第5章 祈りの意義と祈願文
祈りは人間に与えられた神の慈悲である。
しかし、我欲の願いは己の心を汚し、自分を失う。
つとめて祈るとき、神は惜しみない光を与えてくれよう。
天と地のかけ橋
いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなのでしょうか。
それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからは
じまります。
魂のふるさとである天上界では、”祈り”は即行為で、祈りそのものが行為になっている
ので、ことさらに、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることは、それはそのまま祈りの
行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる
心、行為を忘れ、自我に生きようとする。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせて
しまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。
苦しい時の神だのみと、よく人はいいます。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求
めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれる己自身
であるということを、無意識のうちに知っているからになりません。助けを求める自分と救いの
側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、『心行』の中に述べている
潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、
どうぞ助けてくださいと、祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が助けます。守護・指導霊に
力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。
このように、「祈り」というものは、自分の魂のふるさとを思いおこす想念です。同時に、反省とい
う、自分をあらためて見直す立場に立った「祈り」でないと、本当は、あまり意味がないし、救いに
ならないということです。
苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手は、さしのべられません。なぜかといいますと、
今の自分の運命は、自分自身がつくり出したものだからです。それは、誰の責任でもありません。
自分自身の責任なのです。
人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ、償うことが神の子としての摂理です。
反省し、ざんげして祈るときは、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。
誤ちは、人間にはさけられないからです。
祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生したものです。
聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは
意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発展させなければ、真の祈りにまで、
高めることは出来ません。
また祈りは、神の子の自分を自覚したその心、その感謝の気持ちが”祈り”となるのです。
現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた最良の己自身の魂の修行場であり、
ここを通らずして、魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向かったときに、祈りとな
って、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力
なくしては、いっときといえども生きてゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で
果たすためには、人間は祈らずにはいられないものです。
こうしてみてまいりますと、”祈り”には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の調和度に
よって、かなりの相違があるといえます。
しかし、祈りの本質というものは変わりません。
その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって神仏との対話である
ということ。
人が祈るときは、天と地をつなぐ光のかけ橋がかけられることになります。
ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり
細くもなるものなのです。
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祈りは人間に与えられた神の慈悲である。
しかし、我欲の願いは己の心を汚し、自分を失う。
つとめて祈るとき、神は惜しみない光を与えてくれよう。
天と地のかけ橋
いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなのでしょうか。
それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからは
じまります。
魂のふるさとである天上界では、”祈り”は即行為で、祈りそのものが行為になっている
ので、ことさらに、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることは、それはそのまま祈りの
行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる
心、行為を忘れ、自我に生きようとする。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせて
しまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。
苦しい時の神だのみと、よく人はいいます。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求
めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれる己自身
であるということを、無意識のうちに知っているからになりません。助けを求める自分と救いの
側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、『心行』の中に述べている
潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、
どうぞ助けてくださいと、祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が助けます。守護・指導霊に
力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。
このように、「祈り」というものは、自分の魂のふるさとを思いおこす想念です。同時に、反省とい
う、自分をあらためて見直す立場に立った「祈り」でないと、本当は、あまり意味がないし、救いに
ならないということです。
苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手は、さしのべられません。なぜかといいますと、
今の自分の運命は、自分自身がつくり出したものだからです。それは、誰の責任でもありません。
自分自身の責任なのです。
人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ、償うことが神の子としての摂理です。
反省し、ざんげして祈るときは、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。
誤ちは、人間にはさけられないからです。
祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生したものです。
聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは
意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発展させなければ、真の祈りにまで、
高めることは出来ません。
また祈りは、神の子の自分を自覚したその心、その感謝の気持ちが”祈り”となるのです。
現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた最良の己自身の魂の修行場であり、
ここを通らずして、魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向かったときに、祈りとな
って、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力
なくしては、いっときといえども生きてゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で
果たすためには、人間は祈らずにはいられないものです。
こうしてみてまいりますと、”祈り”には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の調和度に
よって、かなりの相違があるといえます。
しかし、祈りの本質というものは変わりません。
その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって神仏との対話である
ということ。
人が祈るときは、天と地をつなぐ光のかけ橋がかけられることになります。
ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり
細くもなるものなのです。
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