大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

心の指針

第5章  祈りの意義と祈願文

第5章  祈りの意義と祈願文
      
       祈りは人間に与えられた神の慈悲である。
      しかし、我欲の願いは己の心を汚し、自分を失う。
      つとめて祈るとき、神は惜しみない光を与えてくれよう。

   天と地のかけ橋

 いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなのでしょうか。
 それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからは
じまります。

 魂のふるさとである天上界では、”祈り”は即行為で、祈りそのものが行為になっている
ので、ことさらに、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることは、それはそのまま祈りの
行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる
心、行為を忘れ、自我に生きようとする。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせて
しまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。

 苦しい時の神だのみと、よく人はいいます。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求
めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれる己自身
であるということを、無意識のうちに知っているからになりません。助けを求める自分と救いの
側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、『心行』の中に述べている
潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、
どうぞ助けてくださいと、祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が助けます。守護・指導霊に
力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。

 このように、「祈り」というものは、自分の魂のふるさとを思いおこす想念です。同時に、反省とい
う、自分をあらためて見直す立場に立った「祈り」でないと、本当は、あまり意味がないし、救いに
ならないということです。

 苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手は、さしのべられません。なぜかといいますと、
今の自分の運命は、自分自身がつくり出したものだからです。それは、誰の責任でもありません。
自分自身の責任なのです。

 人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ、償うことが神の子としての摂理です。
反省し、ざんげして祈るときは、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。

 誤ちは、人間にはさけられないからです。

 祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生したものです。

 聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは
意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発展させなければ、真の祈りにまで、
高めることは出来ません。

 また祈りは、神の子の自分を自覚したその心、その感謝の気持ちが”祈り”となるのです。

 現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた最良の己自身の魂の修行場であり、
ここを通らずして、魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向かったときに、祈りとな
って、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力
なくしては、いっときといえども生きてゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で
果たすためには、人間は祈らずにはいられないものです。

 こうしてみてまいりますと、”祈り”には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の調和度に
よって、かなりの相違があるといえます。

 しかし、祈りの本質というものは変わりません。

 その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって神仏との対話である
ということ。

 人が祈るときは、天と地をつなぐ光のかけ橋がかけられることになります。

 ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり
細くもなるものなのです。




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第二章 八正道と中道

第二章 八正道と中道

     心は一念三千、さまざまに変化する。
    運命は心という想念行為がつくり、今の
    あなたを生かしている。善を生かすかどう
    かはあなた自身にかかっている。

   八正道こそ中道の道

 仏教の言葉の中に、苦集減道というのがあります。これはどういう意味かと申しますと、苦とは
生老病死を指し、集とは、その原因、減とはその原因を滅すること、そうしてそれには道を行ずる、
つまり中道であり、八正道を行ずる以外にない、ということをいっています。

 集である原因とは何かといえば、日常生活において人を非難したり、ぐちったり、そしったり、ある
いは自我我欲におぼれ、人を人とみない我執の虜となること、人間として中道の道を失うことをいいます。

 地位や名誉が高くなりますと、つい人を見下したり、俺は偉いのだ、といった気分になります。お金が
あると、たいていのことは自由になりますから。ぜいたくをする。二号、三号さんを囲うようにもなります。

 その反対に、下積みの生活が続きますと、みんな自分に敵対しているようにみえてきて、あいつが悪い、
こいつが面白くないといって人を呪(のろ)ったり、自分をいじめたりして、小さな自分をつくりあげてしまい
ます。

 このように、金がありすぎても、なくても、地位が高すぎても、低すぎても、とにかく、人間は、その生活
環境が右によっても、左にかたよっても、それに、心まで動かされてしまいがちです。

 そこで、何事も腹八分のたとえのように、中道を歩むことが大切なのです。

 しかし、ここで間違えては困ることは、中道とは地位が高いからよくない、貧乏だから心が貧しいという
ことではありません。地位が高いのは、それだけ、その人の努力の結果であり、貧乏といっても、それは
その人にたいして、天がある修行を命じている場合もあるのです。ですから、自分の環境が、現在たとえ
その両極端におかれていたとしても、自分は中道を歩いていない、俺はダメだ、というように悲観する必要
はさらさらありません。

 中道を歩むということ、その本来の意味は、人間はとかく、目や耳や鼻、あるいは舌や身、意(自己保存)
に左右されがちなので、こういうものに、心を動かされるな、ということをなのです。

 話は前に戻りますが、苦の原因は、そのように、増長慢や自己卑下、自我我欲、愚痴ったり、そしったりして、
自分自身の心を縛ってしまうところにあります。こうした状態がいつまでも続くと、自分の意識まで腐らせて
しまい、それはそのまま地獄界に通じてしまうということをいっているのです。

 地獄は、自分を見失った世界です。なぜかといいますと、人間は、本来、神の子、仏の子であり、その住む
世界は光り輝く、調和された天上界であるからです。その神の子、仏の子が、暗い、陰惨な、火炎地獄や
阿修羅界、餓鬼界に堕ちるということは、心の神性、仏性お傷つけ、自己を滅したことになるわけです。

 地獄界に堕ちますと、その苦しみから、なかなか抜けられず、何十年、何百年という長い間、そこに
とどまることが多いのです。

 そこで、これではいけない、人間は、人間らしく、神の子、仏の子として、その神性を保ってゆかなければ
いけない、そして、神仏の理想とされているこの世の理想社会、つまり、仏国土、ユートピアの世界をつくり
あげていかなければいけない、というわけなのです。

 それには、各人が、神の子、仏の子としての自覚、つまり、こうした苦の原因である五官に左右されず、
仏教でいう悟りを得ることが大切であるというのです。

 そこで、苦集減のあとに、道という言葉が出てまいります。つまり、苦海からぬけ出し、己自身を救うには、
さきほどの、中道の道を歩むしか、人間には救いがないといっているわけなのです。

 それが、かつてインドで説かれた釈迦のいう八正道です。

 八正道は、人間として、中道を歩ませる規範であります。天国につながるかけ橋です。左にかたよらず、
右に曲がらぬ中道への道、つまり、神性、仏性への道、正覚への道なのです。

 すなわち、一、正しく見ること、一、正しく思うこと、一、正しく語ること、一、正しく仕事をなすこと、
一、正しく生活をすること、一、正しく道に精進すること、一、正しく念じること、一、正しく定に入ること、
の八つです。

 この八つの規範の一つが欠けても、中道の道は歩めないし、正覚を得ることも、不可能であると説い
ています。また、これ以上であってもいけない。たとえば、戒を守れとか、瞑想のみの生活を送れとか、
苦行せよ、といったものです。

 それは、釈迦自身が、いろいろな経験を通して得た中道への道は、八正道以外にないと悟ったのであり、
八正道こそ、神理につながり、この世に人間が生存するかぎり、その神理は生き続けていくものであるから
なのです。

 もしも、釈迦の説いた八正道が、一つでも欠けてたり、一つでも、二つでも多くあったとすれば、二千五百
有余年にわたる仏教の歴史は、今日以上に大きな変化が、あるいはその教えはある地域の人びとのみに
とどまっていたかも知れません。

 それでは、その八つの規範、八正道について一つ一つ、解説を試みてみましょう。


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