てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3574095.html
<転載開始>

上段真ん中髭の人物が大正10年~11年頃の王仁三郎
昨日の記事では王仁三郎の「日本魂」についての壮大かつ繊細な思ひについてご紹介しましたが、今日ご紹介する大正十二年に書かれた、出口王仁三郎の『霊界物語』第四七巻 の序文も、当時としてはとても先進的な考え方ではなかったかと思われます。
貧富の格差が広がり、大震災や原発事故による放射能汚染の脅威、長びく不況に無策とも見える政治に対し、心底失望し、少々右寄り、タカ派でも現状を変えてくれそうだというだけで政治家を選ぶ現代の我々にとってこの文章は警告とも取れる内容です。
戦後の改革により折角手に入れた、身分制度のない、世界で尤も平等で貧富の差が少ない日本は貧富の差に関しては最早過去のこととなりつつあり、 つい先日は人気政治家によって平和憲法や戦争放棄の理想を揶揄するような発言がありました。
なんとも勇ましい発言でしたが、先の戦争で明らかな事は、政治家や外交官、企業家が、平和的、外交的努力を怠り、短絡的に戦争を目指すのは彼らの経済的失敗や失政のツケを国民の命と血と財産という代償によって払うということだという事実を我々庶民は学んだのではなかったのでしょうか?
今、与野党で審議、準備している法律についての報道を目にしましたが、戦前戦中の統制体制に先祖がえりするような法案があるようで気になって仕方がありません。
このような文章を自由にネットで公開できるのも何時までなのかと、将来、或いは近い将来に思いを馳せる今日この頃です。
何時ものように前置きが長くなりました。では、王仁三郎の文章をじっくりと 味わって下さい。戦争前夜に突入する前の大正の終わりの雰囲気が彼の文章から伝わってきますが、今の日本の状況に少し似ているようで寒気がするのは私だけでしょうか…
(引用開始)
偏頗なき心
「太陽は日本の太陽だ、世界は日本の太陽のお蔭で生きているのだ、それゆえ、日本をヒノモトというのだ。世界を人体にたとえてみると、日本は頭にある、小さいけれども、身体全部を支配する脳髄を持っている。欧羅巴(ヨーロッパ)は手足に当る、それだから、汽車その他便利な機械を発明して、足の役目を勤め、また種々の文明利器を発明して、手の役目を勤める。また亜米利加(アメリカ)は胴に当るから、大きいことは大きいが馬鹿である。」
というようなことを真面目に書いてあった。水戸の会沢伯民という儒者(じゅしゃ)の作った書物新論にかぶれた連中は、まだわが国民の中には多少あるらしい。今日はモハヤこんなことをいっても通用しない。しかし日清、日露の両戦役に勝利を得てから、日本人はますます自負高慢となり、近来の日本人の思想感情の中には、この新論に類した誇大妄想狂が少なくないと思う。
ことに神を信仰する人々のなかには、著しくこの思想と感情が台頭しているように思われる。
西洋は物質文明の国、日本は精神文明の国である、と識者の間にはしばしば称えられているが、その精神文明といえども、今日のところでは、西洋に劣ること数等下位にありといってもよい。物質文明には、泰西人に先鞭をつけられ、いままた精神文明においても、かれ泰西人の後(しり)えに瞠着たるの浅間しい有様である。
日本は霊主体従(ひのもと)と謂って、精神文明すなわち神霊の研究には、他に優れていなければならないはずだ。研究すべき材料も比較的豊富に伝わっているのだ。しかるに、今日のわが国の学界の趨勢をみれば、実に惨澹たるものではないか。
また日本は武力については、ことに自負高慢の度が強く、この武力をもってすれば、何事でも意のごとく解決し得らるるものと思っているものも少なくないようだ。
大本の筆先にも「日本の人民は、支那(しな)の戦争にも勝ち、また今度の露国との戦争にも勝ちたと申して、大変に慢心をいたしておるが、いつまでもそんなわけにはゆかぬぞよ」と示されてある。
油断をしていると、どんな事になるか分かったものでない。
頑迷固陋な国粋論者は、何時までも愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような言論を吹きたて、独りよがりの態度を持しているのは、実に国家のために悲しむべきことである。
(引用註: 上記の文章は大正12年に書かれたものだということを考えると王仁三郎の先見性に今更ながら驚きます。大霊能者として当時の日本の未来を見透かしていた王仁三郎とって、「愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような…実に国家のために悲しむべきこと…」と書いた際の心境は如何ばかりのものであったかを想像すると胸が詰まる思いです。又、この部分だけを取り出せば当に今の言論、政治の動きにピタリと当て嵌まり、「いつか来た道」が現実になろうとしていると思えてなりません…)
この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界一統的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々はこの物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉ぐることはできない。
神道も仏教も耶教(引用註:当時一般に使用されたキリスト教の呼称の一つ)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるようだが、その最奥をきわむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆえに神の道を研究する人は、広き清き偏頗なき心をもって、真面目にかかっていただきたいものであります。
(出口王仁三郎著 『霊界物語』第四七巻「序文」 大正十二年一月八日)
(みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3574095.html
<転載開始>

上段真ん中髭の人物が大正10年~11年頃の王仁三郎
昨日の記事では王仁三郎の「日本魂」についての壮大かつ繊細な思ひについてご紹介しましたが、今日ご紹介する大正十二年に書かれた、出口王仁三郎の『霊界物語』第四七巻 の序文も、当時としてはとても先進的な考え方ではなかったかと思われます。
貧富の格差が広がり、大震災や原発事故による放射能汚染の脅威、長びく不況に無策とも見える政治に対し、心底失望し、少々右寄り、タカ派でも現状を変えてくれそうだというだけで政治家を選ぶ現代の我々にとってこの文章は警告とも取れる内容です。
戦後の改革により折角手に入れた、身分制度のない、世界で尤も平等で貧富の差が少ない日本は貧富の差に関しては最早過去のこととなりつつあり、 つい先日は人気政治家によって平和憲法や戦争放棄の理想を揶揄するような発言がありました。
なんとも勇ましい発言でしたが、先の戦争で明らかな事は、政治家や外交官、企業家が、平和的、外交的努力を怠り、短絡的に戦争を目指すのは彼らの経済的失敗や失政のツケを国民の命と血と財産という代償によって払うということだという事実を我々庶民は学んだのではなかったのでしょうか?
今、与野党で審議、準備している法律についての報道を目にしましたが、戦前戦中の統制体制に先祖がえりするような法案があるようで気になって仕方がありません。
このような文章を自由にネットで公開できるのも何時までなのかと、将来、或いは近い将来に思いを馳せる今日この頃です。
何時ものように前置きが長くなりました。では、王仁三郎の文章をじっくりと 味わって下さい。戦争前夜に突入する前の大正の終わりの雰囲気が彼の文章から伝わってきますが、今の日本の状況に少し似ているようで寒気がするのは私だけでしょうか…
(引用開始)
偏頗なき心
「太陽は日本の太陽だ、世界は日本の太陽のお蔭で生きているのだ、それゆえ、日本をヒノモトというのだ。世界を人体にたとえてみると、日本は頭にある、小さいけれども、身体全部を支配する脳髄を持っている。欧羅巴(ヨーロッパ)は手足に当る、それだから、汽車その他便利な機械を発明して、足の役目を勤め、また種々の文明利器を発明して、手の役目を勤める。また亜米利加(アメリカ)は胴に当るから、大きいことは大きいが馬鹿である。」
というようなことを真面目に書いてあった。水戸の会沢伯民という儒者(じゅしゃ)の作った書物新論にかぶれた連中は、まだわが国民の中には多少あるらしい。今日はモハヤこんなことをいっても通用しない。しかし日清、日露の両戦役に勝利を得てから、日本人はますます自負高慢となり、近来の日本人の思想感情の中には、この新論に類した誇大妄想狂が少なくないと思う。
ことに神を信仰する人々のなかには、著しくこの思想と感情が台頭しているように思われる。
西洋は物質文明の国、日本は精神文明の国である、と識者の間にはしばしば称えられているが、その精神文明といえども、今日のところでは、西洋に劣ること数等下位にありといってもよい。物質文明には、泰西人に先鞭をつけられ、いままた精神文明においても、かれ泰西人の後(しり)えに瞠着たるの浅間しい有様である。
日本は霊主体従(ひのもと)と謂って、精神文明すなわち神霊の研究には、他に優れていなければならないはずだ。研究すべき材料も比較的豊富に伝わっているのだ。しかるに、今日のわが国の学界の趨勢をみれば、実に惨澹たるものではないか。
また日本は武力については、ことに自負高慢の度が強く、この武力をもってすれば、何事でも意のごとく解決し得らるるものと思っているものも少なくないようだ。
大本の筆先にも「日本の人民は、支那(しな)の戦争にも勝ち、また今度の露国との戦争にも勝ちたと申して、大変に慢心をいたしておるが、いつまでもそんなわけにはゆかぬぞよ」と示されてある。
油断をしていると、どんな事になるか分かったものでない。
頑迷固陋な国粋論者は、何時までも愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような言論を吹きたて、独りよがりの態度を持しているのは、実に国家のために悲しむべきことである。
(引用註: 上記の文章は大正12年に書かれたものだということを考えると王仁三郎の先見性に今更ながら驚きます。大霊能者として当時の日本の未来を見透かしていた王仁三郎とって、「愛国心の誤解をして、かえって我が国を滅亡に向わしむるような…実に国家のために悲しむべきこと…」と書いた際の心境は如何ばかりのものであったかを想像すると胸が詰まる思いです。又、この部分だけを取り出せば当に今の言論、政治の動きにピタリと当て嵌まり、「いつか来た道」が現実になろうとしていると思えてなりません…)
この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べていない。世界一統的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々はこの物語を読んで、不快に感ずる人もあるであろうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもって枉ぐることはできない。
神道も仏教も耶教(引用註:当時一般に使用されたキリスト教の呼称の一つ)も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるようだが、その最奥をきわむれば、同一の神様の教えであることを覚り得らるるのである。ゆえに神の道を研究する人は、広き清き偏頗なき心をもって、真面目にかかっていただきたいものであります。
(出口王仁三郎著 『霊界物語』第四七巻「序文」 大正十二年一月八日)
(みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>