達人さんの掲示板より
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs?from=bbsticker
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http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage3.htm 万葉集(神からの語り)に隠蔽されたヤーウェ神の言葉 万葉集の意味 万葉集には、マンエフシフと、マンニエフシフとの二通りの読み方がありますが、どちらの読み方でも、ヘブライ語で「神からの語り」という意味になります。 ミンニヤハシァフが、旧約聖書ヘブライ語の意味に習った音写ですが、「シァフ」には、「語り」の意味の他に「思い巡らす」「嘆く」「話しかける」という意味があります。ですから「神からの思い巡らし」「神からの嘆き」「神からの話しかけ」でも意味は通じます。これら神からの言葉は、神からの霊示として公衆の面前で行われたものではなく、神が霊媒に語りかけ、それを霊媒が筆記しただけのものだからです。 ヘブライ語の神は主に「エル」ですので、「ヨフ」と発音されるようになった「ヤハ」は、神というよりも「ヤーウェ」の意味のほうが強いと思われます。ですから、その意味は「ヤーウェからの語り」とするのが本質に近いかも知れません。 ただ、万葉集をヘブライ語で解読し分析した結果、霊示を出している神は二体であることが判りました。ヤーウェ神ともう一体の神は双子の神として知られた神であり、その神とはヤーウェ神の双子の弟とされているサタン化してしまったダビデであります。 ですから、万葉集全体を「ヤーウェからの語り」としてしまうわけにはいきません。 ヘブライ文の隠蔽 このサイトでしばしば語られるヘブライ文の隠蔽とはどういうことか?神からの語りとして霊媒を通して出されたヘブライ文を、子音のみをそのままにし母音を変えて、一見してヘブライ文とは判り難い文にしてしまうことです。その操作にはこれといった規則もなく任意で行われたものです。 例えば、edomuというヘブライ文の母音eouを、iuoに変えるとしますと、idumoとなり、auiにしますと、adumiとなります。この二つの語に漢字を充てると、前者は出雲、後者は安曇となり、日本の地名になります。エドムとは、ヘブライ民族の中の一つの部族名です。 この隠蔽ヘブライ文では、母音操作のみならず、母子音を入れ替えるという方法も採られています。edの母子音を入れ替えてdeとする、或いは、isをsiとするというようにです。 そして、それらの操作が行われた文は、最早ヘブライ文ではなくなり、それらを表記したものは、単に音を文字で表した、意味が伴わない表音羅列文に過ぎないものになります。それが漢字文で表記され、大和言葉、日本語で意味付けされたのが、万葉集なのであります。 ヤーウェ神の霊示を出した霊媒 ヤーウェ様から直接接触され、その神の霊示を出した霊媒は、聖徳太子、その人をおいて他にありません。 太子は二十代の後半頃から、ヤーウェ様によるヘブライ語の霊示を大量に出していました。それは十数年に及び、或る時期から、大量のヘブライ文の母音を変えて、表音羅列文にする作業を始めました。それは主に太子が斑鳩宮に篭って禅定に打ち込んでいたと言われている謎の七年間がその時期に当たるでしょう。 最初、それら表音羅列文は漢字文で表記されていましたが、太子が五十音平仮名と片仮名を発明したことにより、或る時期からは、平仮名で表記されるようになりました。母音操作の作業を進めるうちに母音は、あいうえおの五つに限定できる事を、太子は見出したのです。この段階で、r音とl音の発音の区別もなくなりました。早々に五十音に限定し、平仮名で表記することを始めたのです。 そして、後の世に、漢字文で表記されたものが「万葉集」「日本古代歌謡集」として、平仮名で表記されたものは「勅撰和歌集」としてまとめられ、今日、国歌として国民の間で親しまれるようになったのです。 多勢の歌人による歌集が、何故、ヤーウェ神の言葉と言えるのか? そもそも万葉集は、千人程の作者の歌が集成されたものである、その歌がどうして、ヤーウェ神の語りだと言えるのでしょうか? 結論から言いますと、万葉集の歌の作者は作者ではなく、太子の作った表音羅列文の読み人であったのです。編纂者と言われている大伴家持は、全国に散らばっていたその解釈された歌を一箇所に集めたに過ぎないのです。4500首余りある万葉歌のその殆どは、もともとは太子から出たものであるのです。 ヤーウェ神からのヘブライ語の霊示文は、ダビデのものも含めておおよそ一万首以上はあると見積もっていますが、それらは一貫した内容として捉えることが可能です。太子は長文の霊示文を、短く区切り一万首以上の短冊様に作ったものを用意していて、それを当時、ヤーウェ神が太子に降りたことを知り、太子を慕って来た人達に分散して持ち帰らせたと考えられます。 仮想のその短冊には、漢字と平仮名別々に表音羅列文が記されていました。 それは極めて大雑把ですが、漢字文の方は「神からの語り」、平仮名文の方は、倭歌、即ち、「ユダの歌」というように、分類認識されていたことでしょう。勅撰和歌集第一号の「古今和歌集」が編纂された際、「続万葉集」とも言われていましたが、「古今和歌集」の中にも、ヤーウェ神からの霊示文が含まれていますので、それでも間違いではないわけです。ただ、主に平仮名文で書かれていた為に、和歌集という形に落ち着いたのだろうと考えられます。 ヘブライ語の霊示文は、太子によって簡素化され、短く区切られました。そして、読み上げる際に調子よく、おぼえ易くする為に五七五七七を基本にし、母音も響きが調子の良い自然な流れになるように変えられ工夫されました。 ただ、霊示の内容が深刻で分割すべきではないと考えられたものも幾つかあったことでしょう。それらは、長歌という形で残されています。 万葉集編纂は太子没後、約200年後のことでしたが、その間、隠蔽された「神からの語り」は、太子の許に参集した人達の子孫によって大事に保管されていました。その子孫達の中に、大伴家持、柿本人麻呂、山上憶良、といった読み人達がいました。 そして、万葉集の編纂という、帝(みかど)の号令一下、「神からの語り」は、新しい日本という国の言葉、まだ未発達ではあったものの新しい国の言葉で意味付けされた歌、即ち、読まれた歌が集められ、その歌集は、「万葉集」と当て字されたのです。ですから、万葉集の読み人とは、歌の作者ではなく、あくまで太子の作った表音羅列文を新しい言葉で意味付けした人、解釈者であったのです。 そして、万葉集の編纂や、勅撰和歌集の編纂というイベントは、最初、全国に散らされたヤーウェ神の言葉を封じた歌を収集するのが主旨でした。それらが保管者によって新たな意味付け解釈されることによって、日本語の創造へ向けた定着と発達を促すことになりました。 |