大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

出口王仁三郎関連

出口王仁三郎の神の活哲学 増補版

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0910-1.html#08
<転載開始>
出口王仁三郎の神の活哲学 増補版
十和田龍・著  お茶の水書房
霊界は宇宙の実体界
  霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。唯物論者は、霊界とか天国は人間の想像力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。
  王仁三郎よれば、霊界と顕界(現界)の間は相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれ相応のものがあるという。
  「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神(かんながら)の順序によって相応なるものがある。また人間の万事と天界の事物との間には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」(『霊界物語』48巻10章「天国の富」)
  王仁三郎によれば、自然界とは「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の有力因(原動力)は霊界にある。
  神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを、王仁三郎は「用(よう)」と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が実現する。 たとえば日常の細々とした用の積み重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、鳥や獣はそれなりのやり方で用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。
  現界は霊界の移写であり、縮図だ。霊界の真象をうつしたのが現界だから、現界のことを称してウツシ世という。たとえば3776メートルの富士山を数センチ四方の写真に写したとする。その場合、現実の富士山は霊界で、その写真が現界。写真の富士山はきわめて小さいものでも、現実の富士山は大高山だ。だから霊界は人間の夢想もできぬ広大なものである。
  わずか一間四方ぐらいの神社の内陣でも、霊界では、ほとんど現界人の見る十里四方はあるという。現実界の事物はすべての霊界の移写である。霊界は情動想念の世界だから、自由自在に想念の延長ができるからだ。

人は肉体と精霊でなり立つ
  現界に物質的な姿や形があるように、相応の理により、霊界にも霊的な姿や形がある。人間の精霊にも霊的な容貌、姿態があり、それを霊身という。
  あらゆるものに内面と外面があるように、人間の精霊の想念にも内面と外面があり、それを内分と外分という。内分は霊魂そのものの志すところ、想うところで、いわば真実の心、偽りのない本心のことである。外分は現界の事物に影響を受けた肉体的感覚、記憶、知識、その知識をもとにした言語、動作などのことで、表面の心、本心を覆い隠す心といってよい。
  肉体が肉体的五官を持っているように、霊身は霊的五官をもっている。この霊的感覚は、死後に機能するだけではなく、生きている間も機能する。それならば、我々はどうして霊界のことが感じられないのか。王仁三郎は「肉体的五官に妨げられ、その機能が鈍っているからだ」という。だが、中には霊的感覚の鋭い人がいる。霊眼で霊界の事物を見たり、霊耳で霊界の音や声を聞く人もある。
  人間の精霊には、霊的な内分と現界的な外分の二面が備わっている。人間はその内分から見て生きながら霊界にいるが、その外分から見れば現界にいる。だから人間は霊界と現界とを和合させる媒介者である。
  ところが一口に霊界といっても、高天原もあれば根底の国もある。高天原からは清く明るい天国的な内流が注がれており、根底の国からは陰湿で暗い地獄的な想念が押し寄せてくる。問題は、人間がそのどちらと相応するかということだ。高天原に相応するのも、根底の国に相応するのも、各自の自由意志である。生きながらその籍を高天原に持つときは、それを神界の相応者という。


関連してこちらもどうぞ → 出口王仁三郎の神の活哲学
続きを読む

友愛と愛善

煩悩くん フルスロットルさんのサイトより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2419.html
<転載開始>
ここのところ、中国や金融関係で友愛される人が多く、実に怪しい展開をしている。で、この「友愛」に対極するのが「愛善」だと密かに睨んでいる。

「友愛」は水平方向の愛ですが、それを標榜する団体がピラミッド構造なので、どこが「友愛」なのかと言われて久しいですが、「愛善」は対象が人ではなく形而上世界である点が異なり、垂直方向の愛であるが「アガペー」に近い。

この愛善をキーワードにしていたのが、出口王仁三郎聖師の「大本」です。
※註 王仁三郎の「王仁」は記紀に登場する日本に千字文と論語を伝えた謎の人物「王仁(わに)」と関連ありそうだす。本名の「喜三郎」を「鬼三郎」と書かれたことに対し「鬼」の字を嫌い「王仁」の字を当てたことに由来するというが、「わに」を使用した例もあるという。実はこの「王仁」、語り部によれば、縄文人の招聘で傀儡王であり、漢字を伝えた「倭旨(金首露王)」なのだという。漢字が聖書起源の作りをしているのは、この初期大王家(扶余国王家)が漢字発明の祖であったからにほかならない。

大本に起きた事件の年月日が、ちゅうど6年後の同じ日に同様な内容が日本に起きたり、期間が同じというシンクロがあることは、スピな人には有名な話ですが、これ故、聖師の語る内容や行動に注意を向けないわけにはいかないのです。

その一例をあげると、、、

■S.9年7月22日
東京九段の軍人会館で昭和神聖会発足。以後大本は急速に右翼化

■.15年7月22日
東京九段の軍人会館で近衛内閣が組閣。陸相の東条秀樹が大政翼賛会を発足。 以後、日本は急速に右翼化

■S.10年12月8日
憲兵特攻が松江の宍道湖近くに滞在中の王仁三郎を奇襲検挙

■S.16年12月8日
海軍の特攻隊がハワイの真珠湾に停泊中の米国太平洋艦隊に奇襲攻撃

■S.11年4月18日
綾部・亀岡の聖地及び全国関連施設がダイナマイト1500発で破壊

■S.17年4月18日
米軍機が東京・名古屋・神戸等の本土上空を空襲爆撃で廃虚化


■S.20年9月8日
大審院にて大本は無罪。王仁三郎は国への賠償請求放棄。

■S.26年9月8日
サンフランシスコ講和条約で太平洋戦争終結。戦後連合国は日本への賠償請求放棄


■大本弾圧事件発生~最終解決迄が9年9ヶ月
■太平洋戦争~サンフランシスコ講和条約締結迄が9年9ヶ月

■王仁三郎の投獄期間
6年8ヶ月(2435日 閏年2回) 昭和10年12月8日~昭和17年8月7日

■日本の連合国占領下の期間
6年8ヶ月(2435日 閏年2回) 昭和20年8月27日~昭和27年4月27日


まさに神憑り的なシンクロです(滝汗)
大本が「日本の雛形」ということが分かる内容です。

続きを読む

出口王仁三郎 三千世界大改造の真相

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-onisaburo.html
<転載開始>

出口王仁三郎 三千世界大改造の真相

中矢伸一・著  KKベストセラーズ  1993年8月刊
  日本が世界の雛型(相似形)であるということは、最近では多くの人が知るところとなっています。その地形が世界の縮図のようになっているだけでなく、日本で起こることがやがて規模を大きくして世界のどこかで起こると見られています。
  そのことを早くから明らかにしていたのが、神霊世界の大巨人と言われる出口王仁三郎でした。そして、当時は「世界の雛型である日本で起こることは、まず大本で起こる」と言われていたのです。神霊界からの導きでそのことを熟知していた出口王仁三郎は、世の立て替え・立て直しの模型(かた)づくりの意図を持って、官憲による2回に及ぶ大本の弾圧を誘発したと見られています。
  その1回目の弾圧が模型となって、日本は第二次世界大戦に破れ、原爆の投下という形で悲惨な終戦を迎えます。しかし、大本の2回目の弾圧が1回目とは比較にならないほど徹底的な破壊を伴う激しいものだったことからして、それが日本に移写された場合は、1回目をはるかに上回る悲惨な形になると見られているのです。そのことが、出口王仁三郎が「自分の死後にトドメの予言が降ろされる」と予告した日月神示によって、いま明らかにされています。
  それは、聖書にある「終末」や「アセンション(次元上昇)」とも相通じる中身となっており、今日の世界情勢や地球の状態から判断してますます現実味を帯びつつあります。世界の雛型の国に住む私たち日本人にとって、決して無関心ではおれない問題です。
  そういう観点から、少し長くなりますが、以下の抜粋にじっくり目を通していただきたいと思います。                                  (なわ・ふみひと)

 これから起こる日本の2度目の立て替え

  王仁三郎によれば、大本は「型」をするところであるが、この「型」にも2種類あるという。ひとつは、神霊界に起こったことが、その写しとして地上現界の大本の中に現象化することである。これは「模写(かた)」と表記される場合もある。今ひとつは、これから地上界に起こる立て替え・立て直しを、大本の内部において「型」として演出すること。これは「雛型(かた)」と表わされる。
  こうした意味において、『大本神諭』には次のような神示が多く出されている。

  世界にある事変は、明治三十二年から大本の中に模写(かた)がして見せてあるぞよ。

  大本の雛型
(かた)は、神界の仕組みであるから世界中へ映るぞよ。

  この綾部の大本は、世界に出来てくる事を前に実地の型をして見せてあるから、十分に気をつけておくがよいぞよ。

  このような大もうな御用、真実の御用になりたら人民の中では出来んから、模型
(かた)を命じて御用さすぞよ。


  これらはすべて神界で起こった立て替え・立て直しの仕組みが、現界では大本に反映し、大本で型として出されたことが世界に写っていくことを述べたものである。
  さらに、この移写の仕方には、三段の型と呼ばれるものがある。簡潔に言えば、神界で起こったことは、続いて幽界に反映し、そして地上現界に写る。立て替え・立て直しの経綸の場合、その“受け皿”的役割を担った大本に写ってくる。
  また、大本に起こった立て替え・立て直しの型は、まず日本に写る。その後に世界に移写していくというものだ。つまり、いずれの場合も三段階を経るということである。
  大本は、明治25年旧正月から昭和18年元旦の50年の間に、この「三段の型」を実演したのであった。

  明治25年から昭和18年までの50年間のうち、大本は2回にわたる「立て替え」を経験している。「第一次大本事件」と「第二次大本事件」である。
  大本にあったことが日本に移写するとすれば、日本においても「立て替え」が2回起こらなくてはならない。
  第1回目の立て替えである「第一次弾圧」は、日本においては大東亜戦争における敗戦という形で写ってきている。しかし、大本の場合もそうであったように、一度目のこの立て替えにおいて、すべてが壊されたわけではない。
  一度は無条件降伏に追い込まれ、体制改革を受け入れた日本であったが、その立ち直りは極めて迅速であった。日本人ビジネスマンは企業戦士などと呼ばれて世界中を駆けめぐり、世界第2位の経済大国になるまでに成長した。
  これは、大本が第一次弾圧の痛手を乗り越え、宣伝使の活躍によって世界の五大陸にまで支部を設立し、いわゆる「大本の黄金時代」を築いた時の“型”が、そのまま移写されたものではないか。とすれば、第二次弾圧の移写である日本の2度目の立て替えは、これから起こることになる。
  第二次弾圧というのは、規模においても、残虐さにおいても、第一次弾圧をはるかに上回るものであった。とすると、日本にこれから起こるであろう「第二次立て替え」は、大東亜戦争末期に現出した立て替えとは比べものにならないものになる。
  ともかくも、王仁三郎の言うように、大本は「型」を行なうところであった。そしてその「型」には、“善”の部分もあり、“悪”の部分もあった。

  50年間に及ぶ大本の雛型神業は、けっして平坦なものではなかった。むしろ、いろいろな人間が集まり、つねに様々な思惑が渦を巻いていた。大本の内部でも多くの派閥が発生し、互いに反目し合うこともあった。
  大本内部でのゴタゴタは、初期のころから枚挙に暇のないほどある。特に、開祖存命中は、王仁三郎に対する風当たりは、大本内部においてかなり強かったようだ。しかし、大本とは雛型をするところである。そこには、善的な型も悪的な型も含まれる。
 『大友神諭』には、次のように記されている。
続きを読む

放射能、TPP、消費税…日本の将来を決する分水嶺とは

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/16261060.html
<転載開始>
2012_0822_102933-DSC03232

皆様、お久しぶりです。
この夏の暑さや大雨に負けずに、元気で、ご無事でいらっしゃいますでしょうか。

また、更新頻度の低い拙ブログにコメントや 拍手や「拍手コメント」など応援の声、ご意見を頂戴し感謝、感謝です。

冒頭の写真は今住んでいる町にある公園の池に生息する若い白鳥でとても人懐っこくて、可愛いヤツなのですが先日、怪我の為に市の動物愛護の係の方が「10日程治療します」とのことで連れて行ってしまいました…早く良くなって公園に戻って来ることを祈っています。

この所ブログの更新もできないほど忙しかったのですが、とうとう今の仕事が終わる見通しができて、あと十数ヶ月で日本に帰ることになるのですが、日本で放射能汚染食品の規制が徹底的に行われていないことや、西日本でも放射能汚染ガレキを燃やす自治体が増えている事を考えると「日本に帰国できる日」を楽しみにもしていた頃が嘘のような、気分の落ち込みを経験しています。

そもそも、欧州の先進国の都市と日本を比べると緑の少なさや高速道が有料であること等、公共インフラの整備の上で先進国と言っても良いのか分からないくらいの彼我の差の激しいことを海外へ仕事に出る度に思い知らされて来ました。欧州では、写真のような緑あふれ、池では白鳥に至近距離で接することのできる美しい公園が車で5分程度の場所にあるというと、日本の友人、知人が皆羨ましそうにしますが…

労働時間の長さや残業規制の形骸化や、育児制度の貧弱さなど日本国は自国民が健康で幸せに発展することをあまり願っていないのではないかと、特に311以降は、問わざるを得ません。
続きを読む

王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0908-1.html#8
<転載開始>
王仁三郎の霊界物語科学こう解ける
須藤アキオ・著  徳間書店
  では〈身魂磨き〉とは何か。
  〈身魂〉とは魂の意ではなく、肉体(身)と霊魂(魂)の双方を指したものである。この両者を磨くというのは、古い神道の考え方である。ここでは
霊魂(魂)の潔斎について考えていこう。
  人によって魂(心)には一種の癖あるいは個性がある。心理学的にいえば、自我がかぶる仮面(ペルソナ)やコンプレックスである。(中略)
  出口王仁三郎は、「
個性は霊界に持ってゆくもので、個性を洗練し養成するのが人間の肉体生活である」(『玉鏡』「個性」)と述べている。
  人間は螺旋の階段を昇りながら向上してゆく。よく自分がクリアしなければならない課題だと薄々気づいているにもかからわず、それから逃避して、たとえば職場や交遊関係を替えたりしても、また、同じ問題が浮上するような事がある。たとえ一時はよくなっても時間を置いて、そして、時には忘れた頃にそれはやってくる。
  出口王仁三郎は、その個性(癖)は信仰による智恵によってのみ矯正されるのだとするが、それはこういうことだろう。
  いわゆる人生論なるものは、海で譬えれば表面の波にすぎない。生存難に追われ、まるでサーフィンのように、その波をどれだけうまく乗りこなすかという処世術だけが人生だと勘違いされている。しかし、たとえ怒濤が逆巻こうとも、その下には静かで大きな海流が流れているのみである。この大いなる意志の実在を認め、進展・向上してゆく気持ちがなければ、癖(個性)が直らないということだろう。
  また、出口王仁三郎は、〈身魂磨き〉を剣の錬磨に譬えている。つまり、砥石にかけて研ぐと、どろどろの汚物が出、剣そのものもまったく汚れて光を失うが、磨き終わって研師がさっと水をかけると、鉄をも断つ名剣となるのである(『玉鏡』「身魂磨き」)。
  東洋医学でも、
瞑眩(めんけん=目がくらむこと)という現象がある。
  孔子は『書経』の中で、「薬瞑眩せざれば即ち病癒えず」と著しているが、
病気が快方に向かうとき、最後にもう一度、悪化したかに見える症状がある。これを瞑眩という。剣を研ぐ際の汚れも同様であり、螺旋階段的に発展する際にも、この瞑眩現象が起こる。前向きに発展しようと思えば、必ずその過程でさまざまな苦難と葛藤がある。それは他人から見れば見苦しく見えるかもしれない。しかし、それを恐れて現状で止まっていては何の発展もない。そして、水をさっとかけてもらえば、次の段階に発展している事を覚るのである。

「霊魂の潔斎」に関してこちらもどうぞ → なぜ肉は食べるべきでないのか
<転載終了>

出口王仁三郎の霊界からの警告

なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1006-1.html#12
<転載開始>
出口王仁三郎の霊界からの警告
武田崇元・著  光文社文庫  1993年刊
21世紀、超弩級の「ヒの雨」が降る!
  いま私たちの社会構造や意識は、目に見えないところで大きな変化を生じはじめている。
  しかもその変化は、いままでにない超弩級の文明的変化で、そうなれば21世紀には、これまでの人類社会が、まったく別な世界に生まれ変わってしまう、そんな予感がきわめてリアリティを帯びてくる時代を私たちは生きている。
  元NHKディレクターで文明評論家の浦達也氏は、これをいみじくも「あの世がこの世になる時代」と表現し、「レトロ・フューチャー」というキーワードで説明する。「レトロ・フューチャー」とは、「過去と未来を合わせ鏡にして、たがいに照射する混合ビジョン」だという(『仮想文明の誕生』光文社)。これは、まさに過去と未来が反響するかのように照応する『霊界物語』の時代の到来を予感させる言葉ではないか。
  いずれにせよ、これから私たちが直面することになる変化は、どんなかたちであれ、人間の存在の仕方まで変えてしまう「種の進化」に近いような変化になることはまちがいない。
  この進化の引き金はすでにひかれている。まだまだ大峠はつづく。「種」としての再生と破局のドラマは永続革命のようにつづくのだ。
  「火の雨」とは核の恐怖だけではない。「ヒの雨」とは、人間が進化のためにくぐりぬけなければならない「霊(ひ)の雨」でもある。
  王仁三郎は「今の世」のかなたに、「大未来」すなわち「ミロクの世」があるという。そして、ほんとうの「ミロクの世」は、「今の世」とはまったく違う位相にある世界だという。
  『霊界物語』には、「大過去」つまり神代に地球の現界で起こったことがおもに記されている。しかし常識的にいって、その当時の人間は、原人レベルにとどまっていたはずである。まさか『霊界物語』は、その原人の物語ではありえない。35万年の過去には、『霊界物語』の世界と、原人の世界とが同じ地球上に、同時に存在していたのである。
  そういうことがありえない、と考える人は、いまだに手応えのある現実がひとつだと思っているからにすぎない。そのような現実に対する素朴な存在論そのものが、21世紀になると崩壊するだろう。
  過去と同じく、未来にはふたつの世界が共時的に存在することになる。
  どんどん人間が進化してゆく過程で、ある種の人びとは、いねば異次元の「大未来」、ほんとうの「ミロクの世」へとスパイラルに移行する。
  だが、進化から振るい落とされた人間は、大三災、小三災によって廃墟となった都市空間をドブネズミのように彷徨いあるき、無限地獄のような闘争を繰り返すことになる。そういう人びとが救われるためには、さらに王仁三郎の再臨を待たねばならないのである。
  またある人びとは、永久に脱出が不可能な、ネガティブなヴァーチャル空間に閉じ込められることになるのかもしれない。脳とコンピュータがインタラクティブ(双方向)になるということは、基本的には進化の契機になるが、また別の観点からいうと、一定数以上の悪思念に凝り固まった脳が存在すれば、悪思念によって支配される袋小路のような負のヴァーチャル空間が実際に出現するということにもなる。
  王仁三郎の言葉に「立て分け」という無気味な言葉がある。これまで人類が経験したことのない大進化(大峠)の過程で、この世自体の「立て分け」が行なわれる、と読み取れる確言である。
  王仁三郎は昭和17(1942)年に仮出所したあと、陶芸作品に没頭する日々を送る。晩年の王仁三郎は、その波瀾の生涯とは対照的な静かな毎日を送った。それは、人間としての王仁三郎に、わずかに許されたやすらぎのときであったともいえる。
  ところが、王仁三郎はある奇妙な行為にその最後の情熱を燃やす。わずか1年のあいだに、約三千個におよぶ陶器を焼きあげるのである。その光輝くような独特の不思議な色彩感覚は、のちに専門家から「天国の美」と絶賛され、耀?(ようわん)と名づけられる。
  みずからを壮大な「器」と化して、霊界と現界の交感磁場の創出を、未曽有のかたちでくわだてた出口王仁三郎──その彼がひたすら焼きあげた「器」には、なんの思いがこめられていたのだろうか。
  無心に土をこね、最後の霊的造形力で「型」となし、みずから窯に火をくべて焼きあげる王仁三郎。そのとき、彼は産霊(うぶすな)の土に霊的な命を仮託し、燃え上がる紅蓮の炎のなかに、あらたな宇宙の創造を準備したにちがいない。
  現界での命を限りあるものとした出口王仁三郎にとって、それは最後のエネルギーの燃焼でもあった……。
  王仁三郎はかつて「わしのは予言ではなく預言」だといったことがある。
  「預言」とは、すなわち「言を預かる」という意味である。神は警告を発するが、いったんその言を預かる。そして再三の警告にもかかわらず人民や指導者がいうことをきかぬときに、いよいよ「いうてきかしてわからねばきかしてみせる」のである。
  また、王仁三郎は、こうも言っている。

  ことさらに神は地獄をつくらねど己がつくりて己がいくなり

  その時期は近づきつつある。

ひとくちコメント ―― 終末の大峠がどういう形で始まり、決着していくのかということがおぼろげに理解できる内容です。この世界は複層化(二極化)するということです。出口王仁三郎の言葉を借りれば、高級霊界(神界)と融合してできた「ミロクの世」と、大三災と小三災に見舞われ、悪思念によって覆われた地獄的世界とに分かれていくということになります。それが「立て分け」と呼ばれるものです。
  未来と過去、現在が融合するというイメージは、時間が直線的に流れるわけではないとされる霊界の様相と似ています。別な表現をすれば、過去の行為(身・口・意)のカルマが現在に反映し、現在の行為(身・口・意)がカルマとなって未来において開花するという形でなく、身・口・意がすぐに形となって現れる世界が訪れるということです。今すでにそのような傾向が強まっていることを感じますが、人が悪思念を持てばそれにふさわしい現象がすぐに実現するわけですから、そのことによってさらに悪思念が加速されることになります。そうやってこの世界の二極分化が進み、大峠(2012年12月と見ています)においては、それぞれ人は二つの位層(位相)に魂の居場所が決まっていくということです。(なわ・ふみひと)

<転載終了>

死に直面しての安心立命…最も大切な大峠 by 出口王仁三郎

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3929386.html
<転載開始>
 
祖師
今日の作品は王仁三郎による菩提達磨大師像です。

まだまだ寒い日が続きますが皆様お元気でお過ごしでしょうか?

さて、昨日は311の一周忌ということで記事を連続3投稿しましたが今回
もこのブログとしては珍しく連日の投稿をさせて頂きます。

昨年の複合大災害や放射能汚染の拡散により、これまでもよりも「死」
が身近に感じられるようになってしまった方が増えているようです。

今回は、そんな、死に直面せざるを得ないという心境の方々にお読み
頂きたい、出口王仁三郎の文章を紹介させて頂きます。

死に直面しての安心立命

死というものは、人間にとってはもっとも大切なる大峠である、階段である。

霊肉分離の時をもって、普通一般に死だという。いかなる思想、いかなる境遇の人間も、死というものの境界に思いをいたした時は、なんらかの感慨にうたれないものはない。虚心虚無の境に入ったと平素いっている悟道者もまたそうとうの寂しみを有するのがつねである。いわんや俗人においておや。現世にたいして執着の感想を強うするとともに、行く末にたいしての欲求が沛然(はいぜん)として抬頭(たいとう)してくるだろう。
かなりの屁理屈をさえずって飯を食っている間は、別にその本心に衝動はないが、さて口でこそいろいろと強そうなことを言っていても、それがいよいよ何日の何時に汝の生命いな肉体は破滅すると断定された時には、人、相当の想いをいたすは事実である。

それが各人各様に、そうした事実が運命づけられていながら、明らかでないからよいようなものの、的確に断定されたら、かなり強烈なる衝動を感ずるであろう。万事は天運とあきらめてみようと思っても、それは生に対する欲求があまりに強いためにできにくい。

未来は天国へいって復活するという確信があっても、それが時間的に断定されたら、どうしても心魂がぐらついてくる。死の境に直面して、真個に微笑してゆくと言う人は、真の信者のほかには断じてないだろう。一段の宗教家らしい人も信仰者も、精神修養者も道徳体験者も、既成宗教のいずれの派の信徒も、真個に微笑して心から嬉しく楽しんでにこやかに死につくものはない。

ゆえに吾人は地上一般の人々にたいして、この大問題を解決し、心の底から安心立命させたいがため、日夜の活動をつづけているのである。

朝夕の教会もうでも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、かねをたたいて読経するのも、悪いことではない。それはただ信仰の行程であって、百万億土に極楽浄土があって、そこへ行ったら蓮華の台にのせられて、百味の飲食(おんじき)がえられると無我に信ずることができて、木仏、金仏、石仏、絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることのできる者は幸福者だが、現代の人間はそういう絶対他力の安心のできがたいものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめこんでいるものも、かならず助けてもらえると絶対他力の帰依者も、いよいよ死という一段に想いをいたした時はぐらついてくるものが多い。

あれほど信心深い同行
(どうぎょう=註:念仏修行者、浄土教門徒のこと)でさえということがある。極楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀(みだ=阿弥陀仏)をキリストをといっても、それはあまりに安すぎて受けとりにくい者が多い。

こう思い考えてみると、真個に信心のできたものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。(『神の国』昭和3年10月)


天国の富

…「モシ五三公(いそこう)さま、もしも私が天国へ霊肉脱離の後、上ることを得ましたならば、定めて貧乏人でしょうな」
「アゝそうでしょう、ただ今すぐに天国の住民となられるようなことがあれば、あなたはやはり第三天国の極貧者でしょう。しかし、ふたたび現界に帰り、無形の宝という善の宝を十分お積みになれば、天国の宝となり、名誉と光栄の生涯を永遠に送ることが出来ましょう」

「それでは聖言に、貧しき者は幸いなるかな、富める者の天国に到るは、針の穴を駱駝(ラクダ)の通うよりも難し、というじゃありませぬか」

「貧しき者は常に心驕らず、神の教えに頼り、神の救いを求め、尊き聖言が、比較的耳に入りやすうございますが、地上において何不自由なく財産のあるものは、知らず知らずに神の恩寵を忘れ、自己愛に流れやすいものですから、その財産が汚穢(おえ)となり、暗黒となり、あるいは鬼となって地獄へ落とし行くものです。もしも富者にして神のために尽くし、また社会のために陰徳(いんとく)を積むならば、天国に上り得るの便利は貧者よりも多いかも知れませぬが、世の中はようしたもので、富者の天国に来るものは、聖言に示されたるごとく稀(まれ)なものです。その財産を悪用して人の利益を壟断(ろうだん)し、あるいは邪悪を遂行し、淫慾(いんよく)に耽(ふけ)り、心身を汚し損ない、ついに霊的不具者となって、たいてい地獄に落つるものです。たとえ天国に上り得るにしても、天国における極貧者です」 (引用元:『霊界物語』第48巻第十章「天国の富」大正11年1月13日)

聖師様3
今日も最後までお読み頂きまして
誠に有難うございました。
<転載終了>

2011.3.11 から1年…出口王仁三郎「愛と善の世界」

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3914439.html
<転載開始>
 
聖師様2
王仁三郎近影(昭和10年頃)

今日は3月11日。
2011年3月11日から丁度1年です。

あの日、PCのライブ画像を通して、平和な街や村、堅牢な現代建築や車両、そして大地が、津波に呑み込まれて行くのを見て凍りついたかのように画面にくぎ付けになったのは私だけではなかったでしょう。

私はその映像を見ながら出口王仁三郎が作った『基本宣伝歌』を繰り返し、繰り返し、頭の中で、そしていつしか気づかず、小声で呟いていました。(下記は、一行づつ左から右端まで続けて読みます。)


朝日あさひるともくもるともつきつともくるとも
たとへ大地だいちしづむとも曲津まがつかみすさぶとも
まことのちからすく
三千さんぜん世界せかいうめはな一度いちどひらかみのり
ひらいてりてむす月日つきひつちおん
このすく生神いきがみ高天原たかあまはら神集かむつど
かみおもてあらはれてぜんあくとを立別たてわける
このつくりし神直日かむなほひこころひろ大直日おほなほひ
ただ何事なにごとひと直日なほひ見直みなほ聞直ききなほ
あやまちはなほ

あの日を境に多くの人と日本、そして世界の運命が変ってしまいました。
この1年、多くの方がもがき、苦しみ、闘い、声を上げ、意識を変革し、行動を起こしてきましたが、まだまだ曲津神(邪神や悪魔)に心を奪われたままの権力者や、お金に目が眩んだままの我利我利亡者が国を動かし、多くの人の運命、命、健康をあらぬ方向へと誤導している現実は変わっていないようです。

この苦しい一年での唯一の光明は、これまで他人に蔑まれようが、キチガイと罵られようが自らを信じ、家族や子供、隣人の命や健康を何物にも代えがたいと気付き、意識を変革し、行動を起こした人が少なからず増えているように思えることです。

『大本神諭』に言う、「強いもの勝ち、我良し、獣の世」である事が赤裸々に、311の大災害と放射能汚染への日本人の対応を通して浮かび上がっているように感じられます。

現在の政府や官僚や東電と密接に結び付いている大企業や「食べて応援」PRを推進する大広告会社等の国民の命や健康よりも己の富と自己保身を優先する「我良し」の心が今まさに浮彫になり、これに気付いた多くの人がこれまでの来し方を改めようとしているようです。

王仁三郎が阪神淡路大震災を予言したとされる『霊界物語』第69巻にはこのような和歌があり、私は長年納得がいかなったものです:

 天地(あめつち)恵みの深ければ

                    世                         よまもらむと地震なゐふるいた

(引用元拙ブログ記事:

出口王仁三郎の大予言:1995年の阪神淡路大震災


何故、天地の神の恵みが深いが故にあのような悲惨な大震災を起こし、それが世を守るためになるのかと。

しかし、阪神淡路大震災や 311の複合大災害を経て、日本社会の暗部の真実の姿がより鮮明になるにつれ「神の恵みの深ければ世を守らむと地震至る」の意味を感じることができるようになってきたような気がするのです。

政府や大企業などの「悪」とも取れる、呆れる程人命や国民の健康を蔑にするかのような政策や施策を見聞きする一方で多くの国民が原発の危険性に気付き、行き過ぎた拝金主義に疑問を持ち、脱原発デモや、俳優の山本太郎さんが関わることで有名になった福島のこども達を救出するプロジェクト、そして伝統的宗教団体も昨年の原発事故後、2,3か月頃から続々と脱原発の方針を表明して来ました。(曹洞宗や浄土真宗をはじめ日本仏教各宗派、団体や、キリスト教各種団体、神道諸教会、各派も相次いで原発継続に反対か、疑問を投げかけ、福島の子供に対する懸念を表明して来ているようです。)

上掲の基本宣伝歌の一節にある、「神が表に現れて善と悪とを立て別ける」とは当にこのようなことを言うのではないかと感じてしまいました。

王仁三郎は人間には生まれながらに神の御分霊が備わっていて自然に善悪の判断はできるものであるという考えから人間の精神を雁字搦めにするような厳しい戒律を説くことはありませんが、我々個人は世相や社会の動きを見て自ら自律的に判断を迫られる、善悪の分水嶺に立たされているのだと、私は思います。

王仁三郎の思想には、「善悪一如」「刹那心」と 言うものがありますが、これは一人一人の人間、個人では何が本当の「善か悪か」社会的制約や時代の制約、または立場や事情の違いで善悪の基準を判断することは難しい、人間はその場、その時、一刹那毎に最善を尽くすことしかできないというものです。

(「食べて応援」や「絆で放射能瓦礫拡散」、未成年の殺人犯への死刑求刑等、簡単に善悪正邪を判断できない事例でしょう。)

人間に判断できかねる善悪正邪の基準は「今、自分の行動が長期的、より大きな視野においても有害なものにならないよう」神仏に祈りながら決断し、それに基づいて行動するしかないのだと思います。

このブログをご高覧頂いている読者の方は、今の政府や自治体や企業の恐ろしいまでの拝金主義的政策を憂慮し、怒りさえ感じている方や、またこの先の日本はどうなるのか、我々の生活環境は大丈夫なのか、子供達の将来はどうなるのかと不安と恐怖と闘っている方も多いと思います。

放射能汚染食品や瓦礫が全国に拡散され、日本全国が汚染されようとしている今、我々はできる限りの平和的抵抗と自己防衛ををして、あとの結果は神に任せる、「復讐するは神にあり*」というキリスト教の聖書の一節のような心境になることも個人の精神衛生上、大切なことだと思います。

(*註: 復讐したい程の酷い仕打ちを受けても、復讐、攻撃するような悪い心、行動をするのではなく、神に任せておけば自然に然るべき結果に落ち着くという事)

今日は最後に、自分の中で最善を尽くしながらも、個人の手に負えない所は悩み過ぎず、神に任せなさい、という王仁三郎の言葉をご紹介させて頂きます。


愛と善の世界

愛ということになって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは千里ほど向こうに行ってしまっておる。また神様が罰するとか戒めるとかいうようなことがあれば、神そのものの御神格というものは、千里ほど向こうに脱出してしまっているのである。

この世の中は愛と善とで固まっている世の中でありますから、何事も総て愛善の神様にまかして、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎ越し苦労をしないよう-過ぎ越し苦労というものは、すんでしまってからのことである。

あいつはああいうことを言いよったとか、あいつのかたきをとらんならんとか、ああせなんだら今まで大分財産もできておったのにと、いうようなことで、また取り越し苦労をして、明日のことを明日はどうしようかと考えておってもしかたがない。

千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行くところは東京なら東京と決めて置いて、一足ひと足を注意して行く。積極的刹那心をもって進んで行く。そうすれば影が形に伴うごとく、愛善の心が起こって来る。

取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起こって来ぬ。怨恨も忘れて来る。また妙な欲望もなくなる。それが惟神の精神である。(『愛善苑』 昭和25年一月号)

 〇進むのみ ただ一心に進むのみ 積極主義の愛善の道

(引用元:みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

聖師様3
今日も最後までお読み頂き誠に有難うございました。

<転載終了>

出口王仁三郎と大本神諭の基本中の基本について

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3879051.html
<転載開始>
聖師様1
今日は昭和10年直前頃の
出口王仁三郎の近影写真です。

お蔭さまでこのブログの記事も色々なHPやブログに引用して頂いているようです。
引用頂くことについては、一般の引用ルールのみお守り頂ければ特に制限はありませんので今後ともよろしくお願い致します。

以前に増して、多くの方にご高覧頂く中で出口王仁三郎について全く何も知らないという方には、老舗のサイトが王仁三郎やその著書『霊界物語』、そして王仁三郎の義母である出口直大本教祖の筆先を王仁三郎が神と直の許しを得て取捨選択し、殆どが、かなと漢数字のみの『お筆先」に漢字を当てて出版した『大本神諭』について
の基礎知識が得られますので是非ご参照下さい。


・【オニド】 王仁三郎ドット・ジェイピー http://onido.onisavulo.jp/
 出口王仁三郎に関する情報については最も充実している老舗サイトです

・出口王仁三郎をめぐる冒険~王仁さBLOG  http://onisablog.seesaa.net/
 王仁三郎の「凄さ」をより深く知るためには欠かせない大本事件や王仁三郎出征の秘密について
 私が王仁三郎ファンになったきっかけの超おすすめブログです

さて、『大本神諭』に以下のような行がありますが

…からと日本にほんたたかいがあるぞよ。 このいくさはいくさかみかげから仕組しぐみいたしてあるぞよ。
 かみおもてあらはれて、日本にほん手柄てがらいたさすぞよ。 露国ろこくからはじまりて、モウひといくさがあるぞよ。
 あとは世界せかいおほたたかいで、これから段々だんだんわかりてるぞよ…


これは明治25年旧正月に出された出口直によるひらがなとわずかな漢数字による『お筆先』を王仁三郎が取捨選択し、漢字をあてて出版したものです。

そして、ここでの「からと日本の戦い」は日清戦争のこと、また、「露国から始まりて、モウ一戦」は日露戦争のことで直による予言が的中したと日清、日露戦争後に評判になったのです。(日清戦争については出版前に直の近隣の住民が事前に知らされていたのみだったと思います。)

「世界の大戦い」 については第一次、第二次世界大戦のことで、もしかすると今後の戦争(絶対にあって欲しくは無いです)の事やも知れませんが、2012年3月以降に「中国やロシア」と個別に戦争し勝ことを予言したものではありませんので、御取り違い無きよう、切にお願い申し上げます。

出口王仁三郎は大予言者、大宗教家、大霊能者でもありましたが、神がかりを審査する「審神者(さにわ)」でもありました。王仁三郎は出口直の『お筆先』を審査する役割をも神から許されていたと、『お筆先』に書かれていたのです。

明治25年の正月前後から 神がかりになり、自らも気が狂ったのではないかと恐れる出口直に対して、神が「この神を判ける人は東から現れる」と、王仁三郎の到来を予言していたのです。

そして、数年後、既に修行を終えていた出口王仁三郎が直に繋っていた「艮の金神」と名乗る神が正しい神であり「国祖国常立大神」であると判断したのが王仁三郎であったのです。

後に、王仁三郎は直に懸った「国常立大神」から王仁三郎の御魂こそが「みろくの神」の御魂であると宣言されることになるのです。

王仁三郎も直も、それぞれの予言・預言や偉大な 霊能力を示すことでその信憑性を互いに証明し、相互に審神、其々の位置づけや正当性を証明したとも言えるのです。

神はそれほど、この二人の宗教家の正当性を証明しておく必要があったのです。
それは狐ツキや邪神などによる霊かかりと神かかりの違いを明確に示し、人々が正当な判断ができるようにとの配慮であると言えます。

王仁三郎は後に、弟子にこのように語っています。

〇直接内流は厳瑞二霊

真神(かみ)様は厳の霊(いずのみたま=大本開祖出口直)と王仁とを通じて、発表されたのである。直接内流とは厳の霊と、瑞の霊(みずのみたま=王仁三郎)だけである。『霊界物語』と筆先(大本神諭)に皆出ているのである。王仁達はしやわせ(幸福)な時に、生まれてきたのである。千歳一遇である。五十六億七千万歳一遇を、千歳一遇というのである。(昭和18年2月4日)

〇神がかりは禁止

神様は大正十年から神界の大本営で、一切の神がかりを禁止されているから、その後の神がかりは聞きはつったのをいうのであるから、そんなものは言ってやっても判らぬから、相手にせずホッておいたほうがよい。(昭和18年2月4日)

〇霊界物語の権威

『霊界物語』によってのみ人は救われる。『霊界物語』に反対する者は王仁(じぶん)に反対するものである。読まないのは王仁(じぶん)に、反対するのだ。『霊界物語』を嫌いなものは反対するのである。(昭和18年4月)

(引用元:八幡書店刊 『新月のかけ』より)

王仁三郎の言行や予言、『大本神諭』の予言は〇〇神示とかXXの霊言などが発表される随分前に既にその予言の信ぴょう性が時間の経過と発言の証拠(王仁三郎の書籍や発言は大正、昭和の大本事件によって当時の裁判記録に残っている)によって証明されていました。

それだから、〇〇神示など昭和10年以降の「霊がかり」などを広める際には王仁三郎や『大本神諭』の証明された宗教的、霊能的権威を借りたり、『大本神諭』の行を使って、それまでの神諭や宗教は先走り、だが同系統の神から出された神示だ、などと宣伝をしているようですが、上記の王仁三郎の言葉と矛盾することになります。

特に、「『霊界物語』以降に出されたという、〇〇神示 が、「『霊界物語』によってのみ人は救われる」とまで王仁三郎が説いているにも関わらず、その神示の中で『霊界物語』のれの字も言及されていないのは矛盾し過ぎていませんでしょうか?

もし、〇〇神示が王仁三郎や『大本神諭』のお墨付きを得ているのなら、どうして『大本神諭』の本文自体にその存在が何度も言及され、神が唯一求めていた立替え立て直しをできる存在が王仁三郎であるとまで国常立大神が語った王仁三郎の「昭和10年以降は神がかりは禁止」という言葉に反して昭和10年以降に神示を降ろしたり、『霊界物語』を無視したりできるのでしょうか?あまりにも矛盾していませんか??

〇〇神示やXX霊言集などを信じることは、自由ですし、それを信仰している人を批判する ものではありませんがそれらを宣伝する際に、それら神示が王仁三郎や『大本神諭』の後継であると高らかに宣言することに対しては矛盾を感じずには居られません。

このブログを読んで頂いている方には既にご存じの内容だとは思いますが、出口王仁三郎と『大本神諭』の基本中の基本として、是非、御認識頂きたく、お願い申し上げます、

 ●出口王仁三郎は 明確に 「『霊界物語』によってのみ人は救われる。『霊界物語』に反対する者は王仁(じぶん)に反対するものである。」  と宣言していることをお忘れなく!


聖師様3
今日も最後までお読み頂き誠に有難うございました。

<転載終了>

王仁三郎の未来予言が実現してしまうのか?全国への放射能瓦礫拡散と汚染食材流通

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3874127.html
<転載開始>
観音様
今日の作品は王仁三郎による聖観音立像の墨画です。

拙ブログの更新を心待ちにして下さっている方から幾つかのフィードバック
を頂きまして大変有難うございます。本業が忙しくなっている中で不定期でも
頑張って更新するための励みになります。本当に有難うございます。


さて、今の日本の食糧事情は放射能汚染食材の流通が当たり前となってしまった感がありますが、今度は「食べて応援」攻撃に続き、「瓦礫受入れ」攻撃が激しくなって来ました。汚染食材を食べ続けるだけでも3年後、5年後の子供や青少年等低線量被爆に敏感な世代を中心とした健康被害が大いに懸念される中、日本国中で放射能汚染した瓦礫を「放射能除去フィルター」も無い処理場で燃やし、煙と一緒に空中に放射性物質を巻き上げて毒の雨となって降らせるようなことが、幾つかの自治体では、平気で始まっています。

皆さん、汚染食品は注意深く選べば自己防衛もできますが、そらから放射性物質という「恐怖の大王」が降ってくるのを防ぐことや空気中に拡散された放射性物質を体内に吸い込まないようにすることは非常に難しいことは明白です。

遠隔地の自治体が被災地から受け入れるべきは「汚染された瓦礫」ではなく「汚染から逃れたい人々」ではないでしょうか?もし、日本全国から汚染されていない土地が無くなれば、放射能による健康被害に苦しむ人々は、どこに逃げればいいのでしょうか?

一人一人が声を上げるのは今しかありません。
署名をしたり、自治体や地元政治家に意見、陳情できるのは今しかありません。
面倒くさいとか、良く分からないと言っている時間は実はもう殆ど残されていません。
厚生労働省は全国の自治体で被災地からの瓦礫を受入れる自治体には国が国民の税金を使って補助金を出してでも、放射能汚染瓦礫を全国各地にばら撒くと言っています。

ここまで徹底して、国民の健康や遺伝子に対するリスクが高まっている現状は次の王仁三郎の予言が的中してしまうのではないかと私は本当に、本当に、恐れています。以前のこのブログの記事でこのことをご紹介した際は、まさか政府が国民の気持ちを無視し、ここまで汚染食品や汚染瓦礫を流通・拡散させるとは私も思ってはいませんでした…関連する王仁三郎の予言を拙ブログ過去記事から引用します。

人々が神に目ざめないと…


王仁三郎は戦後、

「放射能汚染による」とは明言していなかったようですが奇形児や脳性異常児が増えて、

まともに人間の姿、感情を持った者が「殆ど生まれなくなる」と大変心配していたという言葉が残っています。


出口王仁三郎は弟子の大国以都雄氏(人類愛善会相談役:当時)に

「人々が神に目ざめないと、わしが死んでから三代目か四代目になったら、たいへんなことになる」

と言っています。(現在は丁度、王仁三郎の孫(3代目)とひ孫(4代目)が現役世代)

(引用終了)

この予言は、裏を返せば、日本人が神に目覚めれば「たいへんなこと」は避け得るのではないかと云う希望であるとも言えるのではないでしょうか?

では、「神に目覚める」とはどういうことでしょうか?
私は、拙ブログ読者の皆様一人一人が「神」や「宗教」という概念のみに囚われる事無く深く考察頂きたい重要事項ではないかと考えています。

私個人は、神仏や、人類の集合無意識、人類共通の良心、に悖るような、「多くの命を一部の利権のために利用するような」心を捨て、一人一人が自分の持ち場でできる方法で国レベルの決断に利権側ではなく、国民の命と健康を守る方向に決断できるように良い影響力を「主権者」として権利を行使することではないかと思います。

神仏が、利権のために日本全国を放射能汚染させることをお慶びに成られるとは到底思えないのですが如何でしょうか?

これに対し、「利権による誘惑」や恫喝の為に国民の命や健康を差し出すようになってしまっている権力者や今の政府、官僚、企業などの指導者の多くは、日本を瓦礫のゴミ捨て場にして日本文化や日本人を絶やそうという「曲津神、悪神」による計画にのせられているのではないかと考えてしまいます。

瓦礫が燃やされれば、空から放射性物質の毒が降ることになりますが、出口王仁三郎が義母である出口直の筆先に漢字を当てて編集した「大本神諭」にこのような予言もあります。


毒を空から降らして、日本の人民を絶やすしくみ


…毒を空から降らして、日本の人民を絶やす経綸(しぐみ)を昔から致して居る事が、能く神には判りておるから、永らく知らしたのでありたぞよ…

今日、王仁三郎による観音様の墨画をご紹介したのは、この絵と同様に聖観音立像は普通、観音様の側から苦しむ衆生を救済するための一歩を踏み出している構図が取られているからです。皆さんも観音様のような心で吾と我が身と隣人を助ける小さな一歩を踏み出してみませんか?

*ご参考)ネット上でもできる署名サイトを見つけました

  【緊急全国署名】バラまかないで!震災がれき 燃やさないで!放射能ごみ
http://houshanou-shomei.seesaa.net/
  (汚染をこれ以上広げないために、汚染された廃棄物のより適切な処理 を求める署名を集め、政府に提出します。ぜひご協力をお願いいたします。)


では、最後に王仁三郎の和歌を2首ご紹介して今日の記事の締めくくりにしたいと思います。


 ・何もかも 神示実現の世となりぬ 政治宗教戦争経済

 ・文明の極致は世界の混乱を招きて治まるところを知らず


聖師様3
本日も最後までお読み頂き誠に有難うございました。

<転載終了>
記事検索
情報拡散のため1回ポチッとクリックお願いします。
人気ブログランキングへ
読者登録
LINE読者登録QRコード
RevolverMaps
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新記事
最新コメント
カテゴリ別アーカイブ