http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki20120202.html
<転載開始>
本日は『運命の法則』(原田豊實・著/三笠書房)の中から、終末の時代に求められている「生命の浄化」に関する内容を抜粋してご紹介します。既に当サイトで繰り返し述べてきたことですが、おさらいの意味でご一読ください。①~⑭の下線の文章については後段で私の解説をつけています。
● 生命を浄化する
古来神道では「①明き、直き、清き心」を鼓吹してきた。また、膜(みそぎ)、祓(はらい)、精進潔斎(②飲食を慎み、身体をきよめ、けがれを避ける)など六根清浄(③眼、耳、鼻、舌、身、意の六根から起こる欲望を断ち切って清らかにする)の生命の浄化の行法が伝えられて現代に至っている。ところで、生命の浄化とは、われわれにとって、いかなる意義があるのだろうか。山蔭神道(古神道の一派)に、つぎのような教えが今も伝えられている。
「如何なる時にあっても、心を乱すな、心を濁すな、心を汚すな、④善かったことも、悪かったことも、その場限りで忘れよ。随処に主となって超然たれ」
しかるに、われわれの現実の生活はこれとはまったく逆に、さまざまの環境汚染や精神公害によって、ズタズタにさいなまれようとしている。この悲惨な状態から脱出するには、われわれ自らが「生命の浄化」に意識的な努力をすることが先決である。泥沼のなかの蓮華ではないが、ほんとうにわれわれの生命が浄化されていれば、いかなる外的な条件にも安易に汚染されたり、自己喪失の憂き目をみたりすることから逃れることができよう。
いまや、健康法花ざかりの時勢だが、⑤血液の浄化をはかることと、体内にたまった宿便を排除することが、病気にならないための基本的な原理とされ、食事療法や積極的健康法が開発されている。宿便とは、水道管の内側に付着したカスのように長年にわたり腸壁などに排泄されないままこびりついた便のことで、これがガンをはじめ各種の近代病を発生させる元凶だといわれる。
そこで、われわれにとって生命の器である肉体の健康管理が要請されるのであるが、その前に声を大にして強調したいことは、われわれの⑥「生命そのもの」の浄化こそ基本だということである。明大の市川浩教授の表現を借りれば「精神としての身体」そのものの清浄化が不可欠なのである。
それには、我欲(欲望)や我執(執着)といったわれわれの心身にまといつき、心をかき乱す一切の妄念や欲望(仏教でいう煩悩)から、われわれ自身が解放されることが大前提となる。法華経(観普賢菩薩行法経)にもズバリと、「⑦一切の業障海(自らの悪業の報いである業苦によって救われ難い世界)は、皆妄想より生ず」ととかれているが、この「妄想」こそわれわれの生命を自分自身で不浄にし、不幸にせしめる見えざる真因だと指摘するのだ。
「煩悩」とはそもそも煩い悩むことで、われわれは限りない欲求不満や怒り、腹立ち、そねみねたみ、憎しみ恨みといった感情によって、常に身をわずらわし、心を悩ましている。そして、この煩い悩む心の状態が、さらに欲と怒り、愛と憎しみの悲劇となって、自作自演を繰り返す始末になりかねない。
この積み重ねを、仏教では「業」(いわば身についた性)といって、とくに「悪業」を積むと地獄におちるぞと戒めてきた。また「身口意の三業」といって、意識(こころ)→口(ことば)→行為(おこない)の浄化こそが、自分をも他人をも真に幸福にする鉄則で、なかんずく⑧「自浄其意(じじょうごい)」、つまり自らの心を自ら浄化する努力がスタート・ポイントだと説いている。
「⑨腹を立てることと、物事を苦にすることの二つは、汚れの中の最大のものなり」これは黒住教の開祖・宗忠師(1780~1850年)の不朽の名言である。われわれにとって、この内なる公害をまず排除することが、身心を軽やかにし、丸やかにして平らな心となる極意だといえる。
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