大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

ねずさんの ひとりごと

明治150年 真の日本の姿 第一話

明治150年 真の日本の姿 第一話
https://www.youtube.com/watch?v=fVIhNbhQeJo

HiramekiTV
2019/05/19 に公開
明治150周年記念映像 第一話 江戸・明治・大正・昭和・平成そして令和── 日本の中に誇れるものはなかったのか、 日本人としての軸はぶれていなかったか。 これからの日本の発展のため、明治維新から150年を迎えた今、 本当の日本の姿を紐解きます。 インタビュー:小名木善行氏

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今日は真珠湾攻撃があった日

大和心を語るねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3594.html
<転載開始>
今日は真珠湾攻撃が行われた日です。
このことについて、私たちは歴史の教訓をしっかりと学ぶ必要があると思います。


着底し傾いたアリゾナ
戦艦アリゾナ


76年前の今日、真珠湾攻撃が行われました。
戦後書かれた日米の戦争に関する記述は、内外を問わず、ほとんどが真珠湾事件から始まっています。
ところがそうした視点で書かれたものは、不思議なことに「なぜ日本が真珠湾を攻撃しなければならなかったのか」についての因果関係が、まったくといっていいほど触れられていません。

しかし考えてみれば、突然意味もなく、日本が国家意思をもって、ハワイにある米軍の軍事施設である真珠湾を攻撃するなど、ありえないことです。
さらに「米国は真珠湾を攻撃されたから日本を懲らしめるために戦争をしたのであって、軍隊は暴力装置であり、日本はその装置が暴走して無謀な侵略戦争を挑んだと書いているものもあります。

しかしほんのすこし頭を働かせれば誰にでもわかることですが、これでは理屈に合いません。




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(再掲載)  南シナ海はどこの国の海?

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2143.html
<転載開始>

南シナ海


南シナ海には、パラセル諸島(西沙諸島)、スプラトリー諸島(南沙諸島)があります。
これらの島々の領土主権は、どこの国にあるのでしょうか。

ヒントは、南シナ海は、ベトナム、フィリピン、インドネシアなどに囲まれた、台湾よりもずっと南にある海で、パラセル諸島もスプラトリー諸島も、その海域に広がる島々ということです。

実はこの海域では、1970年代に海底油田の存在が確認されています。
そのことから、突然中共政府が自国の領海だと言い出して、島に軍事飛行場や軍港を作ったりしていて、このためベトナムやフィリピンが怒って、度々軍事衝突が起こっていることは、みなさまご存知の通りです。

そこでみなさんに質問です。
南シナ海は、どこの国の領海でしょうか。
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プレスコードの全面的見直しを

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2348.html
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プレスコード



「プレスコード(Press Code for Japan)」というのは、GHQが日本の精神構造の解体を目的に、新聞、雑誌、書籍、ラジオ放送などの報道を統制するために発せられた規則です。
正式名称は「SCAPIN-33、日本に与うる新聞遵則」で、終戦の約一ヶ月後である昭和20(1945)年9月19日に発令され、9月21日に発布されたものです。

GHQは、このプレスコードをもとに、約5700人の日本人を雇い入れて、国内で刊行されるすべての印刷物およびラジオ放送(当時はまだテレビはありません)の台本などをすべて検閲しました。
当時の検閲は、新聞記事だけで一日に約5千本以上を対象に、毎日休みなく行ったといいますから、すごいです。
その内容は、30項目あります。具体的な内容は末尾に掲載します。

これがいまなお、使われ、実施されています。
信じられないことに、いまも生きているのです。

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日本の台湾統治

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2300.html
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ニューヨーク・タイムスの記事(1904年9月25日)
ニューヨークタイムスの記事


明治37(1904)9月24日付ロンドン・タイムスに、「日本人が変えた未開の島―台湾」という記事が掲載されました。上の図のものです。
同文の記事は、翌9月25日付けのニューヨークタイムスにも掲載されています。

明治37年といえば、日清戦争の勝利で日本が台湾の割譲を受けてから9年目です。
この年の2月には日露戦争が勃発しています。
つまりこの記事は、日露戦争中に掲載された記事であるということです。

内容は、日本による統治がいかに素晴らしいものであるか、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。そしてなぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々です。
たいへんわかりやすくまとまっています。

おそらく、現代のイラクや、アフガン、ソマリア、あるいは南米のコロンビア、ペルーなどにおいても、当時の日本式統治をおこなったのなら、瞬く間に彼の国の貧困は改善され、治安も回復し、多くの人々が安心して暮らせる国家となっていくのではないか。
そんなことさえも感じさせる記事となっています。

訳は、ブログ「台湾は日本の生命線!」の過去記事からお借りしました。(一部、ねず流で校正しています)

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舞天さんと日本人

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2297.html
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小那覇舞天
小那覇舞天01


沖縄本島のちょうど真ん中の少しくびれたようになっているところに、うるま市があります。
そのうるま市の東側のあたりは、かつて美里村石川といって、人口2千人足らずの静かな農村でした。

昭和20年の秋、ここに米軍による難民キャンプが設置されました。
石川には、沖縄各地から人が集められ、数か月で人口が3万人に膨れ上がりました。
それがきっかけで石川は、後に市になり、その石川市が近隣と統合されて、いまのうるま市になったわけです。

当時の沖縄は、まだ焼け野原です。収容所には、戦災の傷跡も深く、身内を亡くされた方、家や土地、田畑を焼かれ失った方、大けがをされ、手足を失った方などが集まっていました。
悲嘆にくれ、体の傷も心の傷も癒えないまま、老人でも女性や子供でも、彼らは米軍による復興作業に駆り出されました。
そして、作業によってようやくその日の食料と物資を得ていました。

こうした年寄りや女子供でも容赦なく労働に駆立てるという行動様式は、いまではほどんど語られることがなくなったけれど、当時の米軍の常識でした。
日本人は、人でさえなかったのです。

みんな、戦争で家族を失い、子を失った人たちです。
武器を突きつけられて、疲れた体で、無理矢理働かされる。
そんな状況ですから、みんな疲れきっていたし、希望なんてないし、生きる気力さえ失った茫然自失状態で、ただ、毎日を「言われたまま」生きている人たちでした。

その難民キャンプで、なんとかしてみんなの明るさを取り戻そうとした人がいました。

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ブロードウェイのサムライ

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2269.html
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ブロードウェイの行進


1860年(万延元年)6月16日、米国ニューヨークのブロードウェイに、日本の武士たちが現れました。
日米修好通商条約の批准書交換のために江戸幕府によって派遣された外国奉行、新見正興ら80余名が、ブロードウェイを馬車で行進したのです。

このときの様子を見た米国の詩人ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)が、その武士たちの姿に感動して書いた詩が、「ブロードウェイの行進(A Broadway Pagent)」です。

==========
西方の海を越えて
此方へ
日本から渡米した
謙虚にして
色浅黒く
両刀を差した使節たちは
無帽にして臆せず
無蓋の四輪車に反りかえり
今日
マンハッタンを
練って行く
言葉の巣窟、詩賦(しふ)を伝えた人
往古の民族が来た
芳香馥郁(ふくいく)として
寛(ゆる)やかに流れる衣装の
日に焦(や)けた容貌(ようぼう)の
不屈の魂の
炯々(けいけい)たる眼光の
婆羅摩(ブラーマ)の
民族がやってきた

注)「詩賦」=韻文詩のこと、「馥郁」=よい香りがただよっているさま、「婆羅摩」=Bramah、バラモン教の最高支配神
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ノモンハン事件と戦後教育

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2255.html
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ノモンハンに向かう兵士たち
ノモンハン事件02


5月11日は、満蒙国境でノモンハン事件が勃発した日です。昭和14(1939)年のことです。
ノモンハン事件は、この日から9月にかけて続いた旧ソ連軍との国境紛争です。

このノモンハン事件について、戦後、いろいろな教科書を含む書籍や雑誌、メディア等において、
「旧式な装備しか持たなかった日本の関東軍が、ソ連軍の機械化部隊によって完膚なきまでに叩きのめされ完敗した」
「1万70000人もの犠牲を払い大敗を喫するという汚点を残しながら、日本陸軍はついに陸戦装備を近代化しなかったという愚行を犯した」
などと紹介されています。

要するに、旧式の装備しか持たない日本が、ソ連の近代的機械化部隊に完膚なまでに叩きのめされながら、その後反省もなく、ついに陸戦装備を近代化することはなかった、なんと日本軍はバカだったのだろう、という論の延長線上で、ノモンハンは、日本が「負けた」と宣伝されているわけです。

本当にそうなのでしょうか。

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尼港事件

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2252.html
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尼港事件


 この写真はあるところの壁に書かれた文字です。そこには「大正九年五月二十四日午後十二時 忘ルナ」と書かれています。何があったのでしょうか。実は、日本人として絶対に忘れてならないひとつの歴史がここにあります。

 これが書かれたのは、いまではロシアの「ニコライエフスク」となっている街の、とある建物の中です。昔はそこは尼港(にこう)と呼ばれていました。場所は中国黒龍江(アムール川)の河口から二十キロの地点です。

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アンガウルの戦い

ねずさんのひとりごとさんのサイトより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2244.html
<転載開始>

舩坂弘さん(後列左)と三島由紀夫(前列左)
舩坂弘さんと三島由紀夫さん



舩坂弘(ふなさかひろし)さんという方がおいでになりました。戦後、渋谷で小さな書店を開き、そこから出発して渋谷に全フロアが書店という「書店ビル」を、日本で初めて開かれた方です。すでにお亡くなりになっていますが、渋谷がいまも若者たちが安心して集える街でいられるのも、実はその舩坂さんの貢献があったからだともいわれています。

その船坂さんは戦時中、パラオのアンガウル島に軍曹として、赴任しておいでになりました。この島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島で、そこで舩坂さんは、わずか千二百名の仲間たちとともに、約二万二千名の米陸軍第八十一歩兵師団を迎え討っています。

米軍の第八十一歩兵師団というのは、「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた米軍選りすぐりの強固な軍団です。兵だけではありません。米軍はこの小さな島と、隣のペリュリュー島を攻略するために、マーク・A・ミッチャー中将率いる米軍第三十八機動部隊、通称「快速空母群」を派遣しています。それは航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦十数隻、駆逐艦三十五隻という大部隊でした。

そのような大軍を前に、アンガウルの日本軍は、島を一ヶ月以上も持ちこたえて、最後、玉砕しました。大怪我のために偶然に生残った舩坂さんは、敵に一矢報いようと米軍の本部にたったひとりで突貫攻撃をしかけ、そこで銃弾を受けて意識を失ったところを、助けられています。


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