大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

読書歴

第5章  祈りの意義と祈願文

第5章  祈りの意義と祈願文
      
       祈りは人間に与えられた神の慈悲である。
      しかし、我欲の願いは己の心を汚し、自分を失う。
      つとめて祈るとき、神は惜しみない光を与えてくれよう。

   天と地のかけ橋

 いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなのでしょうか。
 それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからは
じまります。

 魂のふるさとである天上界では、”祈り”は即行為で、祈りそのものが行為になっている
ので、ことさらに、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることは、それはそのまま祈りの
行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる
心、行為を忘れ、自我に生きようとする。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせて
しまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。

 苦しい時の神だのみと、よく人はいいます。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求
めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれる己自身
であるということを、無意識のうちに知っているからになりません。助けを求める自分と救いの
側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、『心行』の中に述べている
潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、
どうぞ助けてくださいと、祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が助けます。守護・指導霊に
力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。

 このように、「祈り」というものは、自分の魂のふるさとを思いおこす想念です。同時に、反省とい
う、自分をあらためて見直す立場に立った「祈り」でないと、本当は、あまり意味がないし、救いに
ならないということです。

 苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手は、さしのべられません。なぜかといいますと、
今の自分の運命は、自分自身がつくり出したものだからです。それは、誰の責任でもありません。
自分自身の責任なのです。

 人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ、償うことが神の子としての摂理です。
反省し、ざんげして祈るときは、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。

 誤ちは、人間にはさけられないからです。

 祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生したものです。

 聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは
意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発展させなければ、真の祈りにまで、
高めることは出来ません。

 また祈りは、神の子の自分を自覚したその心、その感謝の気持ちが”祈り”となるのです。

 現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた最良の己自身の魂の修行場であり、
ここを通らずして、魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向かったときに、祈りとな
って、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力
なくしては、いっときといえども生きてゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で
果たすためには、人間は祈らずにはいられないものです。

 こうしてみてまいりますと、”祈り”には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の調和度に
よって、かなりの相違があるといえます。

 しかし、祈りの本質というものは変わりません。

 その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって神仏との対話である
ということ。

 人が祈るときは、天と地をつなぐ光のかけ橋がかけられることになります。

 ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり
細くもなるものなのです。




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読書歴 1-9

第一部  法と真理

23 自然に還る


 [問] 人類は現象界において魂の修行をなし、自然との調和をはかり、再び自然に還って
    ゆくものである、とよくいわれますが、その意味はどういうことなのでしょうか。
       

 人類は誰彼の差別なくすべて神の子です。神の子として実在界に誕生する以前は、これまた
甲乙のない大きな神の意識であったわけです。この点を人間の目で見ると、それはそのまま調和
された自然の姿でもあるわけです。  
 
 ところが、その神の意識が神の子として分れ、下界という現象界に出て、転生を輪廻するうちに、
神の子の人間は次第に自我に芽生え、不調和な世界をつくり出していったわけです。

 下界に出るということは、一方から見ると魂の修行でもあるわけです。修行という言葉が出る以上、
修行の意義なり、目的があります。この点を例をとって説明すると次のようになります。

 神の意識を仮に地球の大きさとします。そうして神の意識から分れた人間を地球の周囲を飛んで
いる人工衛星、あるいは宇宙船と考えてください。地球と宇宙船ではその大きさがまるでちがうでしょう。
しかし、人工衛星なり宇宙船は、たとえ小さくても地球から誕生した神の意識であることに変わりありま
せん。宇宙船なり人工衛星は、地球の周囲を飛ぶことによって、地球を含めた宇宙のさまざまな経験
(資料を集める)を重ねていきます。

 しかし、やがてその使命を終えると、宇宙船は地球に還ってきます。人間の修行の目的も、これに似て
いるわけですが、宇宙船と多少ちがう点は、人間は修行が主目的であるので、己の魂や心を地球の
大きさにまで大きくしなければならないのです。地球を離れた時の宇宙船の大きさで地球に戻るという
ことでは、修行に出たとはいえないわけです。

 そこで、心を大きくするには調和しかありません。自然の大調和に己の心を調和させなければなりません。
また、調和させなければ不調和な分だけ苦しむことになります。人間の心は自由にできていますので、
それだけに調和させなければ苦しむという宿命を負っているのです。

 自然に還るとは、小さな宇宙船が大きな地球の大きさになることをいみします。小さな宇宙船のままで
いいということではないのです。地球を離れた宇宙船は、地球の大きさになって初めて、人間としての
修行の目的がかなえられたわけであり、小さな宇宙船が大きな宇宙船になるまでの過程が魂の修行
であり、私たちに課せられている天命なのです。

 こういうと、では何のために大きくならなければならないのか、小さなままでもいいじゃないか、という
見方もありますが、しかし、これは生ある者、ことに人間は神の姿、いうなれば神の能力(自由、創造、
慈悲、愛)をもって、あの世からこの世に出てきていますので、その天命をホゴにして還るわけにはゆ
かないのです。肉体意識(表面意識)は否定しても、心(潜在意識)はそれを知っており、否定できない
のです。

 どんな人でも幸福を求めています。幸福の概念、あるいはその主観の置きどころはちがっても、幸せ
を否定する人は一人もいないはずです。この事実は何を意味するか、ほかでもない、各人が己の天命
を知っているからです。

 自然に還るというから、人間の魂が山川草木になってしまうと思う人があるかもしれませんが、とんで
もないことです。人間の魂は不生不滅です。永遠に生きつづける、それも個の魂を持って・・・・・・。
自然に還ることを仏教では解脱といい、解脱とは転生のカルマから遠離することをいうわけです。神と
同様に真の自由を得る、万物を生かす愛にかえることなのです。

読書歴 1-8

第一部  法と真理

22 心と生活


 [問] 正法の教えは他人に間違ったことをしても、また悪いことをしても、自分の心が
    神に忠実ならそれでよいのでしょうか。神様だけに謝罪し、それで万事が済むなら、
    この世の中は至極気楽なものです。ともあれ、自分の心だけで幸福になれるとは思え
    ないのです。この点について具体的に教えていただきたい。
    

 神に忠実で、人には不忠実なんてことは絶対にないことです。正法は、そんなことは教えて
いません。また、神様の許しをうければ万事ことが済むというのも、早とちりです。神様の許し
をうけるということは、厳格にいうと許しに対する償いがついてまわるものです。

 悪いことをさんざんやってきて、最後の土壇場でハイ済みません、悪かったというだけで万事
済まされるならば、こんな楽な話はありません。私の著書をもう少しじっくり読んで欲しい。よく
読んでもらえば、そのようなことはなに一つ書いていないことが分かります。

 自分の心だけでは自分が幸福になれないという疑問ですが、自分の心をふりかえってみた
ことがありますか。もしあるとするなら、自分の現在の苦悩の原因がどこにあるのかわかるは
ずです。

 いいとか、悪いとか、楽しいとか、つらいという感情はどこからくるのですか、肉体ですか、それ
とも環境ですか。それを感ずるのは、ほかならぬ自分の心ではないですか。また、人の苦しみ、
悲しみが理解できるのも、心があるからとちがいますか。

 自分の手をつねれば痛いし、蚊に刺されればかゆいぐらいは誰でもわかるでしょう。しっとや怒り
に心が燃えていると、こうした素朴な感情ですらわからなくなります。人の苦しみ、悲しみを平気で
見ていられるようになりますが、人の心というものは、さまざまな虚飾をぬぐい去っていくと、人も
自分もそうちがわないものであり、また、苦悩の原因が自分の環境や心の外にあるものではない、
ということがわかるものです。

 ご質問の自分だけの心とは、自分本位の心を指しているのとちがいますか。これではいつになっ
ても心の実相はわかりませんし、人間とはどういうものかも理解できないでしょう。

 たしかに、人間とは心と肉体、そして経済というものがついてまわるので、心だけ、精神だけの精神
主義に陥ると、さまざまな弊害が出てくるでしょう。というのは、山のなかで独居生活をし、他に迷惑を
かけないならそれも可能でしょうが、現実は職業を持ち、仕事をし、そうした中で、いわば共同社会を
つくっていますので、自分だけのことを考えるわけにはゆきません。つまり、健全な心と体、明るい環
境、安定した経済が望まれてくるわけです。

 また、社会というものはさまざまな魂を持った人たちの集団ですから、ますます全体的な調和を図る
必要が出てきます。人間の本来のあり方も、心と肉体の調和であり、個人と社会の調和でなければ
ならないでしょう。

 しかしながら、心と肉体、個人と社会の根底にあるものはなにかといえば、それはほかならぬ各人の
正しい心なのです。すべてはここに帰着してくるのです。つまり、自他一体の神の心こそ、私たち人間
に秘められている己の心なのです。この心をまず知る必要があるのです。これを理解しませんと、自分
のこともわからないし、他人のこともわかりません。

 また社会を動かしている原則も、神の意思も理解できません。そこで、これを理解するには、さきほど
の自分の心の諸相を知るようにつとめる。反省を重ねて自己本位の欲望はどこからくるのか、うらみ、
ねたみ、怒りの感情はどういう経路をたどるかを知る必要があるわけです。

 もう一度、心とはなんであるかを見直してください。反省が進めば進むほど、自分本位の心がはっきり
と映ってきて、これがあるから自分も社会も幸福になれないのだと理解されてきます。

第9章:地球の“いわゆる”文明を蝕むもの

第9章:地球の“いわゆる”文明を蝕むもの
 ラティオヌシと彼の仲間に別れの挨拶をすませると、我々は村を出て再び<空飛ぶプラットホーム>
に乗って<ドコ>に戻った。今度は広大に耕された畑の上を通り、途中、大きく実った麦を見せてもら
った。また、興味ある外観の都市も通過した。そこには大小さまざまなドコはあったが、それらを結ぶ道
はまったくなかった。私はその理由を理解した。ここの人々は<ラティヴォク>を使わなくても”飛ぶ”こと
ができたため道など必要なかったのだ。宇宙飛行場の建物と同じ大きさの巨大なドコには人々が出入り
していて、我々はその近くを通り過ぎた。

 「これらは食べ物を作る”工場”です。昨日、あなたがドコで食べた<マナ>と野菜もここで作られてたの
です」タオが説明した。

 我々は都市の上空、海上と、止まらずに飛行を続けた。間もなく、私のドコのある島についた。
いつもの場所で飛行船から降りると、我々はドコの中に入っていった。

 「気がついていますか?」タオが言った。「昨日の朝からあなたは何も食べていないのですよ。これでは
体重が減りますよ。お腹は空いていませんか?」
 「不思議にあまりお腹は空いていません。地球では、一日に四回も食事しているのに!」
 「それはそんなに驚くことではありません。ここの食べ物は通常二日間をおいてカロリーが放出されるよ
うにできていますから。私たちは胃に負担をかけることなく栄養を摂取できるのです。これはまた、私たち
の頭をすっきりとさせ、用心を怠らないようにさせてくれます。頭のことを考えるのが優先されるべきでしょう?」

 我々は自分でさまざまな色の食べ物と少量のマナをとり、それから蜂蜜水を味わった。
 タオが聞いてきた。「<ティアウーバ星>での生活をどう思いますか、ミシェル?」

 「どう思うかって?たぶん、今朝のような体験のあとでは、むしろ地球についてどう思うかと質問
すべきではないですか!私にとって実際は何年も経過していたあの十五分間は・・・・・とても怖い
と思いましたが、かなり魅せられてしまいました。どうしてあなたは私をあのような旅に連れて行っ
たのですか?」

 「いい質問です。ミシェル。質問してくれて嬉しく思います。あなた方の”いわゆる”文明に先立って
地球に存在した”本当の”文明を見せたかったのです。
 私たちはあなたが考えているように、あなたを”誘拐”したのではありません。数十億キロ離れた
私たちの惑星の美しさを見せるためにつれてきたのです。
 あなたがここにいるのは、あなたが誤った方向に向かっている文明に属しているからです。地球
のほとんどの国々は、自分たちが高度に進んでいるものと考えていますが、そうではありません。
むしろ、彼らの文化は、指導者やいわゆるエリート層をはじめ退廃していて、全体のシステムが歪
められています。偉大なタオラが説明したように、特に最近、私たちは地球をじっと観察してきたの
でよくわかるのです。

 私たちは地球で何が起こっているのかを調査できます。私たちは肉体としてもアストラル体として
も、あなたがたに交じって暮らすことが可能です。あなた方にとって幸運なことに、私たちは地球に
行かなくても、地球の指導者たちの行いに影響を与えることができます。例えば、私たちはドイツが
最初の核兵器使用国となることを食い止めました。なぜなら、もし第二次世界大戦でナチズムが
勝利していたら、地球の人々は悲惨な状況に陥っていたでしょう。あなたにはわかるでしょうが、
いかなる全体主義体制も文明を後退させます。

 数百万人の人びとをただユダヤ人であるという理由でガス室に送るなど文明人のすることではあり
ません。さらに、ドイツ人たちは自分たちのことを”選ばれた人間”であると信じていましたが、彼らが
行ったようなことをすれば、下の世界に落ちていかなければなりません。

 ”体制”にとって危険であることを理由に多くの人々を強制収容所に送り、数千人以上を抹殺したロシ
ア人たちもまた、同じです。

 地球では、多くの規律が必要とされますが、それは独裁を意味するものではありません。創造主である
<大聖霊>は、いかなる生物にも人間にも、その意思に反することを強制したりはしません。私たちは皆、
自由意思を持っていて、霊性を向上させるために自らを習練するのは私たち自身にかかっているのです。
自分の意思を他人に押し付けることは、ある意味では、自由意思を行使するという特典をその個人から
奪うことであり、人間が犯す最も大きな罪の一つと言えます。

 今、南アフリカで起こっていることは、すべての人間性に対する罪です。人種差別それ自体が罪で・・・」

 「私には分からないことがあります。あなたはドイツ人が最初に核兵器を使うことを妨げたと言いました
が、どうしてすべての国々が核を所有することには介入しなかったのですか?我々は核兵器を所有する
ようになってから、火山の上に座って暮らしているようなものです」

 「もしあなたの本を読む指導者の中に、あなたのことを信じなかったり、書かれていることを疑う人がい
たら、数年前に地球軌道に乗せられた数十億もの通信用<ニードル>がどうして消えてしまったのか、
説明を求めてごらんなさい。また、第二回のニードルの件も尋ねてごらんなさい。彼らはあなたが何を
話しているかを理解するでしょう。ニードルの消滅に関しては、私たちに責任がありますが、ニードルが
潜在的にあなた方の惑星にとって害をもたらすと判断したためです。

 時々、私たちは、あなた方の専門家たちが“危険な火遊び”をすることを妨害しますが、過ちが犯される
場合、私たちの助けが当てにならないことを覚えておいてください。もし、私たちが手を貸すことを適切と
判断すればそうしますが、災害からあなた方を守ることは出来ませんし、そうしたいと思ってもいません。
それは宇宙の法則に反することになるからです。
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読書歴 1-7

第一部  法と真理

19 反省ということ


 [問] 私は正法を知るまでは、いいたい放題、したい放題、気ままに暮らしてきました。
    正法に帰依して八正道の実践に努力するようになると、周囲に気がねするようになり、
    言動も消極的で暗い性分になって、どうも心が小さくなったように思います。反省の
    仕方にどこか間違いがあるのでしょうか。あるとすれば、どう修正すればよろしいで
    しょうか教えてください。

 物事には慣性の法則がついてまわっています。やりたい放題、したい放題してきた人が、
急にそれをやめ、立ち停まろうとすれば、倒れたり、苦しくなったりするでしょう。

 つまり、軌道修正の際には、そこにギャップが生じます。すべての物体、そして心にしても
常に運動をつづけています。その運動の方向を変えようとすれば、その運動方向になじむ
まで、さまざまなアンバランスな振動伴うのは当然でしょう。

 もう一つは何事も練習だということです。生活のための仕事を一つ覚えるにも三年、五年
とかかります。半年、一年で物事が成就できれば、こんなやさしいことはありませんし、いわ
んや、人の心がそうした安易なことで一変するとしたら、その人の心はまことにお粗末にで
きている。としかいいようがないように思います。

 人には長い転生の過程があり、業があり、その業がその人を形作っています。その業を軌
道修正するには、それこそ、努力と勇気であり、そうしてその前に大きな決意が必要でしょう。
一生かかっても、少なくとも、一つでも二つでもよい、自己の業や欠点を軌道修正しよう。とい
うゆとりのある気持ちも必要でしょう。

 さて、質問の趣旨ですが、反省は自己をみつめる内向的な作業です。内向的な作業を急に
徹底させようとしますと、神経が緊張し、主観的にも客観的にも暗くなる傾向が出てくるでしょう。
ことに、ふだんから内向的な人は、神経が鋭敏になり、日常の行動をいちいちチェックするよう
になり、動きがとれなくなってくるでしょう。そこで、こういう方は、楽な気持ちで、ゆっくりと、三日
に一度とか、週に一回まとめて一週間のできごとをふりかえるのもいいし、また、一つのテーマ
にしぼり、反省するようにしてはと思います。

 また、反省して気持ちが暗くなったり、行動が消極的になるのは、調和の理念をまだほんとう
に理解していないからであり、また、練習不足であったり、自分では気づかないが、心のどこか
に、あせりや欲望、ものに執着する何かがあるからであります。これは良いことだと考え、それ
に執着し、そのことにしか頭にない、というのも狂信、盲信につながってくるでしょう。

 反省の目的は、まず、ものの真実を知ることです。ものの真実がわからないから迷いや苦し
みがついてまわるわけです。したがって、ものの真実を知る努力をするのに、どうして気分が
暗くなったり、行動が消極的になるのでしょうか。そういうことは本来、あり得ないことです。
しかし、実際にはそういうことが多い、ということは反省の目的がちがっておりなにかの欲望
に心がとらわれているからといえるでしょう。

 もう少し、気を楽に持って反省してください。

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読書歴 1-6

第一部  法と真理

16 心のエネルギー


 [問] 『心行』のなかの「・・・・・己の心、意識のエネルギー源は、調和のとれた日々の
    生活のなかに、神仏より与えられたことを悟るべし」の一節を、わかりやすく説明
    してください。というのは、肉体保存のエネルギー源は動・植・鉱物によることはわ
    かるのですが、無形であり、しかも「宇宙意識」と直結していると思われる私たちの
    心が、なぜそれ以上にそのエネルギーを必要とするのか、理解できないからです。

 私たちの心が「宇宙意識」に直結していることは、事実その通りです。しかし、それにも
かかわらず、私たちは、なにゆえに悩んだり、苦しんだりするのでしょうか。また、病気も
するし、事故や災難にも遭遇します。「宇宙意識」に直結しておれば、そんなはずはない
ものです。「宇宙意識」とは、調和の意識であり、善なるエネルギーを意味します。

 動・植・鉱物を摂取することによって肉体保存のエネルギーと化しますが、いくらうまい
ものを食べ、エネルギー源を摂っても、事故や病気をします。

 あなたは、この両者のちがいを考えたことがありますか。

 「心」のエネルギーは、神仏より与えられるものなのです。各人の心は宇宙意識である神仏
につながっていますが、神仏の心にかなわない自己保存の自我におぼれれば、調和のエネ
ルギーは供給できないではありませんか。神仏のエネルギーは、各人の善なる心に比例して
供給されるものです。

 ある教団の教祖は、この世は善のみで悪はない、不幸はない、悪とか不幸は心の影であっ
て、人はすべて、善なる心しかないとして、現実的不幸を簡単に否定しています。

 このため信者は病気になると、コソコソとかくれて医者にゆき、みなの前では、いかにも健康
そうにふるまっているといいます。正しい生活を求めるために入信したはずのものが、入信す
ることによって、かえって偽善者になってゆく。恐ろしいことです。

 悪は本来ないものですが、人間が勝手に正しい生活の軌道を離れるために、悪を生み出し
てしまうのです。

 正しい生活をすることによって、神仏より調和のエネルギーが供給されます。調和のエネル
ギーが供給されますと、物事に迷うということが少なくなってきます。常に安心して毎日の生活
が送れるようになります。仕事をしていても、思わぬところから注文がきたり、自分でも創造で
きないような良い結果が与えられます。また、考えられない智慧が浮かんできて、災難を未然
に防いだり、物事がうまく運んだりします。こうした調和のエネルギーは、食べ物から得られる
ものではないでしょう。各人の毎日の生活行為、正しい生活のなかから与えられるものです。

 正しい生活は、まず各人の心である想念が、正道にかなっていることが先決です。怒りや
憎しみ、足ることを知らぬ執着の、愚痴や嫉妬で心が心が揺れていては、調和のエネルギー
は与えられません。なぜなら、これでは調和のエネルギーの波動と合わないからです。調和の
エネルギーは、肉体をも支配します。夜やすむときに反省し禅定をしますと、たいていの疲れ
ならば翌朝は爽快な気分でめざめ、肉体も軽くなっています。反対に、今日は疲れたといって
やすむと、前日の疲れが肉体に残ることがあります。まず、やってみてください。

 正法は実践です。『心行』の意味を理解するいちばんの早道は体験です。あなたも体験を
積んでください。続きを読む

読書歴 1-5

第一部  法と真理

13 六根


 [問] 五官と六根と煩悩の関係について説明してください。『心行』に「煩悩は眼・耳・鼻・舌・
    身・意の六根が根元なり」としてありますが、六根は肉体なのですか、それとも意をいう
    のでしょうか。

 まず、五官について説明しますと、五官とは眼・耳・鼻・舌・身の五つをいいます。その意味で
五官とは純然たる肉体を指します。

 意は肉体ではありません。意とは、意識、自我、魂、心の総体をいいます。

 私たち人間の構造は、肉体と光子体から成っており、光子体の意識が肉体を通して生活し
ますので、肉体と自分(意識)は同一のものと考え、両者をいっしょくたんに考えてしまいます。

 次に、六根というものは、肉体である五官に、意識である魂、自我がとらわれ、目に見えた
現象の世界を実在と見たり、考えの基本においてしまうので、意の中に煩悩を生ぜしめるこ
とになってしまうのです。

 たとえば、花を見て美しい、欲しい、自分のものにしたいとする眼を通しての煩悩が起こり、
人の噂に怒りを覚える耳を通しての煩悩もあります。このほか、嗅覚(鼻)による煩悩、食べ
もの、言葉による煩悩(舌・口)、肉体保存(身)にまつわる煩悩があるわけです。こうした煩悩
は、五官ではなく、すべて、意である自分の意識の中につくられて行きます。煩悩とはものに
執着した迷いのことです。迷いに陥った自分のことを偽我といいます。私たちは偽我に自分
を託しすぎるから、争いがつきないのです。

そこで六根とは、五官を通じて生ずる心の迷いの五根と、偽我の自分を加えた総計をいうの
であり、これをきれいにしないといつになっても平和な心を得ることができません。

 偽我の自分とは、表面意識の小さな自分です。各人の意識は表面意識と潜在意識があり、
表面意識の量はわずか一〇%しか働いていないのですから、小さな自分になってしまうのも
当然でしょう。大きな自分になるには、五官にふりまわされない自分━━━━大きく心をつくる
ことを心がけなえればならないわけです。

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読書歴 1-4

第一部  法と真理

10 人間以外の魂


 [問] 人間の生命(魂)は本体一、分身五の六体から成立っているといいますが、では
    人間以外の動物、植物、鉱物の場合はどうなっているのですか。また、転生輪廻はど
    ういう順序で行われるのですか。

 本体、分身の関係は、なにも人間だけに限らず、動、植、鉱物全部についていえます。人間
を含めた動、植、鉱物の物理的な見分け方をまず説明しますと、動物の場合は、細胞の要素
が大きく分けて六つに分類されます。

 核、原形質膜、ミトコンドリア、ゴジル体、中心体、脂肪粒の六つ。この六つの要素が、たがい
に補い合って細胞という組織をつくっています。この細胞の六つの要素が、いうなれば、本体一
(核)、分身五(原形質膜、ミトコンドリア、ゴルジ体、中心体、脂肪粒)の構成の反映といえるでし
ょう。ですから人間以外の動物についても、細胞がこのようにわかれる場合は、一本体、五分身
ということになります。

 植物もこの例にそって、核(本体一)があり、そうしてその周囲に原形質膜、液胞、色素体、細胞
膜(分身四)の五つから構成されます。ですから植物は、動物よりも一つだけ構成要素が少ない
ことになります。

 鉱物の場合は、原子番号に核を加えた数が本体、分身の数になります。たとえば炭素の原子
番号は6です。6とは、核外電子の数。これに核の一つを加えると七になります。つまり本体一
、分身六の関係になります。このようにして、水素は二、金は八十、銀四十八、塩素十八、亜鉛
三十一、鉄二七、銅三十が本体、分身数を合わせた数となります。

 このように、物質の構成は、そのモトである生命の構成にしたがって形作られているといえる
でしょう。

 形の世界は心の反映であり、このため、本体、分身の関係も、生命の組織をそのまま形の上
に反映し、細胞も、素粒子の世界も同じような構造となってあらわれるものなのです。

 不思議といえば不思議ですが、生命と物質というものは、そのようにできています。

 色心は不二  、物質と生命について追究すると科学的にも理解されてくるといえましょう。太陽
系のそれも、太陽(核)と惑星(分身)が相互に作用し合っています。そうして太陽系全体を形成し
ています。一つでも欠けたら太陽系は分解してしまいます。

 魂の転生輪廻は、それではどういう順序で行われるかといえば、原則的に順ぐりです。Aが出れ
ば次がB、Bの次はCというように、A(核)BCDEF(分身)が順次、現象界に出て修行する。という
のが原則です。ただし転生輪廻の過程で修行を積む者と、横道にそれてしまう者もあって、全体の
バランスを崩すことがあるので、そうした場合は、あの世で話し合い、前記の原則にこだわらず、A
ならAが短期間に二度、三度現象界に出て修行することもあります。しかしこういうケースは比較的
少ないようです。大半は順ぐりに現象界に出て修行することになるわけです。
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読書歴 1-3

第一部  法と真理

7 念と執着


 [問] 病気で苦しんでいる主人、あるいは主婦が、もしもその病気で死んでしまった
    ならば残された家族は不幸です。そこで、神に念じ、どうぞこの病気を治してく
    ださいというその心は、いったい執着につながるのか、それとも慈悲の心なの
    ですか。

 それは立派な慈悲の心です。残された家族の行く末を考えると、いまここで死なれては困る、
子供も小さい、神よ、どうぞ病に苦しんでいる人を救ってください、という心が執着であるはず
がありません。

 ただこういう場合があります。念じる人の立場です。たとえばある人に金を貸しました。人が
病気になった。その人がもしも死んだら貸した金が取れない。そこで貸した金を返してもらうた
めにその病気を治してくれと神に念ずる。これは慈悲というより執着でしょう。ですから、念じる
人が、どういう心で念じているかによって、慈悲になり、執着にもなります。

 ここで念について考えてみましょう。念のなかには三つの性質が含まれています。一つは
「エネルギー」として、もう一つは「ねがい」、さらにもう一つは「循環」です。エネルギーとして
の念は、ふつう念力といわれるように、念はいわゆる力であり、力はエネルギーの集中され
たものです。人間の精神は、エネルギーの集まりによってできており、ものを考える、思う、
念ずるの、精神活動は、そのエネルギーの放出された状態をいいます。ですから、ものを考
える、あるいは心配すれば、内にあるエネルギーが消費されるのですから疲れを覚えます。

 しかし、エネルギーそのものは、モーターを動かす電気と同様に善悪に関係ありません。
問題は「念」として、エネルギーが放出される時は「ねがい」という意識活動が伴います。
この意識活動が、欲望を主体しているか、欲望から離れた慈悲、愛から出たものであるか
によって、その念は、その人に、あるいは第三者にいろいろな状況を生み出してゆきます。
すなわち、念のなかのもう一つの性質である「循環」の作用です。念は波動であり、波動は
山彦と同様に、発信者に必ず帰ってきます。つまり、悪の念には悪が、善には善がハネ返
ってくるのです。すなわち念波は、あの世にただちにコンタクトされ、善の念波は天使に、悪
は地獄に通じます。

 したがって慈悲、愛の心で、病気を治して欲しいと念じたとすれば、その念力はあの世の
天使に通じ、そして加護をうけ、病気をなおし、慈悲を与えたその人にも光が与えられるの
です。悪はこの反対です。

 次は執着ですが、執着とは「モノにこだわる」ことをいいます。「これは俺のものだ」「俺はこれ
これのことをした。だから感謝されるのは当然だ」「俺はあいつより偉い」「俺は有能だ」「死にた
くない」などなど、想いが深く重く沈んでいる状態をいいます。

 ふつう人間の意識活動は、念と執着がまざり合って動いています。比較的念の強い人に世の
成功者が多いようです。そのため強欲な人ほど成功するので、悪人が栄え善人がバカをみるよ
うな社会をつくっていますが、成功者が必ずしも安心した生活を送っているとはいい切れません。
多くの物を持つだけに、絶えず不安と不信のなかで生活することが多いのです。

 これはなぜかといいますと、念と執着がまざり合い、ぶつかりあい、念の作用である循環の作用
をうけているからです。正しい念は中道という慈悲、愛を目的としたものを最上とし、そうあるべき
が人間本来の姿だからです。続きを読む

読書歴 1-2

第一部  法と真理

4 魂の性質


 [問] 魂とはどのような性質を持っていますか。心と魂のちがいはどうですか。両者
    はどのような関係をもっていますか。

 魂とは、個性を持った意識です。エネルギーの支配者です。人間の意識は、一〇%の表面意識
と九〇%の潜在意識からできています。魂といわれる部分は、本当は表面意識と潜在意識の全体
をいいます。ところが、表面と潜在の意識がわかれているために、全体をあらわす魂を持った人は
少なくなりました。

 普通、魂といわれる部分は、表面意識と潜在意識の間に横たわる想念帯と、表面意識を指して
いっています。想念帯は今世の経験、教養、徳性などを含むと同時に、あの世の経験、過去世の
経験も含まれています。このため同じものを見る、聞くにしても、人それぞれによって受けとり方が
みんなちがっています。これは想念帯の影響があるからです。したがって人それぞれの魂の大小、
あり方がでてきます。魂に個性があるというのも、このためです。

 地獄に堕ちた魂を指して、迷える魂といいます。これは今世において、その生活態度が表面意識
に強く左右され、潜在意識につながる想念帯の善なる波動(自分の心にウソがいえない)を無視し
たために起こることです。偽善、怒り、そねみ、しっとなどはそのあらわれです。

 次に心とは、各人の意識の中心です。意識の中心とは、たとえば円全体を意識しますと、円の真中
の一点です。そして各人の心は、神仏に同通していますから、心はなんでも知っています。ふつうあの
人の心は美しい、汚ないとよくいいます。これは想念帯の影響によるところであって、厳格には、あの人
の想念は美しい、汚ない、といった方が適切なのです。しかし、これでは一般的に通用しませんので、
想念を心といっています。

 しかし心そのものは、神仏の心に同通しているのですから、太陽のように、慈悲と愛だけなのです。
汚ないとか、美しいということはないのです。ちょうど太陽を中心に、地球をはじめとして九惑星が自転、
公転していますが、このときの太陽は神であり、地球は私たちの想念の部分に当たるといっていいでしょう。

 さて、魂と心の関係ですが、前述のように心そのものは、神仏そのものですが、魂は、広義には心を中心
とした円全体の意識(表面、想念帯、潜在)ですから、各人の魂にはそれぞれの転生輪廻の歴史があります。
したがって、それぞれの個性を持ち、心の波動をうけながら、向上進歩してゆくものです。このように魂と心は、
個々独立したものではないのですが、ふつうは、表面意識と、表面意識側の悪い部分に左右されてしまうた
めに、心に通じた魂をあらわしていく人は、非常に少ないわけです。

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