http://ameblo.jp/hoshitukiyoru7/entry-11868432474.html
<転載開始>
東京新聞コラムより★
「衰弱死」とは恐ろしい言葉だが、それでさえ持って回った言い方でそれはやはり
「餓死」なのだ。
神奈川県厚木市のアパートで五歳の男の子の遺体が発見された。
父親に放置された。食事も与えられなかった。部屋に閉じ込められていた
▼想像する。そのひもじさ、のどの渇き。戦争中でも、飢饉(ききん)でもない。
豊かで安全と胸を張る日本で子どもがおなかを空(す)かせて死んでいく・・。
▼父親は供述する。「二〇〇六年秋ごろに家に戻ると子どもが死んでいた」。
いつ息絶えたのかも分からない。
独りぼっち。散乱し恐らくは真っ暗だった部屋の中で五歳の子が呼吸をやめる
▼孤独は骸(むくろ)になっても続く。発見されるまで七年半。
この子の声は生きている時も、生きていない時も、誰にも届かない
▼親や行政の不手際を責めるのはたやすいが、五歳の子ども一人さえ救えぬ
世の中をつくり、看過してきたのが日本人であるならば、この子の死に
日本人全員が痛みを覚え、腕組みをして「この国はおかしい」と考えるべき
ではないのか
▼「いるはずなのに、いない子ども」がまだ七百余人いる。捜さねばならない
「たがいの命を大事にしない思想など、思想と呼ぶには価(あた)いしません」
(井上ひさしさん作『組曲虐殺』)。
「思想」を「国」に置き換え考える
見つけなければならぬ七百余人はわれわれ自身である。
日本という国そのものである。
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