インターネット正法さんのサイトより
http://sunheart.web.fc2.com/kiganbun-sonogasira1.html
<転載開始>
祈願文 園頭広周師よる祈願文の解説をご紹介させていただきます。

-祈願文 園頭広周師による-

「祈願文」は、禅定する時の祈りとして、また、人のために祈る合、天上界よりの加護をお願いする場合に非常に大事な欠かしてならない「祈りの言葉」なのであるから、一言にして言えば、奇跡を起こす祈りの言葉であり、よくこの意味を会得することである。

    祈願文

祈りとは、神仏と己の心との対話である。同時に、感謝の心が祈りである。神理に適う祈りの心で実践に移る時、神仏の光はわが心身に燦然と輝き、安らぎと調和を与えずにはおかない。

    前文
私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました。
慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人びとと互いに手を取り合って生きて行くことを誓い合いました。
しかるに地上界に生まれ出た私たちは、天上界での神との約束を忘れ、周囲の環境・教育・思想・習慣そして五官に翻弄され、慈悲と愛の心を見失い、今日まで過ごして参りました。今、こうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると、自己保存、足ることを知らぬ欲望の愚かさに胸がつまる思いです。
神との約束を思い出し、自分を正す反省を毎日行い、心行を心の糧として己の使命を果たして行きます。
願わくば私たちの心に神の光をお与え下さい。仏国土・ユートピアの実現にお力をおかし下さい。

  前文解説
いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通して発生したものなのであろうか。それは、神の意識から、神の子としての我々の意識が離れた時に、親なる神を、神の子である子供が慕うという自然の感情から発したものであり、更に人間が、あの世天上界からこの地上に生を受けた時に、あの世天上界を慕う感情として、何かあると必ず天上界、神を慕わずにはいられない心情が、祈りとして祈らずにはいられない心となって現れたものである。
魂の故郷である天上界では、思うこと、考えることがそのまま祈りとなって神仏と調和していて、祈ることは即行為することであり、行為することが即祈りとなっている。
ところが、人間はこの地上界に肉体を持つと、この肉体が自分であると錯覚して、天上界で持っていた時の全なる心と、それに基づく行為を忘れてしまって自我に生きようとして五官に左右され、六根にその身、その心をまかせてしまう。すると、煩悩という迷い心が起こってきて、本当の自分自身、神より与えられた神の子の意識を埋没させてしまってどうにもならなくなってしまう。すると苦しみが生じ、いろいろ不本意なことが起こってくる。
「苦しい時の神頼み」、自分の考えでなんとかなると思っている間は神を思い、神に祈るということはしないが、もはや自分の力ではどうにもならないとなると、思わず神を思い出し、神に祈る心になる。それは、煩悩に振り回されてどうにもならなくなった人間が、最後は神に頼んだらよくなることを知っている心があるからである。
「人生苦」というものを、ただ苦しみだけとしてとらえて、「苦い、苦しい」といっている間は苦しみが続く。そういう人が多かったから釈尊は、「あなた方は人生は苦だ、生きることは苦しいことだと考えてきたであろう」といって説き出されたのである。
苦しみを苦しみとして、その現象だけにとらわれていると苦しみはなくならない。ではどうしたらその苦しみから解脱することが出来るのであろうか。それは、その苦しみの揚げ句に、神に祈りたくなるその心はどうして起こってくるのであろうかと考え始めるところから苦の解脱は始まるのである。だからして、苦しみが起こってきた時には、その苦しみを苦しみとだけ考えるのをやめて、この苦しみは肉体の煩悩に執着した結果であって、神を忘れ、本当の自分を忘れてしまっていた結果だったということに気づいて、その苦しみは神を思い出させ、本当の自分を思い出させて下さる警告であったと感謝して、ではどうすればよかったのであったかということを反省すると、その苦しみから抜け出すことができるのである。
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