才(ツキ)の世の始、五十六才七ヶ月ミロクの世」 『黄金の巻』 第五十四帖 [565]

 この記述では、天子様が五十六才七ヶ月の時に「ミロクの世」になる他に、五十二才の時から「二の世」が始まることが述べられています。日月神示の原文の“二”は「ツギ」や「ツキ」と訓む場合が非常に多く、天子様の年齢では どちらの訓み方をしても本質的な意味は変わりません。むしろ、二つの訓み方をして照らし合わせることにより、双方の固有の意味が更に鮮明に浮かび上がるようになっています。このような相互補完の関係にある言葉が【(つぎ)の世】と【(つき)の世】です。

 まずは“次の世”としての意味から考察します。

 日月神示の説く次の世とは、基本的に「八方的世界の()()()()()十方的世界」のことです。数霊的に表現すれば、八方的世界は“一二三四五六七八の世”のことであり、十方的世界は“一二三四五六七八九十の世”のことです。

 現在の八方的世界が十方的世界に切り替わる時期については、()()“大別的な区分”“個別的な区分”の二つの視点が提示されており、両者には十二年の時間差(タイムラグ)があります。神の大望である十方的世界が始まるのは個別的な区分では2024年からですが、天子様の年齢によると大別的な区分では2012年から始まることになります。これは“三十年の立替え”を解説していない現段階では納得し難いことかもしれませんが、時節の全体像から見る限り、2012年が大別的な区分での節目の年なのです。

 そして、天子様の年齢における次の世とは、「大別的な区分での十方的世界が始まる」という意味に加えて「ミロクの世の王の御代が始まる」という二重の意味が込められているらしいのです。この二つの出来事は相互に連携(リンク)していると思われ、“鶏と卵の関係”のように前後の順序が判別できない関係にあると推測されます。故に、この概論では天子様が五十二才の時である2012年2月23日から2013年2月22日の間に、実質的な(せん)()が起きると解釈しています。

 また、大別的な区分での十方的世界が始まる2012年は、2008年から2016年までの神経綸八の“真ん中の年”です。前編の第二章の第八節でも述べましたが、数霊の八の“どっちつかず”の性質が神経綸や時節にも一日単位で反映されているとすれば、2008年の8月17日から2016年の旧九月八日までの中間点である2012年の9月13日辺りが、実質的な践祚の計画上の予定日なっているはずです。現実的には多少のズレがあると思われるので確実ではありませんが、平成二十四年が元年になる可能性が高いと考えられます。

 なお、これは後編で論じる内容なのですが、大別的な区分での十方的世界が個別的な区分でも十方的世界になるまでの十二年の時間差(タイムラグ)が、()()の説く()()(いづ)の仕組”の期間であると考えられます。天明氏は訳文で三四五に()()()づ」の漢字を当て嵌めていますが、これは十方的(あたらしい)世界が現出する」という意味に加えて「天子様の()()()を中心とする政治形態に移行する」という意味もあるようです。

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日の大神 / 月の大神

すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03
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 前節において考察したように、狭義の意味と広義の意味でのミロクの大神は必ずしも一致していません。故に「どの等級(ランク)のミロクなのか」という点については個々の文脈で判断する必要があります。()()()階級(ランク)を設けるのは不適切に感じられるかもしれませんが、この辺りの考え方については天之日津久神様による認識を示した方が判り易いと思います。

「手は頭の一部ぞ、手の頭ぞ。頭、手の一部でないぞ、この道理よく心得ておけよ」 『天つ巻』 第三十帖 [137]

 当たり前の話ですが、中枢は末端に命令を下せますが、末端は中枢に命令を()()ことはできません。中枢も末端も「全体を形成する一部分である」という意味では()()でも、決して()()ではないのです。

 また、この場合は双方を含む全体が広義の意味での()()であり、中枢が狭義の意味での()()になります。これを「(がい)(かく)を分離する」という形で、少しづつ広義の意味を狭義に定義し直して行き、もう削ぎ落とせない最終段階まで残り続けた存在が、最も序列(ランク)が高いと言えます。つまり、全体の行動を決定する権能を有する()()としての存在、即ち(トップ)です。

 その上で、“ミロクの中枢”として神経綸の中心軸に居ると推測されるのは以下の五柱の神様です。これは予言の大半が、この神々の物語として描写されていることからも()し量れます。

一、一柱だけでもミロクと明言されている(あま)(てらす)(おお)(かみ)
一、天照大神と共に天の御先祖とされている()()()()(のかみ)()()()()(のかみ)
一、天の御先祖と一体になって立替え立直しの総指揮を()るとされている(くに)(とこ)(たち)(のかみ)
一、国常立神と同一神的に説かれ救世神とされている()()(なる)(のかみ)

 また、人体の頭が一つであるように最後の一柱まで絞り込む場合は、天照大神が最高位(トップ)になると思われます。恐らくは この点が関係しているのでしょうが、立替え立直しにおける“ミロクの仕組”の内容は、天照大神の別名でもある“ミロクの大神の正式な御神名”鍵言葉(キーワード)として読み解くことができます。

「何故、【(つき)(さか)()(いつ)()()(たま)(あま)(さかる)(むか)()(ひめ)(のみこと)】がミロクの大神なのか?」

 この疑問に対する回答を、ミロクの仕組の具体的な内容と“神話”から導き出したいと思います。そして、これは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()です。そこで、ここからはミロクと旧九月八日の関係を論じるために必要な内容を、順を追って解説して行きます。

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九人十色の中毒性

煩悩くん フルスロットルさんのサイトより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2286.html
<転載開始>
少女時代の「the Boys」の日本語歌詞「九人十色の中毒性」という言葉とMV最後で彼女らの整列した上空に浮かび回転する「黒い塊」が、日月神示の一節と密接に関連があるのでは?というコメントを頂きましたが、その一節を見て唖然としました。

まさに、その通りだ~すべ~だぁ!!!
(ご紹介ありがとうございますm○m)



で、その問題の一節とは、、、

十柱の神様 奥山に祀りて呉れよ、
九柱でよいぞ、
何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、
この方合はして十柱となるのざぞ。
御神体の石 集めさしてあろがな、
篤く祀りて、辛酉(かのととり)の日にお祭りして呉れよ。

(日の出の巻 第15帖228)


う~む、「9=10」???

これを理解するにはアニメ「ナルト」が参考になります。ナルトでは秘密結社「暁」が一尾から九尾の九体の「尾獣」を集めて「十尾」にすることが描かれますが、元々はこの9体の尾獣は1つのマガマガしいネガティブ・エネルギーの固まりであったとされる。各尾獣は「十尾」の分け御霊というわけです。日月神示にも「0.1.2.3.4.5.6.7.8.9→0.1.2.3...9→0.1.2.3...」と「9」の後にグレンとひっくり返り「0」となることが記されています。しかも「0は10」であると記されているのです。

以上のことから洞察を進めると、この節は9柱が「連結」され元の姿に完全に揃った場合、グレンとひっくり返った世界(あの世 形而上世界)では、それらが一体化した「10柱目」が存在し始めることを意味し、そして、その後、グレンとひっくり返った世界が到来することを示している。10柱目は形而上世界に「観念としての存在」するのですが、実体があるが如き振舞う。つまり、少女時代の各メンバー9人にはそれぞれの色(個性・特徴)があるのですが、その集合体である「少女時代」というもう1つの色(個性・特徴)が現れ出るということ。「少女時代」は9人と大所帯なのですが、メンバーが一人欠けても「少女時代」とはならないのと同じです。これが「九人十色の中毒性」が真に意味する内容であり、日月の神が言いたかったことでもある。
※註 しかも、このことは「多神教」が実は本当の意味での「一神教」であることも示している。私たちはこの世の現れである万物を通して、その背後で「一体化」した部分を「一神」として看做さねばならないのです。この「一神」こそが「グレートサムシング」というものですが、一神をダイレクトに崇めることはアカンということなのです。ですから、現在のキリスト教や最終的に天照大神に行き着く神社神道などの「一神教」は「偽」だという結論に至る。

この連結・連帯が「絆」でしょうか。
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神に怒りはないこと知る日々の中で

In Deepさんのサイトより
http://oka-jp.seesaa.net/article/257066874.html
<転載開始>
今日は翻訳記事をご紹介する時間がどうしてもとれませんでした。

しかし、 3月11日ということで記事をアップしたいと思いました。2011年の3月11日からの日々は、私にとっても、今までとは(精神的な意味で)違う日々の始まりでした。あの頃の東北の人々の姿を見る中で私は変わることができたのでした。

昨年の震災後の記事の、

もはや神も大地も怒らない (2011.04.08)

に書かれてある私の心情は今でもそのままです。

今、地震や噴火などの自然災害に対しての恐怖は私にはまったくありません。
昨年、そういう感情は自然と消えました。

何か起きたら対処する。
対処できないものなら「それまで」。

交通事故とか殺人事件とか経済のこととか、今でも「こわいこと」自体はたくさんありますけど、「地球のこと」への恐怖は消えました。

そういえば、上の記事のタイトルは「もはや神も大地も怒らない」というものでしたが、先日の記事「エメラルドタブレット(2)」の内容に関して、ちょっと調べていた時に、日月神示の一節が検索されたんですが、そのフレーズがこんなものでした。

扶桑の巻の第八帖というところにあるもので、


神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。



というものでした。

ここには「取り違い」という言葉が出てくるので、少なくとも書かれた頃の人々が「天変地異を神の怒りと思っていた」という雰囲気というのか、全体の感じがあったのだと思われます。そして、それはもしかすると、今でもそういうように思っている人はいるのかもしれないですし、私も3月11日までは何となくそのように考えていました。

しかし、もう今はまったく思っていません。そういう意味ではこの1年は「天変地異は神の怒り」だということは完全な勘違いだということを学ぶ期間だったと思います。 In Deep でご紹介してきた様々な宇宙科学、物理学、聖書やオカルトのすべてがそこに向かっていました。



人類が獲得した、宇宙も羨む「偉大な無能」

こういう言い方をしていいかどうかはわからないのですが、「地球」を「人間の体」と対応させてみれば、たとえば人は毎日のように排泄をしたりします。

時には嘔吐したりする。

そして、地球では内部から吹き出ることによる噴火があったり、内部での何らかの物理的現象による地震があったりする。

これらが同じだという意味ではなく、エメラルド・タブレットにあるように、「ひとつの現象はすべての現象に通じる」ということを信じれば、たとえば人間に起きることが(現象的なイメージとして)地球や宇宙に起きないということもないかなあということです。

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神(が)かかれるように洗濯しておいて呉れよ

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki20120228.html
<転載開始>
神(が)かかれるように洗濯しておいて呉れよ  2012年2月28日(火)
  前回の「つぶや記」は未完成のままではありますが、本日は「ひふみ神示(日月神示)」の冒頭に出てくる「第一巻・上つ巻」の第一帖の神示をご紹介し、解説してみたいと思います。
  出典は『ひふみ神示(上巻)』(岡本天明・筆/コスモ・テン・パブリケーション/平成5年刊)です。
  この第一帖は「ひふみ神示(日月神示)」のエッセンスとも言えるもので、ひとくちに言うと「神がかかれる(憑依できる)ように、口・心・行を整えて身魂を磨いておいてくれ」ということにつきます。
  では、まず神示そのものを噛みしめながら読んでみてください。以下の下線を引いたの部分について解説してまいります。

■ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第一帖

  二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通うして呉れよ。
 
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初って二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があがる、外国はお土がさがる。
 
都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
  嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る●は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、
いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
  戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、
世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
  さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さぴしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、
口と心と行と、三つ揃うたまことを命といふぞ。神の臣民みな命になる身魂掃除身魂結構、六月の十日、ひつくのかみ。            (●の中にが入った記号/なわ・ふみひと註)

  それではから順番に解説してまいります。

みたまを不断に磨いて

  ひつくのかみ様が、その霊媒として選ばれた岡本天明を通じて神の国の臣民に語りかけてこられた最初の指示は「みたま(身魂)を磨け」ということです。それも「不断に」ということですから、「日々いかなるときもそのことを意識して実践せよ」と受け止めるべきでしょう。なぜなら、「みたまを磨く」というのは「口・心・行」を掃除洗濯することであると述べられているように、私たちの言葉、思念、行為を自ら監視し、善くない使い方をしないように注意しなさい、という意味だからです。

いま一苦労ある

  このひふみ神示(日月神示)が下ろされはじめたのは太平洋戦争も終わりに近づいた昭和19年だということです。負け戦がはっきりして、国民は窮乏生活に陥って大変苦しい状態に置かれていた時期ですが、それに匹敵するかそれ以上の苦労をしなければならないことを述べています。
  太平洋戦争が終わってからは戦後復興が始まり、その後の朝鮮戦争の特需などの影響で日本経済は立ち直り、やがて高度経済成長を経て、戦勝国アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国にまでの成長を遂げたのでした。
  国民は食べ物の不自由をすることもなく、逆に肥満を気にしてエステなどにお金を使う人まで生まれる世の中です。しかし、このあとにまだ「ひと苦労がある」と考えておくべきでしょう。それこそが、新約聖書でもイエスの言葉として述べられている終末の「産みの苦しみ」ということです。

身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初って二度とない苦労

  いま、地震や津波、あるいは富士山の噴火などの自然災害に備えて、食料品や災害用の救命用具を準備する人が増えていると見られます。アメリカでは銃の売り上げが非常に伸びているそうで、これも終末現象と見ることができます。
  ひつくのかみ様も、これから訪れる(終末の)出来事は、この世が始まって以来初めてで、しかも最後となる苦労だと述べられています。「二度とない」ということですから、この苦労を乗り越えさえすれば、今後はそのような苦労はしなくてよいということでしょう。
  しかしながら、この苦労を乗り越えるのは簡単なことではないらしく、身魂を磨いていない臣民は乗り越えることができないようです。いくら食料品や救命用具を揃えて災害に備えていても、心の掃除洗濯ができてない臣民は新しい世界には行けないということを肝に銘じておきたいと思います。

都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯

  都会がまず災害に見舞われ、次に地方も同じく災害によって洗礼を受けるのです。それらの「洗濯」を通じて、人の(魂の)洗濯をするということです。善悪含めてすべてのカルマが清算されていくプロセスを表現していると思われます。

いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ

  心の洗濯が進み、善くないカルマが清算された人(魂)、すなわち身魂が磨かれた人(魂)には、神が憑依してくださるそうですが、その神様が憑依できる人(魂)というは、神に近い波長でなくてはならないのです。波長同調の法則(類は友を呼ぶ法則)によって、あまりにも神の波長からかけ離れた、いわゆる「我善し(=自分本位で、自分や自分の身内だけは助かりたいと思う気持ちが強すぎる人)」の人(魂)には、神は憑依することができないのです。
  「いつでも神かかれるように」という言葉に注目しましょう。終末の大峠になると、突然大天変地異が始まり、その混乱の中で右往左往させられている状態では、とても身魂磨きに専念することはできませんし、また心(潜在意識)の中身はすぐに入れ替わることはできないからです。ひふみ神示(日月神示)の他の章では「土壇場で泣きついてきても(神は)どうすることもできぬ」という言葉がたびたび出てきます。
  新約聖書でも、「目を覚ましていなさい」という表現で、イエス・キリストが「いつその時がくるかわからないので、常に心をきれいな状態に保っておきなさい」と忠告しています。

世界中の洗濯

 ひつくのかみ様は、この神示を通じて「これは日本のことだけを言っているのではないのだよ。世界中のあらゆる物と人を洗濯するのだから」と述べておられます。「ひふみ神示(日月神示)」が、単に日本の国を守るという趣旨の神示ではないことがわかります。

いらぬものが無くなるまでは、終らぬ

  「いらぬもの」とは異次元(霊界)にプールされている善くないカルマのことを指しています。善い悪いの判断は難しいのですが、大きく分類するならば「我善し」が善くないカルマ、「みんなの幸せのため」が善いカルマと考えればよいでしょう。
  人の進化の方向はすべて「個の利益」から「全体調和」→「全体利益」という方向に向かいます。「全体」をこの世の中で見ていきますと、最後は「生きとし生けるもの」ということになります。「この地球にあるすべての存在の調和と平和のために貢献する」という考え方に行き着くのです。
  「自分だけ」という気持ちから始まり、やがてそれに「自分の身近な人間」が含まれ、「自分の住む町や村全体」へと広がり、「日本が」とさらに広がって、やがては「人類全体」となっていきます。
  しかしながら、この段階でもまだ「人間の幸せだけのために動物や植物は犠牲になって当然」という「我善し」の要素は消えていないのです。そのような「我善し」の気持ちを順々に昇華させていったところに、新しい天地が見えてきます。そこが「神の国」なのです。文字通り「神の心を持った人間が住まう世界」と言ってよいでしょう。神の国には「いらぬもの」はなく、また新たに生じることもないということです。

カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。

  理解するのが大変難しいのですが、この三次元の物質界と次の次元(神の国)を対比させた表現だと解釈しておきます。「カミ」はこの物質世界を司る神様のことでしょう。しかしながら、神様同士が戦っておられるという表現は理解できません。「いくさ」という表現が使われていますが、要するに「次元上昇」のプロセスとしての「産みの苦しみ」の状態をそのように表現されているのではないかと思います。この世をこのまま残そうという働きと、新しい世界に移行させようとする働きの「せめぎ合い」という意味だと理解しておきます。

己の心を見よ、戦が済んでいないであろ

  ここでは「戦」と漢字が使われています。「戦い」という意味で、心(潜在意識)の中に潜む闘争心、「他を攻撃する心」のことを意味しています。「他を攻撃する心」を持っているかぎり、それは新しいカルマを作り出して、それが現実のカルマとなって返ってくることになります。かつて「平和」を叫びながら「闘うぞー!」とシュプレヒコールを上げて運動をした時代がありましたが、心の中に「戦い」の波長がある限り、真の平和はいつまでも訪れることはないということです。この神示は心の持ち方の大切さを教えています。

早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。

  早く(心の)掃除をしなくては間に合わないと警告する言葉です。
  「(心の)掃除」とは、異次元にプールされたカルマを清算し、新たに作らないことが大切だという意味です。のんびりしていると、異次元にプールされたカルマは温存されたまま、その上に新しいカルマを積み上げることになり、それが終末の大峠には一斉に返ってくることになるからです。その姿は、まさに大天変地異に遭遇し、恐怖心に包まれるという形になるでしょう。大峠の段階では、発信した恐怖心のカルマが瞬時に返ってきますから、そこでまた恐怖心を募らせるといった悪循環に陥り、増幅されていくことになると考えられます。「高をくくっていてはいけない」ということです。

口と心と行と、三つ揃うたまことを命といふぞ。

  ここでようやく出てきました。カルマの法則で大切なのは「口・心・行(仏教では「身・口・意」)」のコントロールなのです。言葉、思念・想念、行為・態度がすべてそろって、「一筋の誠」として貫かれることを「命(みこと)」というと述べられています。
  口では立派なことをいいながも、行動が伴わない人、あるいは心の中に「我善し」の気持ちが巣くっているような人(魂)は「誠の人」とは言えないのです。また、心の調律が進んでも、口をついて出る言葉が善くない内容であれば、やはり心も汚れていくことになります。
  善くない言葉とは、たとえば自分や他人を傷つける言葉のことです。自分を傷つける言葉は愚痴、不満、卑下、度の過ぎた謙遜などがその範疇に入るでしょう。他を傷つける言葉は、悪口、誹謗中傷、嘘、などです。そのような言葉が口癖になっていれば要注意です。

  以上で『ひふみ神示(日月神示)』の冒頭にある「上つ巻・第一帖」のご紹介を終わります。
  日月神示にはノストラダムスの予言のように終末の天変地異のことを伝えるメッセージもありますが、本来の趣旨は「終末の大峠に備えて身魂を磨いておけ」ということです。「身魂が磨けた者(魂)はどこにいようと神が助ける」と言い切っておられます。そのことによって「人も神も助かる」ということですから、神様に憑依していただけるような澄んだ魂になれるように、心の洗濯(潜在意識に刻んだ善くない心の癖の修正)の努力をしっかり続けていきたいと思います。たとえ今年終末の大峠が到来しなかったとしても、身魂磨きは命乞いのためにするものではなく、そのこと自体が人間として目指すべき目標なのですから。

  今後も、「ひふみ神示(日月神示)」のご紹介は続けていきたいと思いますが、当サイトに既にアップしている以下の内容もぜひ参考にしてください。

 → 『ひふみ神示(日月神示)』(上巻)の超解釈
 → 『ひふみ神示(日月神示)』(下巻)の超解釈
<転載終了>

2012年12月以降の世界とは‥‥?

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki067.html
<転載開始>
2012年12月以降の世界とは‥‥?  
2009年6月29日(月)掲載文を再編集しました。

  本日は、「終末の大峠と見られる2012年12月以後に、この地球と人類はどうなっていくのか」ということについて、聖書や神示の中から参考になる記述を引用してご紹介したいと思います。このテーマに関しましては、「ゴッドアナリスト」を自称されている紫藤甲子男(しとうきねお)氏の分析が大変参考になります。氏の2冊の著書の抜粋を当サイトにアップしておりますので参考になさってください。

 
『ヤハウエの巨大潮流預言』(紫藤甲子男・著/徳間書店)
 ② 『2000年5月全世界は壊滅する』(紫藤甲子男・著/たま出版)


  また、拙著
『2012年の黙示録』(たま出版)では、「ミロクの世(神の国)」と呼ばれる「2012年以後の世界」について以下のように記述しております。こちらもご参考までにお目通しください。

2012年からミロクの世がスタートする

  新しき御代のはじめの たつの年 現
(あ)れ出でましぬ かくれいし神


  2012年は日本の暦では辰年となっています。「新しき御代」すなわちミロクの世のスタートは辰年ということです。やはり2012年という年が立て替え・立て直しの年ということになりそうです。

「神の国」とはどういう世界なのか

  ちょっと薄気味悪い話題になりましたので、ここで夢のある話に切り替えたいと思います。終末の後に現れる新しい地球はどういう姿になるのかということについて――。

  新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所。(日月神示)

  地上界に山や川があるから霊界に山や川があるのでない。霊界の山川がマコトぞ。地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ。マが霊界じゃ。地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としている。互いに入りかわって交わっているのぞ。このこと判れば、来るべき世界が、半霊半物質、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん。大元の道にかえり、歩まねばならん。今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。(日月神示)

  三次元の物質波動の世界から、四次元以上の霊的波動の世界になるということです。そこには物質界の元となっている本当の山や川もあるのです。私たちの魂はもともとその世界にも行き来している(眠ったとき)のですが、新しい時代になると、そちらの世界に移っていくということです。ただ、この半霊半物質の世界にいるのは千年の間だけということで、その後はいよいよ本格的な神の国に移るようです。
  聖書にも日月神示にもそのことが述べられていますが、千年後のことですし、私たちが半霊半物質のミロクの世にいけるという保証もまだありませんので、これ以上のことは触れずにおきます。

  新しき世は神なき世なりけり。人神となる世にてありけり。(日月神示)

  今度世変わりたら、臣民この世の神となるのざぞ。(日月神示)

  私もまだ神になった経験がありませんので、この神示の解説はできません。なんとなく雰囲気でご理解ください。

  神の国と申すものは光の国、喜びの世であるぞ。(日月神示)

  そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。
  (マタイによる福音書)

  ミロクの世は、何もかもが透き通って、ピカピカ光って見えると言います。影のない国、喜びあふれる国になるようです。そういう国で、私たちは与え合い、学び合い、楽しみながら、新しい進化のスタイルを身につけていくのだと思います。

  文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ。
  (日月神示)

  金のいらぬ楽の世になるぞ。(日月神示)

  現文明はなくなってしまうのではないということです。「カス」がどの部分なのかは判りませんが、お金が要らないということですから、銀行や証券会社、消費者金融などはなくなってしまうのかも知れませんね

                  ―― 『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと著/たま出版)

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出口王仁三郎 三千世界大改造の真相の続きNO2

http://www51.tok2.com/home/slicer93190/10-5491.html

不動心さんのメール

千成さん太陽さんお早うございます。

不動心です。

出口王仁三郎 三千世界大改造の真相の続き2です。

以下はなわ・ふみひと氏の2012年の黙示録からの転載です。

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/index.html

出口王仁三郎 三千世界大改造の真相 中矢伸一著 KKベストセラーズ 1993年8月刊


『大本神諭』『伊都能売神諭』、そして『日月神示』へ

王仁三郎によれば、大本における「地の準備作業」の期間というのは、明治25年旧正月から昭和18年元旦までの、満50年間である。

その準備神業の期間が終わったとされる翌年の、昭和19年6月10日、大本とは関わりのないところで、不思議なことが起こる。

神道研究家の岡本天明は、神霊に導かれるかのように、この日、千葉県成田市台方にある麻賀多神社の境内末社、天之日津久神社に参拝していた。

本来画家である彼は、このころ矢立と画仙紙を持ち歩く習慣があり、この日も例外ではなかったという。

参拝を済ませ、社務所で休んでいると、突然、彼の右腕の血管が怒張し、見えざる力に司配されて制御がきかなくなった。

たまらず、持っていた矢立を画仙紙に当てたところ、勝手に自分の右手が動き、スラスラと文字を書き始めた。

これが『日月神示』の発祥である。

以後、およそ16年間にわたり、この神示は断続的に書記されていく。

『日月神示』は、内容をつぶさに比較検討すれば明らかだが、出口ナオの『大本神諭』、王仁三郎の『伊都能売神諭』の流れを汲むものである。

本来、この神示は大本内部で出されるはずであったと言われる。

しかし、戦前における厳しい言論の統制下にあり、しかもいずれ徹底的な弾圧を受ける大本では、本質的な部分を伝えることが難しかったので、大本とは別のところで降ろされたのである。

したがって、『日月神示』は、黒住教の発生から、天理、金光、大本へと至る霊脈の流れを完全に受け継いでいる。

しかも、「三千世界の立て替え・立て直し」という根本大改造を主宰する神の意志の、本質的部分が含まれているのがこの神示なのである。

しかし、この神示が降り始めた当初の天明は、事の重大性に気づいていない。

原文は、漢字、かな、記号が入り混じり、とても読めたシロモノではなかった。

また、天明自身、もともと霊媒的な体質を持ち、過去にも様々な霊的な研鑽を積んできており、霊が憑かるということもそれまでに何度もあった。

この当時は苦労に苦労を重ね、貧のどん底にまで落ちていたため、『日月神示』が出た時も、「自分のごとき者に憑かる霊だから、どうせ大したものではあるまい」と、放っておいたという。

(中略)

岡本天明は、明治30年12月4日、岡山県に生まれた。

若い頃から画家としての天分に目覚め、上京して苦学しながら、画業の研鑽に励んでいる。

大正8年頃、天明は知り合いの子供によって、大本の本部に連れて行かれる。

そこで色彩に関する講義を聞いて感銘を受け、大本に入信することとなった。

(中略)大正10年の第一次大本事件により、天明も職を失うが、(出口)日出麿の誘いにより、創刊したばかりの『人類愛善新聞』の編集長に就任する。

しかし、昭和10年に起こった第二次弾圧により、『人類愛善新聞』も手入れを受け、天明も再び失業し、路頭に迷うことになった。

これを機に、天明は大本とも無関係になったというわけである。

それまでは、大本とも深く関わっており、王仁三郎から直接、論稿の代筆を依頼されることもあった。

(中略)その後、天明は鳩森八幡神社の代理神主を務めることになった。

天明が成田の天之日津久神社に参拝に行ったのはこの頃のことである。

後に天明は、矢野シンという協力者によって、自分に降りている神示が、経綸上極めて重要視されていた「日の出の神」からのものであると知らされるのである。

(中略)そして数カ月後、天明は大本本部に赴き、この神示を調べて欲しいと差し出している。

しかし、悲しいかな門前払い同様の扱いを受けてしまう。

再度訪ねてみても、まったく相手にされず、その時は男泣きに泣いていたという。

取り次ぎの者が、大本の外部に降りた神示などというものに理解を示すわけがない。

王仁三郎がこれを見たとしたら、また違っていたであろうが‥‥。

ここで、王仁三郎の遺した詠歌を明らかにしたい。

今まで秘められていたこの詠歌に記された予言は、『日月神示』に示された内容と驚くほど酷似しているのである。


王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』

王仁三郎は、昇天前、『続・瑞能神歌』という題の予言を口述し、筆録させていた。

泉田瑞顕氏は、筆録したこの神歌を大事に保管し、今までほとんど公開することもなかったが、この度、本書において発表することにした。

王仁三郎が、この神歌をいつ口述したのかは、泉田氏も昇天された今、確認できない。

ともかく、過激な予言内容により発禁処分を受けた『瑞能神歌』に続編があることさえ、あまり知られておらず、それだけでも価値があると思われる

『瑞能神歌』に詠われた内容は、ほとんどが大東亜戦争による日本の敗戦――すなわち、日本の一度目の立て替えを予言したものであった。

『続・瑞能神歌』は、これから起こる二度目の立て替えと、世界の立て替えを予言したものとみて間違いない。

以下、ほぼ全文を掲載させていただくことにする(公開が許されていない箇所については、伏せ字とするか、削除させていただいた)。

シベリア狐は死にたれど

醜(しこ)の曲霊は種々に

妖雲呼んで東天は

北から攻め入る非道さよ

オホーツク海や千島船

カラフト島をゆさぶりて

雪割草の間より

暗雲低く仇鳥(あだどり)の

舞い下り上る怖ろしさ

北海道から三陸へ

なだれの如く押しよする

ここを先どと連合の

戦の場や神の国

華のお江戸は原爆や

水爆の音草もなき

一茫千里大利根の

月の光もあわれぞかし

残るは三千五百万

○○○○○○の旗の下

どっと攻め入る○○○○の

○○○○沿いや人のなく

非義非道の場所せまく

○○○○○○○○○○

あわれ崩るや○○○

血汐に赤き統一も

○○○○の殺戮も

ここに終りて神の子は

再び原始にかへるぞかし

大江の幽山に立籠めし

醜の邪霊の重なりて

今は九尾の本姿

世界隅々またがりて

組んずほぐれつのたうつる

姿は哀れ曲津神(まがつかみ)

○○○○○○○○○○

物質界の曲津神

狂人の如く振舞いて

世は様々の相克ぞ

世の大本も散り失せて

月の輪台の影あわれ

お蔭信心なしいたる

信徒も今ははなれ去り

真実の三千五百万

残る教の幕開きは

此の時からと高熊の

山の五十鈴や清水台

国常立の大神の

岩戸開きはこのときぞ

固き厳に手をかけて

振うて落す地獄道

ノアとナオとの火水霊

現れ出でてゆさぶれば

一天にわかに掻き曇り

矢を射る如く流星の

地球に向いて落ち来たる

大地一度に震動し

吼えば地軸の回転も

止るばかりの大音響

物質浄土は忽ちに

地獄餓鬼修羅場と化す

山は崩れて原野裂け

人はあわれに呑み込まる

身の毛もよだつ凄まじさ

今明かに書き置くぞ

三段いよいよ開く時

三千余年の昔より

国の御祖の選まれし

――(中略)――

神代乍らの祭政一致

開き始めて日の本の

――(中略)――

ここに従ふ三五(あなない)の

人の心ぞ尊とけれ

宇宙を拝し宣りませば

世界は輝きおのころの

東天に向い伏し拝む

地上天国この秋ぞ

一読しておわかりの通り、これは明らかに日本の大峠と世界の大峠を予言したものである。

日本の立て替えについては、シベリア方面から外国の軍隊が、突然に攻め入ってくることが記されている。

この外国軍は、「北」からやってくる。

そして北海道、三陸を通り、なだれの如く押し寄せて、日本列島を占領する。

さらに、首都東京には核攻撃もあることがハッキリと示されている。

このような大動乱により、日本の人口は3500万人になるという。

そして非道な殺戮が、ある一定期間続き、残された因縁の身魂は再び原始の生活に還るとある。

続いて世界の立て替えが始まるが、この神歌によれば、空から流星が降ってくるのだという。

これをきっかけに、地軸を揺るがす大激変が起こり、地球全土は修羅場と化す。

そして、ありとあらゆる大掃除が行なわれた後、岩戸は開かれ、祭政一致の世となり、地上天国が顕現する、というのである。

王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』に示された予言は、このように厳しく、悲惨なものとなっている。

だが、『日月神示』に示された未来予言も、まさにこの『続・瑞能神歌』と共通する部分が多い。

それらの予言の一部を見てみよう。


同じことを二度繰り返す仕組み 大本では、立て替えは2度あった。


大正10年の第一次大本事件と、昭和10年の第二次大本事件の2回である。

これが雛型として日本に移写して来るとすれば、日本の立て替えも2度あることになる。

1度目は、大東亜戦争における敗戦という形で実現した。

そして、2度目の立て替えは、これから起こる。

日月神示には、日本の立て替えが2度あることが、戦争終結以前の昭和19年の頃より、明確に示されていた。

それによれば、日本は戦争に負けても再び勢力を盛り返す。

しかし、これは悪が再び栄えた形での復興であり、結局また同じことを繰り返すことになる。

そして大本の雛型がそうであったように、破壊の程度は2度目の方がはるかに深刻なものになるという。

同じこと二度繰り返す仕組みざぞ。

このことよく腹に入れておいてくだされよ。

出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ。

今度は魂抜けているからグニャグニャぞ。

グニャグニャ細工しか出来んぞ。

それに迷うでないぞ。

いま一度、悪栄えることあるぞ。

心して取り違いないように致されよ。

神の国、一度負けたようになって、しまいには勝ち、また負けたようになって勝つのざぞ。

まだまだ俘虜(とりこ)になる者沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ。

いずれ元にかえって来るから、元にかえってまた盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ。

次に捕らえられる者出てくるのざぞ。

次はひどいのざぞ。

これも因縁ざぞ。

今度捕らえられる人民沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。

牢獄で自殺する者も出来てくるぞ。

女、子供の辛いことになるぞ。

九分通りは一度出てくるぞ。

それまでに一度盛り返すぞ。

今の世は地獄の二段目ぞ。

まだ一段下あるぞ。

一度はそこまで下がるのぞ。

今ひと苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ。

地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めんところざから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ。

王仁三郎も、『続・瑞能神歌』の中で、大峠の段階として“三段の幕”が用意されていることを予言している。

日本は、戦後の荒廃から立ち直り、見事に経済復興を成し遂げ、再び国力を盛り返した。

しかしその一方で、日本人は、かつて美徳とされた多くのものを失った。

精神的には、日本の歴史上、ここまで堕落した時代はないと言える。

金・物主体の我れ善し主義は、老若男女の区別なく、子供に至るまで浸透し、国家の長たる政治家たちはその親玉のような存在である。

今や日本の人民は、神示にある通り完全に“骨抜き”にされてしまった。

現在の日本人は、国土を守ろう、国家を守ろう、家族や同胞を守ろうという意識さえない。

神の道とは何か、真の日本精神とは何かなどということは、寸毫だに考えない。

今、外国軍から強大な武力をもって攻め込まれれば、何の苦もなく日本は陥ちる。

そして土地や財産はすべて略奪されるだろう。

それが、夢物語ではなく、まもなく現実となって起こることが、神示によって警告されているのだ。


世界が1つになって日本に攻めてくる

『日月神示』には、日本の2度目の立て替えは、世界が1つになって日本潰しにかかることによって起こること、そしてその企みは、国民の知らぬ間に水面下で進み、アッという間に現出することがハッキリと示されている。

大きアジアの国々や、島々八十(やそ)の人々と、手握り合い神国の、光輝く時来しと、みな喜びて三千年、神の御業(みわざ)の時来しと、思える時ぞ神国の、まこと危うき時なるぞ。

夜半に嵐のどっと吹く、どうすることもなくなくに、手足縛られ縄付けて、神の御子らを連れ去られ、後には年寄り不具者のみ、女子供もひと時は、神の御子たる人々は、ことごと暗い臭い屋に、暮らさなならん時来るぞ。

宮は潰され御文皆、火にかけられて灰となる。

この世の終わり近付きぬ。

この神示(ふで)心に入れ呉れと、申してあることわかる時、いよいよ間近になりたぞよ。

またたきの間に天地引っ繰り返るような大騒動が出来るから、くどう気付けているのざ、さあという時になりてからでは間に合わんぞ、用意なされよ。

一日のひのまにも天地引っ繰り返ると申してあろがな。

ビックリ箱近づいたぞ。

世界一度にキの国(日本)にかかりて来るから、一時は潰れたように、もうかなわんと言うところまでになるから、神はこの世におらんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたように見える時が来たら、神の世近付いたのぞ。

メリカ(アメリカ)もキリス(イギリス)は更なり、ドイツもイタリーもオロシア(ロシア)も、外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。

世界中総がかりで攻めてくるのざから、一度はあるにあられんことになるのぞ。

大将ざからとて油断は出来ん。

富士の山動くまではどんなこともこらえねばならんぞ。

上辛いぞ。

どんなことあっても死に急ぐでないぞ。

神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近付いたぞ。

八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。

世界が一体になって攻めてくることは、このように『日月神示』の中にくどいほど出されてあるが、そうなった時、最初に火蓋を切るのは「北」であるようだ。

『続・瑞能神歌』で王仁三郎は「北から攻め入る非道さよ」と予言した。

『日月神示』にも、まるで同じことが示されているのだ。

北から来るぞ。

神は気(け)もない時から知らせておくから、よくこの神示、心にしめておれよ。

北に気付けと、北がいよいよのギリギリざと申してくどう気付けてありたこと近うなりたぞ。

嵐の中の捨て小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも判るまい、

メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、

梶も櫂さえ折れた舟、どうすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、それでは神も手が出せぬ、

腐りたものは腐らして、肥料になりと思えども、肥料にさえもならぬもの、沢山出来ておろうがな、

北から攻めて来る時が、この世の終わり始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終わりと思えかし、

この世の終わりは神国の、始めと思え臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意を急ぐぞよ

NO3へ続く


続きを読む

皇統奉仕衆とスサノオ

煩悩くん フルスロットルさんのサイトより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2237.html
多少、お下品なところもありますが・・・
<転載開始>
本屋でチラッと立ち読みした田村珠芳女史の『宇宙人が最終戦争後ののシナリオを用意しました』には、日本を裏から操っている権力中枢は「吉野」だという記述を見つけましたが、残念ながら、その根拠が書かれていませんでした。


ついに宇宙人が最終戦争後のシナリオを用意しましたついに宇宙人が最終戦争後のシナリオを用意しました
(2011/10/18)
田村珠芳

商品詳細を見る

(相変わらずこの題名には引いてしまう。かなりの情報網を持っている方のようですが、情報をネットで綿密に調べているという印象も受けます。ネット=不特定多数の個人の集合意識=宇宙意識=宇宙人と解釈すれば、納得が行く題名でしょうか!)

があれば、もある。
日月神示もいうように、裏と表は表裏一体。

「一心同体、少女時代」なのだす~(爆)

神道の表の顔が天照大神を祀る唯一神的な伊勢神宮ですが、これは人民恭順化の目的の為に、瀬織津姫...等の過去の日本の神々を封印、及び景教的要素を散りばめて改訂創造された神社神道だという結論に煩フルでは達しています。逆に、この表に対する裏に当たるのが皇室重要祭祀を独占し、縄文由来の三位一体神的な祭祀を行う裏神道の賀茂神社。統治権力もこれと同じく裏表の二重構造になっているのです。
※注 賀茂氏は秦氏と同族ですが、出雲王朝閉朝後、大臣職世襲した葛城氏につらなる邇波氏族(縄文人=アイヌ=エドム人)です。つまり賀茂神社が祀っているのは邇波氏系(中臣氏系)の神道であり、これ故、造神三神という「中央の柱」「峻厳の柱」「慈悲の柱」からなる「生命の木」を彷彿とさせ、アブラハムが説いたカバラ的な要素を孕んでいるのです。これが聖なる「3」にこだわるエビス人(縄文人)の思想であり、これが「ヤマト王権」の三王朝、その合同祭祀の場所「三輪」(三輪氏が興った地)、吉野蔵王堂の三体の蔵王権現、熊野三社、かつての伊勢神宮の三正殿として、聖なる数「3」が各処に顕現しているのです。

この辺のところをオイラの「マン毛狂写輪眼」、、、い、いや、「万華鏡(カレイドスコープ)写輪眼」で激しく洞察(妄想?)してみるだす(汗)。

まぁ、吉野裏権力中枢説はオイラも同意見であり、その根拠を以前の記事の中では、皇室のインナーサークルに属する栗原茂氏が『真贋大江山系霊媒衆』で明らかにした北朝の流れを汲む京都明治天皇の子・堀川辰吉郎を「影の天皇」して立て支えた一大グループ「皇道奉仕衆」に起因しますが、それ以外にも「壬申の乱」を起こす前に戦後の政体をどうするかで大海人皇子と白村江の戦いの敗戦処理で進駐してきた唐・新羅密使との間の密約を取り持ったのが吉野であるという理由からです。

吉野の中枢をする皇統奉仕衆勢力は対外的なネットワークを持ち、調整能力があるといえる。第二次大戦前に満州で活躍していた大本、種子島銃をいち早く入手し日本には存在しない火薬の原料・硝石を調達し銃の複製品を作り出す情報収集力、秀吉朝鮮出兵で新羅に寝返った雑賀衆(沙也加)を見るにつけ、この洞察は正しいと睨む。

「皇道奉仕衆」は吉野修験者や宗形神社を核とし、それに従う京都社寺勢(本願寺から大徳寺)、大江山霊媒(大本から学会)、玄洋社(黒龍会はその一部)、薩摩ワンワールド(土佐も入る)、公武合体の徳川(会津、紀州)からなるネットワークの仮称だと書きましたね。
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