大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

月は盈つとも虧くるとも

「偏頗なき心」…出口王仁三郎著 『霊界物語』第四七巻序文より

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3574095.html
<転載開始>
聖師さまお髭
上段真ん中髭の人物が大正10年~11年頃の王仁三郎

昨日の記事では王仁三郎の「日本魂」についての壮大かつ繊細な思ひについてご紹介しましたが、今日ご紹介する大正十二年に書かれた、出口王仁三郎の『霊界物語』第四七巻 の序文も、当時としてはとても先進的な考え方ではなかったかと思われます。

貧富の格差が広がり、大震災や原発事故による放射能汚染の脅威、長びく不況に無策とも見える政治に対し、心底失望し、少々右寄り、タカ派でも現状を変えてくれそうだというだけで政治家を選ぶ現代の我々にとってこの文章は警告とも取れる内容です。

戦後の改革により折角手に入れた、身分制度のない、世界で尤も平等で貧富の差が少ない日本は貧富の差に関しては最早過去のこととなりつつあり、 つい先日は人気政治家によって平和憲法や戦争放棄の理想を揶揄するような発言がありました。

なんとも勇ましい発言でしたが、先の戦争で明らかな事は、政治家や外交官、企業家が、平和的、外交的努力を怠り、短絡的に戦争を目指すのは彼らの経済的失敗や失政のツケを国民の命と血と財産という代償によって払うということだという事実を我々庶民は学んだのではなかったのでしょうか?

今、与野党で審議、準備している法律についての報道を目にしましたが、戦前戦中の統制体制に先祖がえりするような法案があるようで気になって仕方がありません。

このような文章を自由にネットで公開できるのも何時までなのかと、将来、或いは近い将来に思いを馳せる今日この頃です。

何時ものように前置きが長くなりました。では、王仁三郎の文章をじっくりと 味わって下さい。戦争前夜に突入する前の大正の終わりの雰囲気が彼の文章から伝わってきますが、今の日本の状況に少し似ているようで寒気がするのは私だけでしょうか…

(引用開始)

偏頗なき心

「太陽は日本の太陽だ、世界は日本の太陽のお蔭で生きているのだ、それゆえ、日本をヒノモトというのだ。世界を人体にたとえてみると、日本は頭にある、小さいけれども、身体全部を支配する脳髄を持っている。欧羅巴(ヨーロッパ)は手足に当る、それだから、汽車その他便利な機械を発明して、足の役目を勤め、また種々の文明利器を発明して、手の役目を勤める。また亜米利加(アメリカ)は胴に当るから、大きいことは大きいが馬鹿である。」

というようなことを真面目に書いてあった。水戸の会沢伯民という儒者(じゅしゃ)の作った書物新論にかぶれた連中は、まだわが国民の中には多少あるらしい。今日はモハヤこんなことをいっても通用しない。しかし日清、日露の両戦役に勝利を得てから、日本人はますます自負高慢となり、近来の日本人の思想感情の中には、この新論に類した誇大妄想狂が少なくないと思う。

ことに神を信仰する人々のなかには、著しくこの思想と感情が台頭しているように思われる。

西洋は物質文明の国、日本は精神文明の国である、と識者の間にはしばしば称えられているが、その精神文明といえども、今日のところでは、西洋に劣ること数等下位にありといってもよい。物質文明には、泰西人に先鞭をつけられ、いままた精神文明においても、かれ泰西人の後(しり)えに瞠着たるの浅間しい有様である。

日本は霊主体従(ひのもと)と謂って、精神文明すなわち神霊の研究には、他に優れていなければならないはずだ。研究すべき材料も比較的豊富に伝わっているのだ。しかるに、今日のわが国の学界の趨勢をみれば、実に惨澹たるものではないか。

また日本は武力については、ことに自負高慢の度が強く、この武力をもってすれば、何事でも意のごとく解決し得らるるものと思っているものも少なくないようだ。

大本の筆先にも「日本の人民は、支那(しな)の戦争にも勝ち、また今度の露国との戦争にも勝ちたと申して、大変に慢心をいたしておるが、いつまでもそんなわけにはゆかぬぞよ」と示されてある。

油断をしていると、どんな事になるか分かったものでない。

頑迷固陋な国粋論者は、何時までも愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような言論を吹きたて、独りよがりの態度を持しているのは、実に国家のために悲しむべきことである。

(引用註: 上記の文章は大正12年に書かれたものだということを考えると王仁三郎の先見性に今更ながら驚きます。大霊能者として当時の日本の未来を見透かしていた王仁三郎とって、「愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような…実に国家のために悲しむべきこと…」と書いた際の心境は如何ばかりのものであったかを想像すると胸が詰まる思いです。又、この部分だけを取り出せば当に今の言論、政治の動きにピタリと当て嵌まり、「いつか来た道」が現実になろうとしていると思えてなりません…)

この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界一統的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々はこの物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉ぐることはできない。

神道も仏教も耶教(
引用註:当時一般に使用されたキリスト教の呼称の一つ)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるようだが、その最奥をきわむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆえに神の道を研究する人は、広き清き偏頗なき心をもって、真面目にかかっていただきたいものであります。

(出口王仁三郎著 『霊界物語』第四七巻「序文」 大正十二年一月八日)

(みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>

大黒様と出口王仁三郎随筆「日本魂(やまとだましい)とは」について

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3572893.html
<転載開始>
大黒様
(出口王仁三郎による大黒様)

今日の作品は王仁三郎の墨絵の作品で「大黒様」です。
王仁三郎の直筆「王仁」の下に見える印記は「百度維新」と「百済博士」と読めます。

「百度維新」は 神の経綸によって弱肉強食の我よしの世に対する「立替え立て直し」や「大峠」に対する警告を発し続けた王仁三郎の印記としてとても相応しいものだと思います。

また、 「百済博士」については自らの名前の一部と日本に漢字を伝えたとされる百済からの渡来人「王仁博士」に因んだものでしょう。

この「百済博士」の印記からも推察できることですが、王仁三郎ほど日本文化や大和魂の大切さについて説き、その伝承に心を砕いた人はいないのでは無いかと思えるほどのナショナリストでありながらもその思想は明治生まれとは思えない程、先進的なインターナショナルな面を併せ持ち、矛盾がないというものでした。

ともすると、王仁三郎の「宗教家」、「預言者」、「霊能者」という側面のずば抜けた能力や業績のみに目を奪われがちになりますが、彼の「思想家」としての先進性にも目を止めて頂きたいと思います。

さて、近頃は「君が代」「日の丸」を義務化するという勢力が力をつけて来ています。そこには日本とその伝統や愛国心を高揚させようという良い側面もありますがともすれば権力者や一部の企業家、政治家の思うままに庶民をコントロールするための強力な道具にされたという歴史的事実から目を背けてはいけないと思います。

日本の伝統文化、愛国心を高揚させるというナショナルな面のみならず、真の愛国とは何か、真の大和魂とは何かという事をいつも自問自答しつつ偏らない、世界平和というインターナショナルな思想の良い面と、ともすれば大企業理論によるネオコン思想と結び付く、貧富の差を大きくすることを良しとするようなグローバリズムに陥ってしまう悪い面にも同様に注意する必要があるのではないでしょうか?

王仁三郎には以前の拙ブログの記事

日本魂(やまとだましい)は、どんなものか知ってるか by 出口王仁三郎

で、ご紹介した以下のような言葉があります。

(出口王仁三郎が弟子に対して)

「日本魂とはどんなものかしってるか」

「武士道と違うんですか」と申しますと


「阿呆やなア。
王仁(おに)は日本魂は外国人とも唐人とも一緒に手を
繋いで仲良くすることと王仁はそう習うたけどなア」


(八幡書房刊 「新月の光(かけ)」木庭次守(編)より引用)

さて、「日本魂、大和魂」という言葉が最も頻繁に使われていたと思われる昭和9年の王仁三郎の随筆をご紹介したいと思います。戦前の勇ましいことが当たり前だった時代の不特定多数の読者に向けた文章であり、時代的制約や論語からの引用や宗教用語も多々使用されていて上記の短い文章と比べると、分かり難い部分はありますが壮大かつ繊細で優しさが溢れる文章だと思います。本日はその全文をご紹介します。

(引用開始)

大和魂とは、天地の神の精神と合一した心である。至仁至愛の大精神にして、何事にも心を配りゆきとどき、凶事に逢うとも大山のごとくびくともせず、物質欲を断って、精神はもっとも安静な心である。

天を相手とし、凡人と争わず、天地万有山野河海をわれの所有となし、春夏秋冬も、昼も夜も暗(やみ)も、雨も風も雷も雪も、みなわが言霊の自由になしうる魂(たましい)である。

いかなる災禍に逢うも、艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来するごとく、世事いっさいを惟神(かんながら)の大道にまかせ、好みも無く憎みもなさず、義を重んじてつねに安静なる魂が大和魂である。

つねに心中のどかにして、川水の流るるごとく、末にいたるほど深くなりつつ自然に四海に達し、我意をおこさず、才智をたよらず、天の時に応じて、真意にしたがって天下公共のために活動し、万難に撓(たゆ)まず屈せず、無事にして善を行うを日本魂(やまとだましい)という。

奇魂(くしみたま=智慧)よく活動するとき大人の行い備わり、真の知者となり、物をもって物を見きわめ、自己にひとしからんことを欲せずして、身魂とともに平静である。小人というものは、自己を本として物を見、自己にひとしからんことを欲するがゆえに、つねに心中静かならず、これを体主霊従
(引用註:たいしゅれいじゅう=体欲や物質的事項が精神より優先するという理想的でない状態を意味する。これに反し「霊主体従」の状態を理想とするのが王仁三郎の思想の中でも重要な用語の一つ)の精神という。今の世の中一般の心はみなこの心である。
誠の日本魂(やまとだましい)のある人民は、そのこころ平素内にのみ向い、自己のひとり知るところを慎み、自己の力量才覚を人に知られんことを求めず、天地神明の道にしたがいて交わり、神の代表となって善言美辞(ぜんげんびじ)を用い、光風霽月(こうふうせいげつ)のごとき人格をそなえて、自然に世に光輝をはなつ身魂である。

心神(しんしん…
引用註:ここでは精神の意味で使用か)つねに空虚にして一点の私心なければ、常永(とわ)に胸中に天国あり、何事にも優れまさりたる行動を好み、善者を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ、かつ恵む、富貴を欲せず羨まず、貧賤をいとわず侮らず、ただただ天下のために至善をつくすことのみに焦心す。この至心至情こそ日本魂の発動である。

わが身富貴に処しては国のために心魂をささげ、貧に処しては簡易生活に甘んじ、欲望を制してかりそめにも他を害せず、自暴自棄せず、天命を楽しみて自己応分の天職を守る。これこそ日本魂の発動である。

天下修斎の大神業に参加するとも、けっしてあわてずさわがず、身魂つねに洋々として大海のごとく、天のむなしゅうして鳥の飛ぶにまかすがごとく、海の広くして魚の踊るにしたがうごとき、不動の精神をつねに養う。

これが神政成就(しんせいじょうじゅ)の天業に奉仕する身魂の行動でなければならない。

凡人の見て善事となすことにても、神の法(のり)に照らして悪しき事はこれをなさず、凡人の見て悪となすことにても、神の誠の道に照らして善き事は勇みてこれを遂行すべし。

天意にしたがい大業をなさんとするものは、一匹の虫といえどもみだりにこれを傷害せず、至仁至愛にして万有を保護し、世の乱れに乗じて望みを興さぬ至純至粋の精神を保つ。これが誠の日本魂の発動である。

(『昭和青年』昭和九年三月号)

 ○ 白梅の花のかおりの清しさを たもちてこの世に生きんとぞ思う

(みいづ舎刊 出口王仁三郎著『瑞言集』より引用)

聖師様3
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<転載終了>

放射能瓦礫拡散とその結末…そして出口王仁三郎の未来予言

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3345880.html
<転載開始>

放射能瓦礫拡散とその結末…そして出口王仁三郎の未来予言


文殊菩薩像
今日の画像は王仁三郎による、文殊菩薩像です。

今日は、読者の皆様方に「文殊の智慧」を発揮して頂いて、5年後の日本
を想像しながらお読み頂きたいと思っています。

チェルノブイリの時も、5年程度は身近に、明らかに放射能汚染が原因だ
と感じるような病に罹る人が出なかったせいで多くの人が途中で経口に
よる内部被爆について気にしなくなったそうです。

今の日本は、チェルノブイリでさえしなかったような、食品と瓦礫による
汚染の拡散を政府が率先して実施しています。

今は目に見える被害を身近に感じなくとも、チェルノブイリよりも多くの
汚染物質を放出し、今も放出し続けている福島がどうなるかは想像に
難くないのではないでしょうか?

チェルノブイリでは今でも多くの子供達が甲状腺癌や白血病、そして
遺伝障害に苦しんでいます。

出口王仁三郎の予言には次のような恐ろしい予言があります。

「人々が神に目ざめないと、わしが死んでから三代目か四代目になったら、たいへんなことに(人間の姿、感情を持った子供が殆ど生まれなく)なる。それがわしは、本当に一番心配なんだ」

(詳細は、拙ブログ過去記事 『日本の未来を予言するチェルノブイリの今をタイトルクリックの上ご参照下さい。)

王仁三郎は生前、ワシは悪い予言が当たらんようにするために生まれてきた、という趣旨の発言を信者や弟子にしていたそうです。また、神さまは此の世では人間をお使いになって人類救済の活動をされるとか。

私は、上記の恐ろしい予言と、今の政府が補助金で持って地方自治体の首長や有力者等を取りこみ、放射能汚染した瓦礫を日本全国にばら撒くことで、東電や政府の失態を隠そうとしている事が、繋がっているのではないかと感じています。

もし、日本の人々の大多数が、その事に無関心のままで、我々地方住民が反対の声を上げ意思表示をしないままだと、セシウムやストロンチウム等の放射性物質を含んだ瓦礫が日本全国に拡散され、日本には放射能から逃れられる安全地帯が無くなってしまうのではないでしょうか。

そして、日本国中の青少年の体や遺伝子が蝕まれることで、冒頭の予言が成就してしまうように思えて仕方がないのです。

瓦礫を受入れない意思表示に対し、権力者は非国民だとか、利己主義、自己愛の塊だとかと言ったレッテル貼りを行ったり、「絆」や「瓦礫を受入れて被災地応援」と言った言葉でマスコミを通して日本国民の感情操作を行おうとしています。

もし、全国的に汚染瓦礫を受入れれば、被災地でこれからますます汚染に苦しむことになる住民の方々は何所に逃げればいいのでしょうか?そして、殆ど全ての日本人の子孫が放射能汚染した遺伝子を子々孫々傳え続けなくてはいけないのでしょうか?

皆さん、「時は今!」です。

反対できる時間は刻々と短くなっています。

昨年、横浜などでは瓦礫の受け入れに多くの住民が反対したことで撤回できたという実績があります。
諦めないで、今こそ、紳士的に冷静に、しかし毅然と各自治体に反対の意思表明をメールや電話で伝えませんか?ご自分の選挙区の代議士に意見表明しませんか?

今こそ、本当に自らの故郷を愛し、国を思い、未来の子供達を思い、ささやかながらも行動すべき時ではないでしょうか??

最後に王仁三郎の歌を紹介して今日の記事を締めくくりたいと思います。

手も足も動かさずしてみろくの世、早や来れかしと祈る曲神

大三災小三災の頻発も、人のこころの反映なりけり


だから瓦礫拡散反対の意思表示をしましょう!!
行動し祈りましょう!

聖師様3
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(1)医師からの意見書
 
(2)秋田大教授 瓦礫を受け入れてはならない12の理由
 
  専門家が危ないと指摘しています。
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        <転載終了>

「相応の理」 霊界は宇宙の実体界 by 出口王仁三郎

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3156057.html
<転載開始>
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寒い日が続きますね、読者の皆様いかがお過ごしでしょうか?
お風邪など召されてませんか?

こんな日には生の酵母菌が生きている米麹の甘酒などを沸騰する前に火をとめ暖めて飲むと昨今の世相に冷え切った心も(?)体も、ぽかぽかと温まりそうです。

さて、私の大好きな、出口王仁三郎作「基本宣伝歌」の一節には「神が表に現れて、善と悪とを立分ける」という有名な言葉があります。この言葉を見る度に今、上の方で悪いことと知りつつお金の為に多くの庶民の命を削るような政策を進めたり、せっかく戦後の大改革で国民が得た数々の権利を無にするような法律を作らせたり、公約やマニフェストをカエルの面にションベンで平気で破ったり、国民の涙で贅沢をしようとする人は、必ず、必ず、神さまからの御裁きを得ると信じつつ、今の政治家や官僚の方々の国民に対する信じられないような裏切り行為に落ち込む心を励ましつつ、久しぶりの記事更新をさせて頂きます。

今日は前回のお約束通り、王仁三郎の思想の根幹の一つである「相応の理」について書かれた文章をご紹介したいと思います。

「相応の理」では霊界が主で現界が従なのですが、現界で自分が行った行為も霊界に顕れるということでもあるということも言える様で、すごく簡単かつ乱暴な言い方をすると閻魔帳的事象は存在するんだろうということです。

だから、「悪を抱き参らせる」等という今流行の言葉を信じていると人間本来が持っている「恥じる、悔いる」と言った心を無理やり黙らせて、破廉恥な行為を正当化する方向に導かれてしまうのではないかと個人的には感じている今日この頃です。

王仁三郎の『霊界物語』や密教の教典などには平凡な人間からみると吃驚するような事が書かれている箇所があるかとは思いますが(密教の理趣経などでは性行為を通しても悟りを解説する行があるようですね)、そのような個所は凡人がそのまま読むと間違いの基であって、だからこそ、理趣経は密教では入門者や初心者には読ませないし、『霊界物語』の神々の自由恋愛とも取れる表現に見て取れる『天祥地瑞』について、王仁三郎は『霊界物語』の73巻までを3回以上読まないと読んではいけないと言っていたこともあるそうです。

ヒンズー教の密教にタントラ教というものがあるそうですが、これも門外漢や部外者から見れば最高の教えが性行為を通して表現されるような箇所があり、実際に究極の修行を積んだ僧や尼僧には稀にそのような行為を修行として行わせることもあったようですが、時代が下るにつれ破壊僧や凡人の欲の隠れ蓑になってしまったりして教え自体が歪められ、偏見を持って見られ、廃れてしまったということもあったようです。

王仁三郎の教えは非常に明るく、心に天国を築くことが大切だと説かれていたり、善悪の基準も時代や場所、状況に応じて必ずしも一定とは言えないと説かれている所もありますが、自ら悪と感じる行為をしてしまっても善悪の基準は一定じゃないから、とか悪を抱き参らせるから、などと自分に言い訳をして、自らの良心を裏切ることを推奨することはしていません。

そんなことをすると「自らの心の鬼が自分を責める」ことになってしまい、良心に嘘をついた時の嫌な気持ちを無理に忘れようとしても自らの心に天国を築くことにはならないのではないかと思います。

悪いと、自分で思う事をしたときは「宣り直す(のりなおす)」と言って速やかに過ちを認め、謝罪することが推奨されています。

また、王仁三郎自身が大正10年以降は神がかりを禁止としていることや、真の遺言を遺していることなど過去記事にも書いておりますので、是非「王仁三郎は実はこういっていた」とか「実は密かにある人に遺言を遺していた」などという言葉には惑わされませんように。

王仁三郎は遺言には「スの拇印」と呼ばれる○に・が入ったように見える自らの拇印を全ページに押印して本物かどうかが分かるように遺してくれています。王仁三郎は、その本物の遺言の中で『霊界物語』を読むことだけは何が有っても決して辞めてはいけないと、熱心に書き残しているという事を是非知って頂きたいと思います。

その『霊界物語』には、この「相応の理」という考え方が色々な形で表現されています、物語の登場人物に語らせたり、物語の全体を読むと分かるようになっていたり、直接的に「相応の理」を解説する文章があったりという具合です。

では「相応の理」の基本をご紹介するにあたり、私が霊界物語を読む以前に王仁三郎の思想について書かれた本を乱読していた時期に「これは!」と思った本から少し抜粋してみたいと思います。

以前のブログ記事で、ご紹介した王仁三郎の孫にあたる出口和明氏が作家としてデビューしてからしばらく使っていたペンネームである十和田龍の名前で出版された『出口王仁三郎の神の活哲学』(御茶の水書房から1986年刊行) からの引用です。

小説家 十和田龍、(出口和明氏)が王仁三郎の『霊界物語』やその他の著書を丹念に読み込んで咀嚼した内容を王仁三郎の言葉を引用しながら現代人にとっても分かり易く解説してくれている良書です。まだ『霊界物語』や王仁三郎の著書を読んだことが無いけれど王仁三郎の思想の概要について把握したいと云う人にとって最良の書ではないかと思います。

(引用開始)

第四章 相応の理 

●霊界は宇宙の実体界

霊界は宇宙の実体界で、現界は 霊界の移写(いしゃ)、つまり映像の世界である。

ヒンズー教では、この宇宙の創造はブラフマン(引用註:ヒンズー教の最高神の一柱で創造の神。仏教で云う「梵天」)の遊戯だといい、この世は神によって作り出されたマーヤ(幻影)だという考え方がある。仮の世というのも仏教の影響であろうが、日本人の多くに普遍化した思い方だ。

一方、唯物論者は 霊界とか天国は人間の創造力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。

王仁三郎によれば、幽界と顕界との間は、
相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれに相似のものがあるという。

「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神(かんながら)の順序によって、相応なるものがある。また人間の万事と天界の事物との間には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」『霊界物語』四十八巻十章「天国の富」
(引用註:王仁三郎による当該箇所の口述日= 大正十二年一月十三日 旧暦大正11年11月27日)

自然界とは、王仁三郎の定義によれば、
「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」『霊界物語』四十七巻二十一章「跋文」
(引用註:王仁三郎による当該箇所の口述日=大正一二年一月十日 旧歴大正11年11月24日)
だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の一切の事物の有力因(ゆうりょくいん=原動力)は霊界にある。

神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを王仁三郎は用(よう)と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が形体として実現する。

たとえば日常のこまごまとした用の積み重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、鳥や獣はそれなりのやり方で、用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。

神が宇宙を想像したとき、まず幽の幽なる霊界を創り、その用を発揮して、顕の幽、顕の顕なる現界を創った。

(引用註:幽の幽等の用語の概要を説明すると…目に見えないより微細な世界や事象から現実世界のより具体的世界に至る段階を4段階にして説明する時ににもっとも微妙な世界から最も具体的世界への段階として 「幽の幽」→「幽の顕」→「顕の幽」→「顕の顕」)

霊界と現界の間には「相応の理」なる法則が確立し、霊界事物と自然界事物との相応は、神の用によってつながる。ということは、霊界がなくなったら、自然界における一切の事物もまた存在し得ないのだ。

相応の 理に造られし世の中は 現界霊界 同一なりけり
現界に ありしことごと 霊界に 相応すると 思へば恐ろし
(歌:出口王仁三郎)

(引用終わり)

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>

「過去も現在も未来も、見ようと思うたら見えるんや」 by 出口王仁三郎

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2953488.html
<転載開始>
聖師様 農作業

ブログ主の本業はサラリーマンなのですが、年明け早々から非常に忙しく
2週間振りの更新となってしまいました。読者の皆様、更新が遅くて大変
申訳ありませんでした。

さて、本日は「いづとみず」発行、八幡書店から1991年に発売された希少
本(?になってると思いますが…) 『予言と神話 出口王仁三郎と霊界物語
の謎』霊界物語研究会編 から王仁三郎の普段の人となりが窺える文章
を紹介させて頂きます。

引用文は、大正時代後半から王仁三郎の近侍の係りや『霊界物語』の
『天祥地瑞』の筆録者の一人として王仁三郎の側に仕えていた谷前清子氏
が霊界物語研究会のインタビューに答えたものです。

(引用開始)

…聖師さま(引用者註: 出口王仁三郎のこと)と いう方は、人間の尺度では計ることのできない方であったと思っています。聖師さまには、いわゆる暗いところがひとつもない、それから四角ばったところもひとつもない、だれとでも心やすく、浴衣がけで(引用者註: 普段着で)お話のできる、包容力のあるお方だと私は思っていました。教団のことに関しても、個人の生活のあり方も、いつもどこへいっても同じなんです。

どんなに偉い人に会われても、どこにゆかれても、少しも変わらない。だれでも、はじめての人や変わった人と会うと緊張しますよね。聖師さまにはそれがないのです。「やあ、こんにちは」というような、非常に気安い、何とはなしに好感のもてる、そういう印象の方だったと思います。

はじめて会う人に対しては、多少はどんな人やろと思われたかもしれませんが、いつも
「わしな、じっとしておっても、過去も現在も未来も、見ようと思うたら見えるんや」とおっしゃっていました。 お見透かしだったわけで、構える必要もなかったのでしょうか。

また、地方にゆかれると、信者さんが「こういう珍しいところがあります」「こういうところがありますからお供させて頂きましょう」といいますね。すると、聖師さまは「いくぜ」とおっしゃるんですが、本当はいきたくないんです。霊で見てしまわれるのですね。
「わしな、苦労して見にいかんでも、こうして見ようと思えば見えるんや、お前らがいきたいやろ思うさかい、いくんやけどな」と、よくおっしゃっていました。
それから、悲劇的なことは語りたがられませんし、お嫌いだったですね。だから、聖師さまの周囲には、何とはなしに明るい、なごやかなものがありました。

(引用終わり)

王仁三郎はよく、地獄のことは思うただけでも引っ張っていかれるからなるべくいわないようにしているといった趣旨の発言をしていたようです。これは、「相応の理」という王仁三郎の思想の中でも重要なポイントで、かなり乱暴かもしれませんが、簡単に言ってしまうと、霊界にあることは現界に起こり、現界にあったことは霊界にあるという考え方ですから、今、此の世で自分自身の心に天界のような美しく、素晴らしい、心境を作り上げることができれば、その場が天国のような人生になる、とも言えるかも知れません。

「現代人は、霊界いっさいの事物と人間いっさいの事物との間に、一種の相応のあることを知らず、また相応のなんたるかを知るものがない。かかる無知の原因には種々あれども、その主なるものは、「我」と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかれるによるものである。…」出口王仁三郎 『瑞祥新聞』大正14年6月

この「相応の理」は王仁三郎を知るうえで非常に重要な考え方ですので、また折に触れ、少しづつ、ご紹介させて頂きたいと思います。

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>

「大地震」の発生についての出口王仁三郎の言葉

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2579278.html
<転載開始>

観音様

先日、山梨県での震度5の地震が起きたことで富士山の火山性地震の
可能性を指摘する専門家も出てきました。

昨年の311以来、日本各地で打ち続く地震や余震、魚やイルカ、クジラが
世界各地で打ち上げられ、地震雲や竜宮の使いまでが見られるように
なっています。

FM電波やイオン濃度、はたまた今話題の電磁波の異常など大地震直前
に看られるという現象が多発しているようです。

このブログでは日付を切った予言や、人心を惑わせるような流言などに
ついては極力取り上げない方針ですが、ここまで宏観現象や各地の地震
が以前より頻繁に観測されている事実について冷静に考えると、やはり
さらなる大地震やそれに続く津波や震源地付近の原発事故について
心配せざるを得ません。

兎に角、さらなる天災がいつきてもおかしくないと云う心構えとイザ!という
時の準備はしっかりとしておくことを読者の皆様にもお勧めします。

震災や原発事故時の物質的対応や個人での準備や避難の方法について
はインターネットで多くの情報が既に公開されており、専門家の助言も多い
ようですのでそれに譲るとして、当ブログでは稀代の宗教家である
出口王仁三郎の大地震についての見解をその主著、『霊界物語』から
ご紹介し、読者の皆様が、各自しっかりとした心構えを作る資として頂ける
ことを願います。

本日ご紹介する一節は、大正12年の関東大震災の直前に王仁三郎が
高弟に『霊界物語』第三十一巻の「大地震」*というタイトルの章に続けて
朗読をさせたことで有名です。

*霊界物語31巻 第二章「大地震」参照:うろーサイト:http://urooni.hustle.ne.jp/kensaku/kihshow.php?KAN=31&HEN=1&SYOU=2&T1=%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87&T2=&T3=&T4=&T5=&T6=&T7=&T8=

(引用開始)

天気晴朗にして  蒼空一点の雲翳もなく
 士農工商は各その業を楽み  常世の春を祝ひつつ
 或は娶り或は舞ひ歌ひ  山河は清くさやけく
 樹木は天然の舞踏をなし  渓流は自然の音楽を奏し
 鳥は梢に唄ひ蝶は野に舞ひ  花に戯れ、嬉々として遊べる
 平安無事の天地の現象  さながら神代の如くなり
 瞬く間に一天俄に掻き曇り  満天墨を流せし如く
 洋々として紺碧の  空を翔る諸鳥は
 忽ち地上に向つて  矢を射る如く落ち来り
 大地忽ち震動し  天国浄土は忽ちに
 地獄餓鬼道畜生道  修羅の巷と一変し
 時々刻々に大地の震動  猛烈を加へ来る而已
 山岳は崩れ、原野は裂け  民家は倒れ橋梁忽ち墜落し
 彼方此方に炎々と  天をこがして燃えあがる
 空前絶後の大火災  身の毛もよだつ凄じさ
 神の恵の天国も  天の下なる神人が
 佞け曲れる魂や  醜の言霊重なりて
 妖邪の空気鬱積し  天地主宰の大神の
 大御心を曇らせて  忽ち起る天変地妖
 慎むべきは世の人の  耳に鼻、口、村肝の
 心の持様一つなり  あゝ惟神々々
 これの惨状見るにつけ  高砂島の国人は
 神の尊き御心を  完美に委曲に体得し
 いよいよ茲に天地の  神の権威に畏服して
 心を直し行ひを  改め神に仕へたる
 尊き昔の物語  神のまにまに述べ立つる
 あゝ惟神々々  神の御霊の幸はひて
 遠き神代に住まひたる  高砂島の人々は
 云ふも更なり天の下  四方の御国に大空の
 きらめく星の数の如  生れ会ひたる人々は
 昔の事と思ふまじ  心を清め身を清め
 転迷開悟の栞にと  心に刻みて惟神
 神の御子と生れたる  我天職を尽せかし。
 そもそも神は万物に  普遍し玉ふ神霊ぞ
 人は天地の御水火より  生れ出でたる神の御子
 尊き神の肉の宮  皇大神の神力を
 発揮し玉ひて天地を  開かせ給ふ司宰者と
 生れ来りし人の身の  その天職を自覚して
 誠の神に服せよや  旭は照る共曇る共
 月は盈つ共虧くる共  仮令大地は震ふ共
 山裂け海は涸く共  この世を造り玉ひたる
 神の御前に真心を  尽しまつりて人たるの
 努めを尽せ惟神  神は汝と共にあり
 この世を造りし神直日  心も広き大直日
 汚れ果てたる人の身も  罪を見直し聞直し
 宣り直します天津神  国津神等八百万
 国魂神を始めとし  吾等を親しく守ります
 産土神を敬ひて  この美はしき天地に
 暴風洪水大火なく  饑饉戦争病気なく
 四海同胞の御神慮を  朝な夕なに省みて
 神のよさしの天職に  尽させ玉へと祈れかし
 あゝ惟神々々  御霊幸はひましませよ。
 (引用終わり: 『霊界物語』海洋万里第31巻 第三章「救世神」より抜粋)

現代人の殆どは、大地震などの天災も人心の乱れに関連して
起こるというと鼻で笑うことさえもしないかも知れませんが、最新の研究
では岩石が極端な圧力を受けて破砕される際には電磁波を発散したり
一定の周波数の電磁波を電子レンジのように一転集中させれば岩石を
破壊することも可能とか。

また、地震雲についても、地震の際に観測された一定の周波数の
電磁波を実験室で発生させた水蒸気にあてると地震雲と同様の形で
集積するということも報告されているようです。

人間の脳が発する微弱電波を検知し、義手や義足を動かしたり頭に
取りつけた電極を通じてコンピュータ画像を操作できる時代になって
いることを考えると、多くの人間がその思考で発する微弱電波が自然
環境に対して全く影響を与えていないとは言えないのかも知れないと
思います。

そう大胆に過程すると、祈ったり、瞑想したりといった心を平静にし
また、良い心の姿勢を保つことが大地震を避けたり、その規模を
より小さくしたりすることに繋がるのかも知れないという空想も強ち
絵空事ではないのかも知れません。

一人でも多くの人が、愛や善など建設的な方向に心を向ければ
憎しみや悪など破壊的な方向に心を向けるよりは、破壊的結果を
避けたり、小さくすることができるやも知れません。

一人でも多くの方が、ひとつでも多くの場所が、これ以上悲惨な災害
や事故や人災に巻き込まれないようにと唯々、祈るばかりです。

惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)
(王仁三郎推奨の祈りの言葉で神さまの御心のままに
(霊的に幸いが増しますよう)お恵み下さい、 と言った意味です。)

聖師様3
本日も最後までお読み頂き有難うございました。

<転載終了>

「どんな中からもつまみ上げてやると神様が約束して下さった」出口王仁三郎

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2559679.html
<転載開始>
お作品 静物画

さて、昨日は日本が地震多発期に入ったようだという事に関連した記事を
アップしましたが、確かに今日本全国の何所で何が起こっても不思議では
無い状況のようにも感じられるのは私一人では無いようです。

以前にも増して多くの人が、放射能汚染瓦礫や食品の全国の拡散を防ぐ
ために声を上げていますがまだまだ少数派です。既に東京をはじめ全国
数か所の自治体では瓦礫受入れ・焼却処理を既に開始しているようです。

本当にこれからの日本は、世界はどうなるのか、私達の生活や命はどう
なるのかという不安に苛まれている人も多いと思います。

このような不安な状況で、色々な予言や筆先と称する書物や霊能者など
が脚光を浴びつつあるようですが中には本当にうさん臭いものもあるよう
です。クレグレもお気を付け下さい。

私がお勧めしたいのは、不安に駆られて目先の予言めいた内容が偶々
当ったものを簡単に信用してしまうのではなく、信憑性をしっかりと納得
行くまで調査することです。

また、唯々、不安に駆られて過ごすのではなく神仏に祈り、万一の時の
準備を怠らず、今できる事に一生けん命頑張ることでは無いでしょうか。

では、今日は出口王仁三郎の言葉を纏めた『新月の光(かけ)』から
ご紹介します。

「未発表のお筆先の実現」
(大本神諭)天の巻、火の巻に出ていることは最小限や。これから火の巻、天の巻に発表していないことが出て来るのや。信者はどんなところにいても、どんな中からもつまみ上げてやると神様が約束して下さったから、どんなところからでも神様を祈っておれ。心配せんでも良いで。…(後略) (昭和19年三月二十五日)
(八幡書店刊 『新月の光(かけ)』より)

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございます。
<転載終了>

「運命は人がつくる」…宿命と運命について by 出口王仁三郎

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2538971.html
<転載開始>

2011_1226_134943-DSC00912

ブログ読者の皆様、ブログ主はここ2週間程大変忙しくしておりましたので
全く記事をアップすることができませんでした。

記事をアップしていない時にもご訪問頂いた皆様、ありがとうございました。

さて、本日は既に以前の記事
(『王仁三郎の予言には三つのタイプがある』
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1410372.html  でもお伝えした事
なのですが、「日時を切った予言については、クレグレもお気を付け下さい。
ということを お伝えしたいと思います。

昨年末から年明けまでに大地震が来る可能性があるという、ある地震
予知の専門家の方の予測や多くの地震前宏観現象が現れたせいか

ここの所、年明けの日にちを特定した予言が一部の掲示板やブログで話題
になっていたようです。

例えば、夢などで1月24日あるいは、1月25日に大震災があるというお告げが
あったとか、311の反対の1月13日が危険だ、と言ったものです。

結果は皆さんご存知の通りでした。

勿論、今日本は大変な地殻の活動期に入ったという事は事実のようです
のでイザという時に備えての準備や心構えは常に怠らないようにしたいもの
ですが日限を切った予言に一喜一憂して一日中怯えて過ごすようなことは
したくないものですね。

毎日を怯えて過ごすのではなく、
毎日の神仏への祈りを欠かさず、その日、その日を精一杯生きることが
大切ではないでしょうか。

そうすれば、運も自然に好転し大難に巻き込まれる所が小難に済んだり
小難も無難に済むことになったり、果ては一人一人の幸運を呼び込む
祈りと行動が積み重なって、社会全体の大難が小難に、小難も無難に
繰り合わせされたりということも起きるやも知れません。

今日は「運命と宿命」についての出口王仁三郎の言葉をご紹介します。

「運命は人がつくる」
宿命とは、人間各自が先天的にもって生まれた境遇であって、後天的にどうする事も出来ない境涯をいうのである。運命は努力次第で、無限に開拓して行けるものである。

たとえば貴族に生まれた、平民に生まれた、醜婦に生まれた、農家に生まれた、商家に生まれたとかいうのは宿命であって、それを動かす事はできない。しかしながら平民に生まれたからというても努力次第で貴族にもなれん事もなければ貴族といえども懶惰(らんだ)を事として居れば、礼遇停止で平民に降下せんとも限らぬ。
農家に生まれたからというて一生農業をせねばならぬ訳もなければ商売が嫌いなら外の職業を選んだって、一向さしつかえない訳である。
美人だからって境涯が悪くって、くすぼっておれば、よい運命に導かれ化粧装飾を十分にする事の出来る醜婦よりも見劣りがするものである。すなわち運命は努力でどうとも転換する事が出来るものである。
(『神の国』「宿命と運命」昭和二年五月)


運命と宿命の違うことは、かつて話しておいたが、運命というものは、自分がつくって行くのである。運という字は「はこぶ」は訓(よ)むのである。
こちらから運んで運命を展開して行くのであって、自分の思わくの立つように、自分から仕向けて行くのである。そういう人を神さまはお助けなさるのであって、棚から落ちて来る牡丹餅を待っておるような人は、いつまで待っても運が開けることはない。

運ははこばねばならぬ。

(『神の国』昭和三年三月)
みいづ舎刊 出口王仁三郎著『瑞言集」より引用

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございました。

<転載終了>

王仁三郎大予言の原点(その2)「いろは歌」

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2189320.html
<転載開始>
弥勒三尊

このブログでは毎回、出口王仁三郎自身の写真か彼の「作品」のコピーを
写真で撮ってPCに取りこんだものを紹介しています。

それは、王仁三郎自身が、王仁三郎の顔を写真で1回でも見たら助けて
やる、わしの作品は絵でも書でもしまっとらんと出しておけばいざという時
のためになる、との発言を良く繰り返していたと聞いたからです。

王仁三郎の古くからの信者さんや研究者の方々は、例え、それがコピー
や写真だとしても王仁三郎の作品や写真からは何がしかの「お力」が出て
いると発言する方も少なくはないからです。

さて、今日は前回の記事でご紹介した【本物の】『瑞能神歌』から、『いろは
歌(其の一)』についてご紹介します。

この『いろは歌』 は、王仁三郎が明治36年頃に身内や信者から誤解を受
けたことが原因で、色々な攻撃や迫害を受けながらも書き溜めた書物で
なんとか後世に残ったものの一つと、全く同じ「いろは歌」の形式で内容を
新たにした大正6年の作品との2つが『瑞能神歌』 に掲載されています。

その名前の通り、「いろはにほへと」の中の文字を頭文字にして順番に歌
が綴られていますが中には明らかに後世を予言したものだと分かる歌が
少なくありません。

(其の一)、(其の二)と、上述のそれぞれにタイトルが付けられていますが
新しく書かれた大正6年のものが(其の一)となっており、今日はその中から
いくつかの歌をご紹介します。

(下記引用元:出口王仁三郎著 『王仁文庫 』第一輯 みいづ舎(再)刊より)
http://www.miidusha.jp/130.html

『王仁文庫第一輯』収録、『瑞能神歌』より
続きを読む

本物の「瑞能神歌、大本神歌」 大正六年、出口王仁三郎 大予言の原点

てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2100630.html
<転載開始>
写真 (48)

今日ご紹介する「大本神歌」は王仁三郎が大正6年12月1日に明治~現代
そして未来を見通して、作った歌であると言われています。

これは「瑞能神歌」という冊子に、「いろは歌」(これも予言歌であると言われ
るもの)と一緒に収蔵された為に「瑞能神歌」とも呼ばれています。

最近、王仁三郎がその後に作った歌であると【間違って】巷間に流布してい
る「続・瑞能神歌」は、『王仁三郎の死後、その霊が広島の某信者に移って
霊言によって著された』ということですが、当ブログの過去記事
「 神がかりは禁止 by 出口王仁三郎」
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1509623.html

をお読み頂ければ、王仁三郎が
大正10年以降は「神がかり」を禁止していたのに、当の王仁三郎が、しかも
一信者に「かかって」作歌するなど、考えられないと言う事は お分かり頂ける
ことと思います。

王仁三郎は生前、驚嘆すべき数の著作、和歌、芸術作品を残しており
態々、死後、誰かに懸かる必要など一切ないことは明らかです。

王仁三郎は『霊界物語』に自らの全てを注いだ、『霊界物語』に全てを書いた、
ワシが恋しくなったら『霊界物語』を読めと、『霊界物語』こそが王仁三郎自身
であることを、くどい程、弟子、側近、信者に言い残しており、その【本物の】
遺言にも『霊界物語』の拝読だけは何があっても辞めてはいけないとまで
残しているのです。

また、この「大本神歌」が第二次大戦までの予言しかしていないもので、それ
以降のことは「続・瑞能神歌」や「日月神示」などが引き継いでいるなどと宣伝
している人もいるようですが王仁三郎は弟子、信者に下記の言葉を残しています。


昭和十九年六月頃、瀬領貞道氏、油谷靖通氏が師である出口王仁三郎を訪ね、その時の記録が残されています。
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