カミンユさんのサイトより
http://tebana-spiritual-do.ldblog.jp/archives/26915104.html
<転載開始>
今あなたはいったいどんな状況にいるだろうか?
状況とは観察する視点などを含めた客観的な場ではなくて、今生かされている環境のことを言っているように感じてしまいます。
つまり今自分が存在している国・自治体・家庭環境・職場環境まどが状況という見方です。
存在を許されている条件下でこそ人は存在できるという見方は、そうかもしれないけれども限定的であるように思ってしまうのは私だけでしょうか?
そこに木があります。
「どうしてそこい木が在るのですか?」そんな質問をしても
そこに木が在るから「どうしてそこに木が在るのですか?」という質問をすることができるということです。
木は木自身で、どんな状況下にあると感じているのでしょう?
木の想いを知る科学は地球にはまだ確率されていません。
それを知る術はおそらく想念の交換になります。
みなさんご存知のテレパシーというものです。
近い将来には想念の研究が進み、科学的に証明される日が訪れます。
たとえば人間の想いの種類で物理的な変化を観測できていくようなことから始まるでしょう。
伐採される時に出ている磁気や電気の測定がコンピュータに記憶されていき、意思伝達の可能性が科学によって証明されるわけです。
この話はまた後日ということで・・・・・
木の感じている状況と木を見ている私達からの木の状況というのがあるとすれば、状況は限定的です。
それは実在する木にとって人類に生かされるか殺されるかという生殺与奪を握られているという状況を認めただけだからです。
木を自分に置き換えてみたらどうでしょうか?私ならこのような限定的な解釈はしません。
木はたとえ伐採されるかもしれないし、環境破壊でかれるかもしれない、事実今もそれは世界中で起きている事実です。
ところが木は二酸化炭素を吸い酸素を吐き出すことをやめない。
光合成をして根を伸ばし、大地を掴んで立っています。
どんな状況下であってもポジティブな意識を生んでいる生命体なのです。
それは何故なのか?
木は死を恐れていないからです。
物質世界に拘束されていないから、状況に対してポジティブで在り続けることができる。
自らを無限の一部であると知っているのかもしれません。
それに比べて人間はというと、
争い・苦悩して・死を恐れています。
無限の一部という認識に欠けることが自分の存在世界を限定しているわけです。
哲学の世界では客観的な環境を区別して状況というものを定義している傾向がありますが、区別が分離意識を生んでいるので恐れを生んでいるということには気がついていません。
死を恐れて人生の時間だけしか自分が存在できないという誤った教えが地球人類のDNAを拘束しているのです。
今の世界を見ると、地球上での一つの人生だけの物質的冨に執着がある人が大勢増えてしまいました。
彼らは制限をされて拘束されることでしか自らが行為ができないということが、状況の意味だと信じ込んでいます。
だから制限・拘束・の中でしか主体性を持てないように私達を洗脳・強要するのです。
いくら頂点にいようが、地位・冨があろうが限定種族を選択している地球人なのです。
だから、限定種族の概念を受け入れるな!ということが言いたいのです。
神から生かされている・・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
決まった未来が神界から降りてくる・・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
神が決めたシナリオがくれば必ず死ぬだろう・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
ではそんな限定があるようだから、そういう人生という状況だから、
そな時代に生まれてきたから、と状況に従いますか?
私なら、まず肉体の死までの活動に限定をしません。
だから恐れずに体験して状況を変えるでしょう。
そうです、状況に責任転嫁することは
状況は変えられないと信じ込んでいく選択なのです。確かに人にはいろんな状況があるかもしれません。
過去何度も地球で肉体に乗ってきた・・・・・・・それはカルマを刈り取るための必然であったかもしれない。
しかし、その時肉体に乗ることをあなた自身が選択してきたはずだ!
もしも道にまよった時は・・・・・・
あなたが肉体に乗ることを決心をさせたものは何か?!!
その想い!それを想い出せ!
自分の限定を解除すればきっとできるさ!
状況というのは浄・今日なんだと考えてみよう!
自分自身の汚れを見つけて清めていく今日が在る、今という日が在る、永遠に。
浄・昨日でもなくて浄・明日でもない。
自分自身を見失ったときにそこへ行ってしまう。
それはスピリチュアルのようなものに依存する定義である。
浄・今日です。
みんな、状況に潰されるな!
最後まで読んで頂いてありがとうございます
http://tebana-spiritual-do.ldblog.jp/archives/26915104.html
<転載開始>
今あなたはいったいどんな状況にいるだろうか?
状況とは観察する視点などを含めた客観的な場ではなくて、今生かされている環境のことを言っているように感じてしまいます。
つまり今自分が存在している国・自治体・家庭環境・職場環境まどが状況という見方です。
存在を許されている条件下でこそ人は存在できるという見方は、そうかもしれないけれども限定的であるように思ってしまうのは私だけでしょうか?
そこに木があります。
「どうしてそこい木が在るのですか?」そんな質問をしても
そこに木が在るから「どうしてそこに木が在るのですか?」という質問をすることができるということです。
木は木自身で、どんな状況下にあると感じているのでしょう?
木の想いを知る科学は地球にはまだ確率されていません。
それを知る術はおそらく想念の交換になります。
みなさんご存知のテレパシーというものです。
近い将来には想念の研究が進み、科学的に証明される日が訪れます。
たとえば人間の想いの種類で物理的な変化を観測できていくようなことから始まるでしょう。
伐採される時に出ている磁気や電気の測定がコンピュータに記憶されていき、意思伝達の可能性が科学によって証明されるわけです。
この話はまた後日ということで・・・・・
木の感じている状況と木を見ている私達からの木の状況というのがあるとすれば、状況は限定的です。
それは実在する木にとって人類に生かされるか殺されるかという生殺与奪を握られているという状況を認めただけだからです。
木を自分に置き換えてみたらどうでしょうか?私ならこのような限定的な解釈はしません。
木はたとえ伐採されるかもしれないし、環境破壊でかれるかもしれない、事実今もそれは世界中で起きている事実です。
ところが木は二酸化炭素を吸い酸素を吐き出すことをやめない。
光合成をして根を伸ばし、大地を掴んで立っています。
どんな状況下であってもポジティブな意識を生んでいる生命体なのです。
それは何故なのか?
木は死を恐れていないからです。
物質世界に拘束されていないから、状況に対してポジティブで在り続けることができる。
自らを無限の一部であると知っているのかもしれません。
それに比べて人間はというと、
争い・苦悩して・死を恐れています。
無限の一部という認識に欠けることが自分の存在世界を限定しているわけです。
哲学の世界では客観的な環境を区別して状況というものを定義している傾向がありますが、区別が分離意識を生んでいるので恐れを生んでいるということには気がついていません。
死を恐れて人生の時間だけしか自分が存在できないという誤った教えが地球人類のDNAを拘束しているのです。
今の世界を見ると、地球上での一つの人生だけの物質的冨に執着がある人が大勢増えてしまいました。
彼らは制限をされて拘束されることでしか自らが行為ができないということが、状況の意味だと信じ込んでいます。
だから制限・拘束・の中でしか主体性を持てないように私達を洗脳・強要するのです。
いくら頂点にいようが、地位・冨があろうが限定種族を選択している地球人なのです。
だから、限定種族の概念を受け入れるな!ということが言いたいのです。
神から生かされている・・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
決まった未来が神界から降りてくる・・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
神が決めたシナリオがくれば必ず死ぬだろう・・・・・なるほどそういう解釈もあります。
ではそんな限定があるようだから、そういう人生という状況だから、
そな時代に生まれてきたから、と状況に従いますか?
私なら、まず肉体の死までの活動に限定をしません。
だから恐れずに体験して状況を変えるでしょう。
そうです、状況に責任転嫁することは
状況は変えられないと信じ込んでいく選択なのです。確かに人にはいろんな状況があるかもしれません。
過去何度も地球で肉体に乗ってきた・・・・・・・それはカルマを刈り取るための必然であったかもしれない。
しかし、その時肉体に乗ることをあなた自身が選択してきたはずだ!
もしも道にまよった時は・・・・・・
あなたが肉体に乗ることを決心をさせたものは何か?!!
その想い!それを想い出せ!
自分の限定を解除すればきっとできるさ!
状況というのは浄・今日なんだと考えてみよう!
自分自身の汚れを見つけて清めていく今日が在る、今という日が在る、永遠に。
浄・昨日でもなくて浄・明日でもない。
自分自身を見失ったときにそこへ行ってしまう。
それはスピリチュアルのようなものに依存する定義である。
浄・今日です。
みんな、状況に潰されるな!
最後まで読んで頂いてありがとうございます
<転載終了>