大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

キリスト教読み物サイト

日本古来の風習と古代イスラエルの風習

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/071nihonkorai.htm
<転載開始>
両者はなぜこんなにも似ているのか。


(左)神前に供え物をするときは塩を添える(手前左が塩、
右は米、中央は水、奥の2瓶は神酒(みき)、他に野菜、
果物、海産物などが添えられる)。
(右上)水を浴びる禊(みそ)ぎの行(ぎょう)の一つ「振魂」。
(右下)飲み屋や料亭の玄関に見られる「盛(も)り塩(じお)」。

禊ぎの水と塩

 古来、日本には「禊ぎ」という風習があります。
 禊ぎとは、身体に付着した穢れを落とし、清浄にすることをいいます。禊ぎには、一般にや、が用いられます。
 たとえば、古い神社はたいてい、清流のそばにあります。これは参拝する人がそこで穢れを洗い流し、心身を清めるためです。禊ぎのためだったのです。
 神社によっては、海辺で禊ぎを行ない、滝に打たれ、井戸水を浴びて身を清めるところもあります。水浴(水垢離)は、ふつう冷水で行ないますが、近ごろの神社は多くの場合、浴場でそれを行ない、大社では一日中お湯が沸かされています。
 神社の境内にはまた「手水舎」というものがあります。"水飲み場"と勘違いしている人もいるかも知れませんが、これは参拝の前に両手に水をかけて清め、口をすすぐためです。手と口の禊ぎの場所なのです。
 このような水で身を清める「禊ぎ」の風習は、日本古来のものです。仏教では、一般にこうしたことはしません。
 禊ぎには、水のほかに、塩も用いられます。
 古来、日本では葬儀の後などに、その場を清めるためにをまく風習があります。葬儀に参加した人は、帰宅した玄関前でをかけてもらわないと家には入れない習慣があります(塩祓い)。
 近ごろは、葬斎場から出た所で、お清め塩が配られます。これらも禊ぎの一種です。
 穢れたものや、嫌悪する人が出て行った際に、そこに塩をまく風習もあります。神社では清めの式において、塩を散布します。


葬儀のあとに配られる「お清め塩」は、
塩をふりかけて穢れを祓うためである。

 相撲の際に、力士が塩をまくのも、土俵を清めるためで、禊ぎに由来しています。
 神前に供え物をするときは、器に塩を盛って添える風習があります。料理店などでも、客を招く縁起として、入り口に少量の塩を盛る風習(盛り塩)があります。
 日本では、古くからこのようなことが行なわれてきました。このような風習は欧米諸国にはありません。
 ところが、私たちは聖書を読むとき、この風習が今から三〇〇〇年以上も前に、古代イスラエルで行なわれていたものと同じであることを知り、驚きます。水についても、塩についても、これは古代イスラエルの風習そのままなのです。
 水については、たとえば旧約聖書・民数記八・六~七にこう記されています。
 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。・・・・」。
 神殿で祭司の役にあたるレビ人は、礼拝の奉仕にあたる前に、きよめの水をかけて禊ぎをしなければならなかったのです。また、
 「祭司は、その衣服を洗いその体に水を浴びよ。そののち、宿営に入ることができる」(民数一九・七)
 等とも記されています。古代イスラエルにおいても、水が禊ぎのために用いられました。
 古代イスラエルではまた、日本神道と同じく、死体にふれた者は「けがれた」者と呼ばれていました。そして、その穢れを祓うために、水が用いられました。
 「身の清い人が、ヒソプを取ってこの水に浸し、それを・・・・死人や墓に触れた者の上に振りかける(民数一九・一八)
 こうすることにより、死人に触れて穢れた人は清められる、とされたのです。
 ちょうど、日本で神主が榊の枝でお祓いをするように、古代イスラエルでは穢れを祓うために「ヒソプ」という植物の枝が用いられました。
 また、日本では神主はお祓いをするとき、、または塩の入った水塩湯という)を注ぐことがあります。ちょうどそのように、古代イスラエルでは、ヒソプに水を浸して振りかけたのです。
 禊ぎのための塩について、日本と同様、神前の供え物に塩を添える風習が、旧約聖書・レビ記二・一三に記されています。
 「あなたの穀物の捧げ物に、あなたの神の契約のを欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」。
 古代イスラエルにおいても、日本と同様に、人々は神前の供え物に必ず塩を添えたのです。また彼らは、土地を清めようとするようなときも、その禊ぎのために塩をまきました。士師記九・四五に、
 「アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた
 と記されています。
 また、わが国では明治維新前に、新たに誕生した赤児の産湯に、少量の塩を入れる習慣がありました。古代イスラエルでも、新たに生まれた赤児を塩でやわらかくこすり、水で洗い清める風習がありました。エゼキエル書一六・四に、こういう記述があります。
 「あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗って清める者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった」。
 古代イスラエルでも、日本でも、赤児の禊ぎのために水と塩が用いられたのです。
 このように、古代イスラエルと日本に共通して、「禊ぎ」という考え方がありました。そしてその禊ぎのために、古代イスラエルでも日本でも、同様に水と塩が用いられたのです。


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古代日本とイスラエル10部族の謎

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomu.htm#kodainihon
<転載開始>

古代日本とイスラエル10部族の謎
イスラエル人(ユダヤ人)は古代の日本に来たか


イスラエルの契約の箱は、神社のお神輿によく似ている
――契約の箱がエルサレムに戻ったとき、ダビデは
契約の箱をかつぐ者たちと共に町をめぐり歩き、
  その前で踊った
。   

 「今から2千年ほど前、日本にようやく人が住み始めた頃、古代イスラエル人(ユダヤ人)もはるばる日本に渡来し、日本の文化形成に大きな影響を与えた」
 とする説が、わが国において、幾人かの学者によって唱えられてきました。
 いわゆる「日本文化=ユダヤ起源論」とか「日本・ユダヤ同祖論」と呼ばれる説ですが、一見奇妙に見えるこの説も、その証拠とされるものの多彩さのゆえに、多くの人々に興味を引き起こしてきました。
 本誌でもこの説について、いくつかの検討を加えてみることにしましょう。


イスラエル人は古代日本に来たか

 はじめに、本誌がこれから何を述べようとしているのかを、はっきりさせましょう。
 第1に本誌が述べようとすることは、日本の文化のどのような事柄に、古代イスラエル文化の影響が見られるか、ということです。
 たとえば、日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っています。また伊勢神宮の灯籠には、ユダヤ人の印である「ダビデの星」が刻まれています。
 これらははたして、古代イスラエル文化の日本への流入を、示しているのでしょうか。
 また、神社のお神輿がイスラエル神殿の契約の箱によく似ていること、神社の構造自体が古代イスラエル神殿によく似ていること、日本古来の祭の幾つかが古代イスラエルの祭によく似ていること、などが学者によって指摘されていますが、これらについてはどうなのでしょうか。


      神社の神輿      

 さらに、日本語の中にヘブル語の影響が見られる、とも言われています。私たちが数をかぞえるときに言う「ひい、ふう、みい・・・」がヘブル語である、と指摘する人もいます。
 第2に本誌が扱う問題は、こうした事柄が、いわゆる「イスラエルの失われた10部族」の行方と関係あるのかどうか、ということです。
 あるいは、A.D.70年に祖国を失って世界中に離散したユダヤ人の行方とも関係があるのかどうか、ということです。
 B.C.721年、イスラエル10部族から成っていた「北王国イスラエル」は、アッシリア帝国に滅ぼされ、民は捕囚となって捕らえ移されました。その後イスラエル10部族は、ユーフラテス川の東側地域に離散しました。
 そこである学者は、イスラエルの「失われた10部族」の一部は日本にもやって来て定着し、日本の文化形成に大きな影響を与えた、と考えています。
 またA.D.70年に、南王国ユダの人々(イスラエルの残りの2族から成り、一般にユダヤ人とも呼ばれる)は祖国を失い、世界中に離散しました。
 彼らの中には、シルクロードを通って、はるばる東洋の地までやって来た人々もいました。
 そこである学者は、彼らユダヤ人の一部は日本にも渡来し、日本にユダヤ文化を持ち込んだ、と考えています。
 これらの考えについても、検討してみましょう。


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諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/096suwa.htm
<転載開始>
なぜ聖書のイサク奉献伝承が、
日本の諏訪大社で祭りとなったのか。


アブラハムがイサクを捧げようとしたそのとき、
天使が現われ、彼の手を止めた。



 聖書の創世記二二章には、アブラハムが神の命令を受けて、「モリヤ」の地で、ひとり子「イサク」を捧げようとしたという記事が記されている。
 じつはこのイサク伝承が、なんと、パレスチナからはるばる離れたこの日本のある神社で、祭りとなって生き生きと伝えられていた・・・・。

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韓流歴史観を正す

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi03.htm
<転載開始>

日本は、破産状態にあった朝鮮を建て直し、救った


日韓併合前、李朝末期の朝鮮の人々は、極貧の中にあった

 かつて「日本は朝鮮の人々に対して、とてつもなく悪いことを繰り返してきた」ということが、よく言われてきました。
 これはもともと韓国の人々が叫んだものです。いわゆる「韓流歴史観」です。それに同調した日本国内のいわゆる「反日的日本人」もそう叫んできました。
 しかし、朝鮮半島の日本統治時代は、彼らが言っているほど悪いものだったのでしょうか。いいえ、もしあの日本統治の三六年間がなかったならば、今日の朝鮮半島、とりわけ韓国の繁栄は決してなかったでしょう。


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日韓併合時代の真実

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
<転載開始>

かつて日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった


日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。
1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日本はこの朝鮮を建て直した。



親から聞かされた「日本人は親切だった」

 日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。たとえば、
 「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」
 といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。あたかも事実であるかのように。
 日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
 韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
 ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人にひどいことをした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
 彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。


日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。

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日中戦争の真実

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm
<転載開始>

日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた


日本兵らと遊ぶ中国人児童ら(1937年)
日本兵たちは中国の民衆からは温かく迎えられていた。

 前項「中国の『正しい歴史認識』の正体」では、「夷( 外国)をもって夷を制す」の中国政治家の考え方により、日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。この項では、中国における日本の軍隊の行動について、もう少しみてみましょう。

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中国の「正しい歴史認識」

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi04.htm
<転載開始>

日中戦争はなぜ起こったか。
日本は中国に「迷惑」をかけたか。
今こそ自虐史観を克服し、本当の歴史を知ろう。


蘆溝橋の上の日本兵たち。ここで共産兵
が放った銃弾が日中戦争の始まりだった


 かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
 しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。
 大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。
 さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。
 ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
 このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
 そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。

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