http://www.geocities.jp/michi_niku/index.html
<転載開始>
いよいよ天国篇です。しかし、抽象的な文章が多くて、なかなか進みません! とりあえずここに載せておいて、終わったら見直すつもりです。。。(2005年11月8日)
第一曲
すべての物を動かす神の栄光は、全宇宙に(詩篇139の7-10、エレミヤ書23の23-24参照)染み通っていますが、受ける者の力によって、ある所ではとてもよく示され、他の所ではあまり示されません。私は第十天、すなわち至高天にいました。一度そこから下界へ降りれば、人は、話すべき知識も力もなくなって(コリント人への第二の手紙12の1-4参照)しまいます。なぜなら、わたしたちの知識は、神に近づき、深く探るにつれて、記憶は追いつけなくなってしまい、忘れてしまうからです。でも、その聖なる王国について私が心にしまった事柄で、私は詩を作りましょう。ああ、すばらしいアポロンよ(この祈りは、地獄第二曲、煉獄第一曲のそれと対応。アポロンは煉獄第二十曲参照)、この詩作のために、私を、あなたの才能と月桂樹(ギリシア神話のダプネは恋慕するアポロンを嫌い、逃げ回っていたが、ゼウスによって月桂樹に変えられた(『変身譜』1の452-567)。爾来この木はアポロンの聖木となり、詩人の栄冠として用いられる)の冠を受けるにふさわしい者としてください。私はこのようにパルナッソスの一つの峰(パルナッソスについては煉獄第二十二曲参照。この山に二つの峰があり、一つには学芸を司る九女神のムーサイが、他の一つに詩神アポロンが住む。地獄篇と煉獄篇では、ムーサイからの霊感だけで事足りたが、天国を歌うとなれば、アポロンの助力がないといけない)に向かって祈りました。でも、今は、天国を歌うので、峰の二つともが必要です。アポロンよ、私の胸の中に入って、マルシュアス(ギリシア神話のマルシュアス。プリュギアのサテュロスの一人。女神アテナが捨てた笛を拾い、身分もわきまえず、アポロンと笛吹の技を競うが、判定で敗れ、生きながら皮をはがれる。その時流れた血、あるいは彼の死を悲しんだ人々の涙が、マルシュアス川になったという。ダンテは『変身譜』6の383-391によってこの箇所を書いた)を体の皮膚から引き抜いた時のような力で、息を吹き込んでください。ああ、神よ、私の心に刻みつけられた至福の国の、せめて影だけでも、顕わにしてください。そうすれば、私は、私の詩のテーマとあなたに助けられて、月桂樹の緑の葉でできた冠をかぶるでしょう。父よ、皇帝(ダンテはカエサル以後のローマ帝国の支配者達をもこう呼んでいる。地獄第十三曲、煉獄第六曲参照)も、詩人も、人は世俗的な心を持っているので、そのような栄冠を受けることは稀です。人が月桂樹の冠を望み求めると、アポロンは月桂樹によって、さらなる喜びをもたらすでしょう。小さな光から大きな炎になるのです。ですから、私の詩に励まされて、私よりもさらに大いなる詩人が現れて、アポロンの助けによってさらに良く天国の歌を歌うこととなるでしょう。世界を照らす太陽は、様々な所から人間に届きます。でも、四つの圏が合わさって三つの十字となる箇所(四つの圏とは、地平・赤道・黄道帯・分至経線を言う。それが合わさって三つの十字となる箇所とは春分点のこと)から出れば、よりすばらしいコースをたどって、よりすばらしい星々(白羊宮、すなわち雄羊座)が結合し、春分の頃には、太陽が地球に最も恵み深い力を及ぼすのです。今(この旅が想定される1300年の春分は3月21日であったから、今ダンテのいる4月13日水曜日は、太陽はまだ白羊宮にあり、ほとんど同じ季節の内)、煉獄山のそびえる南半球では昼が始まろうとし、イエルサレムのある北半球は夜に入ろうとしていました(そして心地上楽園はまさに正午。ダンテが地獄への旅の出発を夕刻に、煉獄への旅の出発を明け方に、そして天国への旅の出発を正午に措定したのは、綿密な用意に基づく。『饗宴』4の23で述べているように、太陽のさんさんと燃え輝く正午はダンテにとって一日の内最もめでたい時刻であった。天国篇はこの時刻に、日神アポロンへの祈りと共に展開を始める)。その時、私はベアトリーチェを見ると、ベアトリーチェは左側の太陽を見ました(煉獄第三二曲にあるように、ベアトリーチェの行列は東に向かって進んでいた。太陽は北側すなわち左側にある)。どんな鷲でもそのように真っ直ぐと太陽を見つめたことはないでしょう(鷲だけが太陽を直視しても目はくらまないと、当時一般に信じられていた。ルカヌスの『パルサリア』9の902-903参照。天国第二十曲参照)! 光線が物に当たって、反射光線となるように、そしてまた、目的地に着いた旅人が再び故郷に帰るように、ベアトリーチェの所作を見て私も太陽を見つめました。地上の楽園は、神が、人類のために作られた(創世記2の8および15参照)所なので、北半球では人ができないことが、南半球の煉獄山状にある地上楽園・エデンでは、できることが多いです(ダンテが太陽を直視できたのもその例)。私は長くは見つめることができませんでしたが、太陽が、火からしたたり落ちる溶けた鉄に似た火花をあたりに散らすのは見ました。すると突然、神が、太陽をもう一つ作られたかのように明るくなりました(ダンテは地球を離れ、天上へ登っていく)。そこにベアトリーチェは立ち、目は諸々の天に向けられていて、私の目は高い所からベアトリーチェに向けました。ベアトリーチェを見つめると、グラウコス(『変身譜』(13の904-959)に拠れば、ボイオティアの漁夫で、ある日前人未踏の草地に座し、獲物を数えようとした所、魚が動き始め、自力で海へ帰っていった。グラウコスは草に霊験ありと考え、一茎を取って噛むと、海を恋する願いがわき上がり、大地に永遠の別れを告げ、海中に没して海神となる)が、草を噛んで海神の仲間になった時のような変化を、私も感じました。「超人」の事は説明できないので、恩寵によってそれを経験する時まで、このグラウコスの例で我慢してください。霊魂だけが昇天したか、肉体も共にであったか(それをダンテは、同じ経験を持つ聖パウロをまねて(コリント人への第二の手紙12の3-4)神のみぞ知ると、未決定のまま残す)、それは神のみがご存じです。ベアトリーチェの光で私を引き上げてくれたのは、神なのですから。神をしたってめぐる諸天球の運行は、神によって調節されたハーモニーに調和した歌(ダンテは『饗宴』の2の3の9で、神の宮居のある第十天に最も近接する第九天の原動天が最も速く運行するのは、形を持つ宇宙のいやはてに当たるこの天のいかなる部分も、他を動かすが、自らは動かず、静まりかえる第十天と接触したい、烈しいあこがれによると説明している。せがまれるままに諸天球を動かす神の概念は、アリストテレスの発想であるが、煉獄第三十曲にも出てくる諸天球の「調和した歌」を整え分かつ神の概念は、普通『スキピオの夢』の名で知られ、中世を通じ愛読されたキケロの『共和国論』第六巻18の18-19に基づくことが最も多い)によって私の心が捕らわれた時、私は太陽が燃え立つように輝いているのを見ました。地球上のすべての雨と川を集めても、これほどまでに大きな湖にはならないでしょう。このようにも明るい光の大きさと音は、初めてだったので、私はその原因を知りたいと強く思いました。ベアトリーチェは、私を見て、私の乱れた心を静めようと、私が質問する前に話し始めました。「あなたは誤解によって心を悩ませているのです。誤解によって本当は見える物が見えないのです。あなたはまだ地球にいると思っているのかも知れません。でも、第一天である月と地球の間にある火焔天からの光は、神のもとへ昇っていくあなたほど速くはありません。」ベアトリーチェが微笑んで話してくれたこの少しのことで、私は初めの疑問が解けました。しかし、新たな疑問が湧いてきました。私は言いました。「私の心に引っかかっていた疑問が解けて満足したものの、今度は、これらの第一天の月から始まり、第九天の原動天に到る軽い諸天体を、私はどうやって昇っていくかという疑問が生まれました。」ベアトリーチェは、私の質問を聞くと、憐れんでため息をつきました。そして、興奮した子供の言うことを聞いてあげるお母さんのように私を見ました。そして言いました。「森羅万象は、皆それぞれ違いますが、ある一定の秩序を持っているのです。この秩序によって、神の姿を現すのです。天使や人間のような被造物は、この秩序において、神の跡を見るのです。その秩序の中で、すべての被造物は、皆その目的である神を望むのですが、天の中でその位置が高い物も低い物もあり、また、役割が皆異なるので、火や地球のように神に遠い物もあれば、諸天使のように神に近い物もあるのです。ですから、皆、大海原を渡り、本能に舵を取らせてそれぞれの港へ向かうのです。この本能によって、火は地上にあっても月と地球の間の火焔天へ帰りたがります。本能がやがて死ぬ運命にある物(人間も含めて。なおこのあたりの発想についてはアウグスティヌスの『告白』13の9参照)の心を動かします。本能によって、地球は重力によって寄せ合い、各部が結合して離れることがないのです。理知のない被造物だけが本能の弓矢を駆り立てるのではなく、知性や愛を持つ天使と人間にも当てはまります。これらすべてを取り仕切る摂理は、その輝きをもって、最も速くめぐる第九天に当たる原動天をつつむ第十天の至高天(エンピレオ)を静まらせます。そして至高天へ向かって、本能の力により、私たちは昇っていくのです。しかし、芸術家が意図したことが材料にうまく反映されないことがあります。ちょうどそれと同じように、神の意図があっても、人が偽りの快楽に誘われて、方向を誤ることがあります。あなたが昇っていくことは、水が山から麓に下りるように、怪しむことはありません。あなたが、罪の重荷を下ろしても、下界にとどまれば、それは、地上に燃える火が静かであること(火焔界以外で火が静かなことはない)のように、不思議で、おかしなことです。」そしてベアトリーチェは目を天へ向けました。(2005年10月5日)(2005年12月23日更新)