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<転載開始>
みなさん、こんにちは。
いや~~、これは素晴らしい。遅ればせながら、ここにもメモしておこう。その名も「ヨコミネ式教育法」である。続きを読む
日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)
あれは1976年の5月 大学を退め、ヒッチハイクの旅の果て
恋する女を追って再び訪れた、奄美大島宇検村の部落
昼下がりの凪いだ海、ソテツと原色の花々、行商のトラックから流れる古い歌謡曲
まるで時がその流れを緩め、タイムスリップしたかのような時空間
湾と接して、目前に聳えるように浮かぶ海上の神殿のような枝手久島 それは、笑って僕を迎えているように見えた
それはとうとがなし(神々がなし)の永遠(とわ)の島
嗚咽と涙が溢れて止まらない
そこは、北国育ちの僕が、初めて知ったもう一つの心の故郷
世俗の部落の只中にある、コミューンの最前線、無我利道場
シマ(部落)では、日本語とは程遠い島言葉(シマグチ)が交わされ、夕暮れから夜になると、どこかのオジイが三線を爪弾く音と島唄が流れてくる
夜には、毒蛇のハブが人里に降りてきて、人々を脅かす
それは古き良き奄美世の名残、最後の残照の一時だった
雨期が上がった奄美は、5月でも真夏のような熱い日差しが連日のように続く
三度の食事は、麦飯とサツマイモ、キュウリ、ラッキョウ、ブタミソ
汗を流して働いて終えた一日、晩酌に黒糖焼酎の水割り
それが無我利の、そして島人(シマンチュウ)の定番だった
住処も耕作地も放棄され、原始に還った無人島の枝手久島
そこは失われた神話のステージ、ハブ発祥の伝説の地
世俗と隔絶された無我利道場の密部
そこは同時に、石油会社の土地買収による石油コンビナート計画が持ち上がっている、問題の場所だった
そこで僕らは、住居を作り、畑を開墾し、瞑想の場を開こうと新たな神話を創造しようと試みた
枝手久島にも対岸の部落にも、テレビも電話も無く、当然ながらケータイもネットもない
そこは、喧しく、刺激的な世の中情報の流れからは外れた地
そんな中で、島人も、僕ら無我利コミューンの仲間も、何一つ不便も不足も感じていなかった
テレビや新聞も見ることもなく、ラジオを聞くこともない日々の営みの中、労働と瞑想、遊びが一つとなって完結し、暮らしの全てだった
21世紀の現代ニッポンでは、人々は、都会にいても田舎においても、ケータイ、スマホなしには何もできない、何も始まらない
自宅にいても、仕事中も、電車やバスに乗っていても、クルマを運転中も、海や山に行っても、どこにいて何をしていても
人々の意識の焦点は、現前の世界に向き合うよりも、常にケータイやスマホの仮想現実の画面に向かっている
今や人々は、モバイル・マシンの端末そのものとなってしまった
このプラスティックの小さな端末は、現代ニッポン人にとっては、なくてはならない新たなお守り―小さな神殿であり、社会公認のドラッグ
こうして日本人は、大多数が"ケータイ教"の信者となった
その電子画面を見ている間中、その人の脳は、その電子信号に自動的に反応し続け、脳細胞がそれに麻痺している状態だ
そこに別な思考や情報が入り込む余地はない
人々はそうやって、死ぬまでケータイの画面と向き合って過ごすつもりか
ワカモノよ、端末であることを止めて、自分の心と大地自然を一度じっくりと見つめ、直に向き合ってみないか
それはモバイルの電源を切り、一人の時間、沈黙の時間を持たないとできない
この国では、たとえ山奥や田舎にいても、ケータイのネットワークから逃れることはできない
一時期でもいい、意識的にケータイやスマホを手放さないと、独りで沈黙の時間を持ったり、宇宙に直に向き合うことは不可能だ
その「情報」が空気のように流れている日常から、一度自分を切り離してみたらいい
たとえば、どこかの山間地、島国で
試みに一切のモバイル、PCを手放して、数カ月でも暮らしてみたらいい
その時、君は何を感じ、知るだろう
ふとした呼吸の合間、大地自然と宇宙の光、音、風が、直に君に流れ込み、語りかけるのをきっと知るだろう
東シナ海を望む無人島という島宇宙で、僕は外界の「情報」から隔絶されながら、大地と海、そして宇宙と直接、交感し、膨大な情報の海に浸されていた
そこでは日々の営みが、そのまま瞑想であり、神の戯れを生きることであり、島宇宙は神殿であると共に大宇宙の写しだった
思い出してほしい 私たちは、たとえケータイやスマホという物質的な通信機器が無くても、十分生きていける
情報は、人間同士、全宇宙と直接、交わし合うことができる
地球という孤島に、もうすぐ宇宙からの新たな海流が押し寄せ
電波通信やインターネットを超えた宇宙規模の情報ネットワークに繋がれる時が来る
その時、人々は知るだろう 私たちは五感と物質的次元の限界を突破して、無限の宇宙と次元に直接、アクセスできることを
私たちの全細胞は、元より宇宙と直接、送受信しているアンテナであることを
そしてその時、失われていた神話の時代が再び始まる
「食べること、やめました」 | ||
1日青汁1杯だけで元気に13年 | ||
森美智代・著 マキノ出版 2008年刊 | ||
●光り輝く野菜の「オーラ」が見えた 甲田医院では、現在は入院患者も新規通院患者も受け入れていませんが、私が入院していた当時は、最大で19人までの入院患者さんがいました。その患者さんたちがとる青泥や青汁の材料にする野菜は、医院の庭にある畑で作っていました。よく作っていたのは、ケール(キャベツの原種)、シロナ(ヒロシマナ)、チンゲンサイ、ツルムラサキなどです。 私たちが入院しているところの窓や入り□から、青々とした畑が見えます。 入院中のある晴れた日、何気なくその野菜畑を眺めていると、ケールなどの野菜から、きれいな「オーラ」が出ているのが見えました。実は、私は高校時代の終わりに甲田医院で断食したとき、人や動植物が出すいわゆる「オーラ」が見えるようになったのです。 オーラとは、人によってさまざまに解釈されていますが、一般には「生命エネルギーが具現化したもの」と考えられています。微弱な電磁波エネルギーともいわれ、何層かになっており、その色や輝き方、広がり具合は、発する人や動植物によって千差万別です。 このとき、畑の野菜からは、かげろうのように光り輝くオーラが出ていました。もっとも、そのときの私は、自分が見ているのがオーラだとは、まだ気づいていませんでした。 けれども、野菜の周りに何かきれいなもの、イキイキとした生命力を感じさせる何かがあるのはよくわかりました。「きれいだなあ、イキイキしているなあ」「野菜も生きている。世の中には命がいっぱいあって、いっしょに生きているんだなあ」と感じたのです。 何か世の中全体が輝いているようで、ただ「いいなあ」と思えたのです。 その野菜を摘んできて、青泥や青汁にしてとるわけです。すると、自然に「葉っぱの生命力をいただく」という気持ちになります。命を生かすために、ほかの命を「移す」とか「入れる」というような感覚です。 そんなふうに、「食事」を「ほかの命を移す営み」ととらえるようになると、今まで使っていた「おいしい」とか「楽しい」という形容詞が、自分の中でそぐわなくなってきました。食事は本来おいしいもの、楽しいものだと思っていると、「まずかったら嫌だ、つらい」となりますが、そういう回路があまり働かなくなってきたのです。 もちろん、食事をおいしく味わい、楽しむことも、人に与えられた大切な喜びだと思います。それを否定するつもりはまったくないのですが、私には、なぜかこういう感覚の変化が訪れました。これをきっかけに、少しずつ、生菜食を自然に受け容れられるようになった気がします。 |
次の何千年かの神話がスタートしたのであろうことを感じます。
今の世界には、大洪水の中をひとりで逃げたところから始まるような世界での神話の中で生きてきた人たちもいます。
しかし、これから始まる神話はそうではありません。
その頃には、願わくば、文字で記述された聖典などのない時代であってほしいですが、仮にそういうものがあるとしたら、その聖典の最初のページに出てくるのが、今の東北の災害と、もしかすると、今後、日本の他の地域も襲うかもしれない災害の中の「日本人」だと思います。
その何千万人の神様たちが世界の人々に言いたいことは、その何千万人の他の何十億人の人々も、全員が同じ神様そのものであることに気付いてほしいと。