大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

神道

日本人なら知っておきたい神道

 関心空間さんのサイトより
http://www.kanshin.com/keyword/574385
<転載開始>
西欧近代と宗教思想の関係について読んだことを少し書いたので(『現代文明論 上 「西欧近代」再考』のKW参照)今度は日本の神道について。いくつか見て1番読みやすそうだったこの本を読んでみました。結構目から鱗が落ちるような、なるほどなーという思いです。

幾つか抜き出すと…( [ ]内は目安のために自分で付け加えた。)

[一神教とのちがいについて]
豊な土地にいたから、日本人は自然の恵みに神を感じた。しかし、生活をするのが困難な砂漠のような土地に住む人間は、自然現象を人間の敵と考えざるをえなかった。そして、そのような生存に適さない土地の人間は、人間に厳しい掟を下す一神教をつくった。
 砂漠地帯などの自然の脅威は永続的なものだ。それにたいして、台風、洪水、地震、噴火などの日本の天災は一過性のものにすぎない。それゆえ日本人はそういったものを一時的な神の怒りと説明した。p16

[仏教との関係について]
 平安のはじめに、空海(真言宗の開祖)が、中国の密教を日本にもちこんだことによって、日本仏教のあり方は大きく変わった。密教僧が呪術を用いて出世病気回復などのさまざまな願いをかなえる事ができるとされたからである。
 これによって、自然を整えるのが神の役目で、個人的な望みを聞くのが仏の仕事だとする発想が次第に定着していった。そして、地獄・極楽のしそうが広まるにつれて、僧侶のもっとも重要な仕事は、人々を極楽浄土に導くことだとする考えがつくられていった。この流れを受けて、江戸時代に寺院が葬礼や墓地の経営を扱うようになった。p18-19

[神について]
近代以前の神道を解釈した書物には、「神は聖人である」とか「人の心の中に神がいる」とか「正直者の霊が神としてまつられる」「祖先が神である」といった解説が見られる。こういったさまざまなものを総合していくと、「あらゆるものの霊魂が神である」という考えにいきつく。人間も動物も、山や川、あるいは雨や風といった自然現象も、霊魂をもっている。この霊魂は、本来清らかなものである。そして人間が何らかの霊をまつったときに、それは神になる。p28

神道は、神を中心とするものではなく、人間を中心とする宗教である。神を信仰する者がいるから、神が存在するのだ。p31
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こしんとう(‥シンタウ)【古神道】

まがた魔さんより
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1844242.html#comments
<転載開始>
http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/koshindo.html
「祝(ハフリ)の神事を行わない天皇が百年続くと、日本の国体は崩壊する」
という恐るべき口伝です。
日本そのもの“鎮護祭”を代々天皇家が行っていました。そういう祭りによって、神の「御稜威(守護オーラ)」が日本を覆います。御稜威とは神の加護のことです。その霊力がだんだん落ちており、2012年に破綻するというのです。
これらは2012年までをうまく乗り越えれば、輝かしい未来が待っているとも解釈できるのです。
“不二と鳴門の仕組み”によって人間の「心の岩戸開き」が否応なく求められる時代になったようです。

2012すぎたからOKなのけ?

<リンク先より>

こしんとう(‥シンタウ)【古神道】

仏教や儒教などの影響を受ける以前のわが国固有の神道。

〔宗教(仏教以外)〕日本民族の伝統的信仰で、祭祀(サイシ)を重んずる多神教の宗教。その神には自然神と人間神とがあるが、一般には人間神、すなわち皇室や国民の祖先である天照大神をはじめとする神々が多く祭られ、祖先崇拝が中心となっている。かんながらの道。神道(シンドウ)。

《参考》神道は、皇室神道・神社神道・教派神道・民間神道に分けられるが、一般には神社神道をさす場合が多い。 


世界に注目される古神道

さて、ヨーロッパの知識人が東洋の伝統文化に驚き、その極致ともいうべき仏教文化に感動しているあいだは、まだ表面をなでているにすぎない。日本文化を本当に理解しようとする人びとは、その根底にある神道と出逢ってしまうのである。ギリシア・リュカディア島生まれのイギリス人、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲もそうだったし、イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーもそうだった。ちなみにトインビー博士は昭和42年の秋、伊勢神宮(内宮)を参詣したとき、その参拝記念帳に次のように書きしるした。

「この神聖なる庭に立つと、わたしはここがすべての宗教の原点であることを感じる」

いうなれば日本の神道は、宗教の源泉なのである。たとえば、ローマ・カソリックが日本の禅と神道を霊性開発の手段として半ば公認しているのは、キリスト教じたいに霊性開発の能力が失われているからほかならないが、もうひとつの理由としては、かれらが日本の神道を宗教の源泉と考えているからである。

日本の神道はしばしば多神教であるといわれ、実際、八百万の神々の存在を認めるから、多神教のなかでも際立ったものだ。すなわち、自然界の万物に神性を見、自然界に起きた諸々の現象を神々からの通信として感じる。いうなれば、古神道のいわゆる<神ながら>とは、自然に偏在する神々のすべてと一体化する、ということである。

とにかく、神道がいま世界的に注目され始めている、という事実である。それは神道が人びとの霊性を刺激し、人間と神々との交流を活発にさせるからである。その点で神道が<宗教の源泉>とよばれることには、大いに意義がある。

「古神道は甦る」菅田正昭・著より

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歌詞に隠された深い意味

達人さんの掲示板より
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs?from=bbsticker
<転載開始>
半分パラノイアですが面白いです。

前編 
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/human/post_118.html

後編 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/human/post_119.html


前置きが長くなってしまいましたね^^;
では、そろそろ童謡 『とうりゃんせ』の歌詞の意味を解いていきます。

『通りゃんせ』 作詞・不詳 本居長世 編・作曲

通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ  御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ


実は、この作詞は、神道集団「八咫烏」が作った事が分かれば、
その意味も、おおよそ分かってくるんです。

ここの管理人注;八咫烏=大カラスのことですが..........聖書にもありますね。

『Gorge of THE CHERITH(ケリト渓谷)。エリヤ(ELIJAH)が大カラスにエサを与えられた聖書的な場所として知られる。近くにはエルサレムからエリコに通じる旧道がある。.......主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り,東に向かい,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その水を飲むがよい。わたしはカラスに命じて,そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに行き,そこにとどまった。数羽のカラスが彼に,朝,パンと肉を,また夕べにも,パンと肉を運んできた。水はその河から飲んだ。しばらくたって,その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからだ。(列王記Ⅰ大17章2~7節)』

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諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/096suwa.htm
<転載開始>
なぜ聖書のイサク奉献伝承が、
日本の諏訪大社で祭りとなったのか。


アブラハムがイサクを捧げようとしたそのとき、
天使が現われ、彼の手を止めた。



 聖書の創世記二二章には、アブラハムが神の命令を受けて、「モリヤ」の地で、ひとり子「イサク」を捧げようとしたという記事が記されている。
 じつはこのイサク伝承が、なんと、パレスチナからはるばる離れたこの日本のある神社で、祭りとなって生き生きと伝えられていた・・・・。

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